今日は日曜で、学校の授業はお休みでしたが、課外授業の日でした。
バスで1時間くらいの場所に、ミャンマーの各地の歴史を紹介する大きな広い博物館があり、
そこに、生徒たちと先生たち全員で行ってきました。
校長先生(わたしの友人)が、出発前に先生たちとのミーティングの中で、そこで行うことを指示しました。
ミャンマーには大きく分けて6つの地域に文化が分けられるそうです。
そこでは、家の建て方や暮らし方、服装までも違うそうです。
子供たちを6つのグループに分けて、その地域の一つをグループごとに、
紹介する作品?をつくるという課外授業をしたいそう。
その地域の紹介をしながら、歌ったり踊ったり、劇にしたりして、
どのグループが一番優れているか、競わせる競争をしたいそう。
その私の友人である校長先生はとても子供好きのかたで、本当に子供に楽しんでもらいたいと思っているのです。
だから、こうやって、課外授業につれてきてあげたり、お菓子もジュースも有り余るほど与えてあげるし、自ら子供たちとコミュニケーションをとっている、とても優しい男性なのです。
彼は「子供たちにきちんと規律を教え込んで、でも、楽しませてあげること」と、先生ミーティングで指示をしていました。
でも、大人が思う子供の楽しみと、子供が受け取っている楽しみって、ちょっとずれがあるんじゃないかな、と思うのです。
わたしは、「競争」に激しく拒否感を感じました。
どうして、子供のうちから競争させるのだろうか。
競争することで、なにが得られるというのだろうか。優劣を植え込むだけではないか。
競争から、なにもよいことは得られないし、
大人になってからも競争ばかりで、みな、それが原因で心と体を不調和にさせているというのに・・・・。
そして一番優れていると判断されたグループにはご褒美をあげるとのこと。
では、もらえなかったほかの5つのグループは屈辱感を経験することになる。
それに、みんな一生懸命頑張って協力してひとつの作品を作るというのに、
一番になれずご褒美をもらえなかった5つのグループの子供たちは、自分がした努力が無駄だった、と思うだろう。
そして、一番になったグループの子供たちは、自分が人よりも勝っている、という優越感を経験し、さらに今後、もしも、なにかで一番にならなかったときには、とても空しい気持ちなるだろう。
大事なのは優劣ではなくて、子供たちの感性であり、その感性はひとそれぞれなのだから、優劣なんてつけるものではないと思う。
こうやって、子供のころから知らず知らずに、競争することを大人から植え込まれているんだなぁ。
子供は無垢だから、大人から植え込まれることだけでしか、世界を作れない。
この子供たちは、世界とはこんなふうに競争するものなんだ、と学んでしまうのだろうな。
そんなふうに、感じて、わたしはこの課外授業がとてもやりたくなくて、とても嫌でした。
そうはいっても、わたしはボランティアでお手伝いに来た身ですので、文句言わずに従うしかありません。
でも、わたしは、やりたくないことは、できないように、もう、全エネルギーが設定されていますので、
魂レベルで、違うよなぁ、と感じているのに、イヤイヤ、することができなくなっているのですね。
では、どうなるか、というと、体と全細胞が拒否に出ます。
すると、体調が悪くなるのですね。
今日も、わたしの体は激しく拒否反応を起こして、猛暑の炎天下の中でのピクニックに、すぐに熱中症になってしまい頭痛とめまいが、激しく、途中で動けなくなってしまいました。
これが、私の本意であることに対してであれば、自分の心のコントロールをして、前向きに頑張れたかもしれませんが、
心底から「それは違うよ」と感じていることに、自分で自分に嘘がつけません。
わたしは立ち上がれなくなってしまい、木陰で休んでいると、
私と一番仲良くしてくれている15歳の少年が、ふざけた調子で寄ってきました。
わたしが様子がおかしいのをみて、「どうしたの?」と聞いてきてくれて
「頭が痛いの」と答えたら、眉をしかめていました。
「楽しんでる?」とわたしが聞くと
「実は、あまりいい気分ではない」と少年は言いました。
「どうして?」
「人が多すぎる、うるさすぎる、公害がひどいこの場所は。静かなほうが好き。僕は楽しくないし、あそこにいる子も楽しくないって言っている」
彼は、いままでのキラキラの笑顔を、パッと、曇り顔に変えてそう言いました。
いつもおどけて、みんなにちょっかいを出して、ジョークばかり言って、コメディーな動きをしてみんなを楽しませている彼。
そのときも、ずっとその調子だったので、てっきり楽しんでいるのかと思っていましたが、
ああ、彼は、楽しそうなふりをしているだけなんだ、とわたしは気づきました。
先生たちは、楽しそうなふりをしている子供たちをみて、満足しているんだろうな。
こんなふうに、先生たちをがっかりさせないように、無意識に気を使っている子もいたりするんだろうな。
子供も、大変だなぁ。
スーパーライトワーカーだもんね。
しばらくわたしは木陰で休んでいて、ほかの先生たちがジュースを持ってきてくれたり、わたしを寮に返すために車を手配してくれたり、いろいろと気を使ってくれました。
本当に、迷惑をかけてしまった・・・・・。
しばらくして、また、お気に入りの彼が来ました。
「コンニチワ!」とニコニコの彼。
「こんにちは。 あなた大丈夫?」とわたしもなんとか微笑む。
「んーーーーー、NO!」
少年は、NO、と口では言っていても、顔はニコニコ。かわいい笑顔。
すごいなぁ、この年でもう、周りの和を乱さないようにこんな素敵な作り笑顔ができるなんて。
これは、大人は騙されちゃうわ。
子供が楽しんでいると、勘違いしちゃうよ、この笑顔は。
本当は「NO!」なのにね。
その少年はつい先日も、生徒全員でのレクリエーションの時に、参加しないでひとりでコンピュータールームでゲームをしていました。
どの先生も彼に気づかず、わたしだけ彼に気づいたので、コンピュータールームに入っていって、
「どうしてレクリエーションに来ないの?」と声をかけたら、
「人がいっぱいいるところは、あまり好きじゃないんだ。どうしていいか、わからなくなってしまう。」と少しだけ困った顔で答えて、そのあと素敵な笑顔でニコッとしてくれました。
わたしはそんな彼になんのジャッジもせず、「I understand(わかったよ)」とだけ言って、彼をそのまま残して出てきました。
彼の気持ち、すごくよくわかる。 わたしもそうだし。
だから、無理やり「参加しなさい」みたいなこと言って連れてくることせずに、彼の気持ちを尊重しました。
その後、彼は、ほかの先生に見つかってしまい、どこか別室に連れていかれていたので、きっと怒られていたのでしょう。
このケースの場合、参加しないことで、怒られる、というパターンは、彼にとって果たしてためになるのか。
わたしは、彼の気持ちがよくわかる。
わたしも、人がたくさんいるところは苦手だし、無理やりその中にいろ、と言われると、大人になった今でさえも、バランスを乱してしまう。
ひとそれぞれ、個性があっていいと思うし、彼の気持ちを尊重してあげてほしい、と思った。
でも、集団で行動するためには、歩調を乱すことは許されないんでしょうね。
すると、人間のいろんな波動が入り混じった「集団」というところでは、その不協和音的な波動で疲れてしまう人・・・・つまり、彼やわたしみたいな人・・・・・は、
自分でなにも選択できない子供の時代には、その豊かな感性を殺してしまわないと、集団に交わることができないのだと思う。
だから、大人になると、自分の真なるところとのズレが生じてきて、苦しんでしまうのだと思う。
そのレクリエーションのとき。
ほかの子供たちはみんな、とっても楽しそうで、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしていた。
子供たちから一番好かれている先生(男性のダンスクラスの先生)が司会をしていて、「次はだれかなにかやりたい人るかな?」とみんなに聞くと、
「グルジ!(先生!)」と誰かが叫び、「センセイ!センセイ!」と、大きなコールが全員から沸き起こって、その先生は困ったように笑っていた。
すると、別室でのミーティングから戻ってきた、一番怖い先生(20代のきれいな女性)がまるで鬼のような顔をして、ものすごい勢いで怒鳴り散らした。
彼女はミャンマー語で怒鳴っていたので、わたしには何を言っているのかわからなかったけれど、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか、とわたしは思った。
せっかく、みんなとってもハッピーで、ものすごく楽しそうだったんだから、このまま、楽しい気持ちで終われるように、うまく諭してあげることもできたじゃないか。
子供たちはただ、楽しくて、そのダンスの先生のことが好きで、それを表現しただけなのだから。
全然、悪いことしているわけじゃないのに。
ただ、楽しいだけなのだから、怒鳴らなくてもいいじゃないか。
わたしは、なんだか、悲しくなってしまった。
大人や先生の言うことを聞かせるだけが教育なのか?
悪いことをしたら叱るのは当然だけれど、大人の都合で子供の気持ちを考えずに、ただ言うことを聞かせるために怒鳴るのは、教育なのか?
今回、こうして、子供たちの夏合宿の学校の場に身を置かせていただいて、
毎日、毎日、観察させていただく中で、激しく感じるのは、
学校は、子供になにを教えるべきなのか。
人間が生きるということはどういうことなのか。
ただ、集団行動の和を乱さないようにするとか、
みんなと同じことをするように訓練するとか、
与えられた宿題をきちんと完璧にするとか、
楽しくてはしゃいでしまう気持ちを抑えてまで列を乱さないようにするとか、
20分で朝ご飯を食べ終わらなければいけないこととか、
誰かと競い合ってそれに勝つために頑張るとか、
明日までにこの単語を10個覚えて来いとか、
ご褒美のために努力するとか、
そういうことを教えるために、学校ってあるのか?
それができると、人間は完成するのか?
人間って、なんなんだ?
でも、社会で生きていくためには必要なのかもしれないけれど、
果たして、社会で成功している人というのは、本当の意味で幸せなのか?
本当の意味で人間として成功なのか?
魂は解放されているのか?
「無条件で幸福」な子供の個性を、枠の中にはめ込んでいるだけじゃないのか?
だから、大人になると、この「無条件で幸福」というのを忘れてしまうのではないのか?
子供のころから枠の中にはめ込まれて、そして、大人になってその枠に苦しんで、
枠から出たくて仕方ないのに、出れなくて苦しんでいる。
ちょっと、熱くなってしまった。
すみません。
わたしは、子供が大好きです。
これからの世界を担うのはこの子供たち。
世界を変えるのはこの子供たち。
そして、その子供たちを育てるのは、わたしたち世代。
子供は、大人からの情報のとおりに成長するから。
今までと同じようにしていたら、世界の霊的な進化は期待できないのだから、
わたしたち世代が、霊的に気づいて、目覚めて、枠からでなければいけないのだと思う。
今日は、なんだか熱くなってしまいました。