2022年04月20日

モヤモヤは成長の種



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≪モヤモヤは成長の種≫

私のリアルいま体験をシェア。

一見「やめたほうがいい」と(ジャッジしようとすれば)見える、ある行動を、

毎日、繰り返してる自分に気づいていて、そんな自分を観察していて、

その行動には意味があって、私に必要だから繰り返してる、とわかっていたので、

それを無理矢理、力付くで止めようとせずに、好意的な眼差しでずっと傍観していた。

そこにはやはり正当とも言える理由があったのがわかったし、

その理由を知ると、自分自身の繊細さと傷つきやすさに理解ができたから、

そう簡単に

「やめなさい」

と自分にいうのは、違うと思った。

そして、毎日の瞑想と内観の中で、なるほど!と辻褄があったのは

「私の、今いる結構深いプロセスは、かなり複雑なのでサポートが必要」

ということで、でも

「どんなサポート・ヘルプが必要なのか具体的にはわからない」

だから、誰にも打ち明けることができず、

だから、サポートを求めて(でも言えず)、繰り返し、ある行動をしていたんだな、と合致した。

誰かに「サポート!ヘルプ!」と言えば、皆きっと喜んで手を差し伸べてくれるだろうけれど

相手から「さあ、どうやったら力になれるかな?」と聞かれるのは当然で、

でも、「どんな?」がハッキリしていないから、助けを求めることもできなかった。

でも気づいた。

今の自分に何が必要なのか、明確になってから「ヘルプ!」と叫ぼうと、

マインドで一生懸命、答えを見つけようと頑張っても、

答えなんて出てきやしないというのに、まだやってる。

ああ、そうだ!

人間に「ヘルプ!」を聞くなら、やっぱり「どんな?」の答えが必要だけど
スピリットに「ヘルプ!」とアピールしたら、答えなんていらないじゃないか。

ああ、なんて簡単。シンプル。

それでもマインドがしつこく注文してきたら

「どんなサポートが必要なのかを見つけるサポートして!」

と、スピリットにお願いすればいいんだ。

あはは!な気分。

そうだ、それだよな。

そして、瞑想の中で、踊りながらお願いした。

「スピリットよ!ヘルプ!サポートして!」

すると、たった一日で(朝お願いしたらその日の夜)、早くも出来事が起こった。

スピリットは「どんな」の答えの代わりに、コネクションである一つの象徴を、

私の目の前にタイミングバッチリで出現させた。

その象徴とのコネクションが「どんな?」を明るみにしてくれるのは確実だった。

私は突然現れたそれを感じるやいなや、

ハートが震えて、両方の瞳からサラサラと静やかな川が流れ出た。

これだーーーー。

そして私は、そのコネクションと共に、

3世界を旅する瞑想に出かけた。

その瞑想の旅の中で、

「私の魂が、今の私に一番大事にして欲しいもの」

が如実にクッキリと見えた。

そして、見えたからこそ

「私の魂にとって一番に優先するもの」

が、実は、

「私という人間が、人間として、人の子として、優先したほうがいいと思っているもの」

に、干渉されて混乱させられていた、ということがわかった。

とはいえ、その人間サイドの声も、人間的愛着からのものなので、

決して悪者ではなく、むしろ、愛のカテゴリーのものだったから、

そちらを選択したとしても、決して、間違いではなかったわけだけれど、

今・ここにいる、私の魂が、どうしても「いま」選びたいのは、もう一方のほうだった、というだけのことだ。

そして、

両方ともが、実のところは私にとって大事なものであって、

とはいえ、一個ずつしか手に持てないのであれば、

どちらかは、(今は)見送らねばならないのは必然で、

そうすると、選択しないで置いていくものから、しばし離れることになるから、

少なからず、寂しさや罪悪感のような気分がハートをよぎるのだけれど、

とはいえ、一個ずつしか持てない事実は変わらないので、

行動としては表すことはできないけれども、

ありったけの愛を送ることが今できる最善だ、それでいいんだ、

と内側で認めると、

そこでやっと、本来の選択へとフォーカスする許可を、自分自身に出したことになって、

さらに、道が明るく開けてきた。

さあ、まずは明日、やるべきことがハッキリと分かったから、

あとは、起こるすべてを、一つ一つ丁寧に抱擁しながら、

次のビジョンへと向かうステップを踏む。

そうして、このプロセスの先に、具体的にどんなサポートが必要なのかがクリアーに見えてくるから、

それを経て、愛でつながる人間のかたがたに、サポートをお願いする。

すると、私も、その方々も、共に人間的・魂的に成長し、響き合っていくだろう。

***

私が、人生でフル活用している

「3世界を旅する瞑想」を、ドラムと共にナビゲイトします。

ぜひ、体験しに来てください。

急遽開催!
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4/26火曜19:30日本時間

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2022年04月06日

日常をセレモニーに


《つぶやき・日常をセレモニーに》



いま読んでいる本、法隆寺など歴史的な建造物を専門にしていた宮大工さんのエッセイなのだけれど(日本語の本が無性に読みたくって、日本人生徒さんからお借りした。ありがとう!)、

とっても興味深くて面白いのです。

電動機で木を切ると、木がすぐにダメになる、とか。

質のよい斧で切ると、いつまでも生きているようだ、とか。

昨日読んだ範囲で、特に私の好きな部分は、

伝統的な斧には、片面に「御神酒」の象徴が、もう片面には「4エレメンツ(地水火風)」の象徴が刻まれていて、

本来なら、木を切るときに、御神酒や五穀をお供えしたいところだけれど、

山の中でそれができないので、

代わりにその、「象徴」が刻まれた斧を、これから切る木に立てかけて、

感謝とリスペクトの儀式をしてから切らせていただく、とか。

日本の昔の伝統は、いつでも自然信仰のエッセンスがあって、私はとても好きだなあ。

私は、日常でも、何げないことを「セレモニー」にして、自然スピリットとのコネクションに感謝したい、と努めているのです。

そして、こだわりを持って何かを作る・創る人たちが、好きです。



例えば、

コーヒーを本格的に淹れる作業は、もうすでのセレモニーだと思うのよね。

炎の強さや、水の質、温度、豆の挽きかた、コーヒーの注ぎ方などなど・・・相当細かいところまでこだわっているのは、すでにセレモニー(儀式)だよね。

そういうこだわりが、大好きです。



コーヒーやお料理に関していえば、私は絶対に本物の火を使いたい派で、

電気のコンロ(なんて名前だったっけ?IHだっけ?)ではなくて、炎で作るからこそ、火と水と風と大地が創造を起こして、人間のエネルギーに活力を与えると思うのだけれど(電子レンジなんて、もってのほか)、

悲しいことに、ドイツでは本物の炎を使えるキッチンは、ほぼ皆無で(今のところみたことない)、

どうしても、炎で調理したい!と夫に懇願したけれど(いま新居を探している)、それはほぼ不可能だろう、とアッサリ言われてしまって、

合理的な文化のこのドイツはツマラナイなあ、なんて思いながら、

最終手段はキャンプ用の携帯ガスコンロなど、自分の趣味用に買おうかな、と思っていたりする。



私は、モカ用のコーヒー淹れ(なんて名前だろう?イタリアの友人はモカマシーンと言っていたけれど)を使うことがある。

下段に水を入れて、弱火でポコポコ沸かして、温まったお湯が上に上昇してコーヒーとなって、溜まるやつ。

なぜそれを使うかというと、

火は、上へ上へと向かい、水は下へと向かう性質でしょう。

で、本来、下に向かう性質の水を、火が下から持ち上げて、コーヒー粉を通過して変容して出来上がるから、

変容のエネルギーが高いと思うのよね(持論)。

本当は、本物の火でやるのが、私にとってはベストなのだけれどね(火×水=錬金術)、ドイツでは不可能・・・悲。(でもドイツは無農薬のものが日本よりも断然豊富だからその点は嬉しい)

でも、上からコポコポ・・・ってフィルターに注いでいくやりかたの、一つ一つ丁寧な作業も好きだったりもする。

そのやり方は、下へ向かうという水の性質の良さを活かしているのよね。

だからそれぞれ、味やエネルギーが違うんだよね(私が飲むのはノンカフェインコーヒーだけれど)。



私的に、日本にいるときのほうがお料理が楽しいのは、好きな食材が多いという理由だけではなくて、やっぱり、本物の炎を使うからだな、と思う。

ガスコンロだけれど、電気よりは、エネルギーレベルが良い。

ピザやパンも、電気オーブンで焼くよりも、窯で焼いた方が美味しいし、

お風呂も電気温水よりも、薪で焚いたほうが、断然気持ちがよいし、

お米も薪で炊くと美味しい(土鍋や釜だとさらに大地のエネルギーもプラスで美味しい)。

それは、電気ではなくて、本物の炎を使ってるから、という理由もあるけれど、

人間の手間暇と労力がセレモニー・儀式となって、自然スピリットへの感謝になってるから、

その意識が反映されて、

肉体へのよい効果として現れる、というのも理由のひとつだろうな、と思うのよね。

食べ物に関して言えば、見える要素は体を作り、見えない要素はエネルギーに反映すると思うの。

人間の身体も地球の一部だから、自然スピリットの恩恵を余すことなく受けとると、

肉体が喜び、活性化するのだろう、と思うのよね。



そんな目線で、何気ない日常の、慣れ親しんだ行動を、改めて見つめてみて、

そして、

何も考えずにただ習慣化している、生活の動作の一つ一つを、改めて、新鮮な目線で見つめてみて、

その些細な日常のひとつひとつを、セレモニーとして感じていったなら、

私たちの人生への、向き合いかたが変わると思うのよね。

と、わたし、

柔らか〜く、やんわ〜りと、日常の意識の変換を、オススメしてたりしてます。

ほほう、宮大工さんのお話しを書き始めたのに、終わりはこうなったか〜。なるほど。

こんなふうに、自分の感性をリスペクトして任せて流れるまま出てくるままに書くことも、私にとってはセレモニーだったりする。

手直しせずにこのままあるがまま投稿してしまおう。


日々、綴っています。
インスタグラム、フォローしてくださると嬉しいです。

Instagram : yukilakshminarayani


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2022年02月21日

アルケミスト・夢

《アルケミスト・夢》

受け入れがたい事実に直面。

「いつかやりたい」と願っていたことがあって

それは10歳の頃から「やりたい」と思っているので

私の人生の重要な「夢」であるのだけれど、

目の前の興味や感動や情熱に夢中になって

「いつかやろう」と後回しにしていた。

私にはその才能があることは10歳の時から知っていたし、

実際に30代ではその「やりたい」を夢中になってやっていた時期もある。

だから、「後でまたあとで」、と置いといても、

きっと私はその「いつか」がやってきたときに、

才能をフル活用できるに違いない、と信じていた。

だって私にはその才能があることは、10歳の頃から確信を持っているのだから、

ひとたび、やる気スイッチが入れば、留めていた才能が溢れ出るに違いない、と疑いもしなかった。

でも、なんてこった。

ここ数日、その「やりたい」と思っていたことに気が向いて、

チョロッと取り組んでみるかー、と時間を過ごしているのだけれど、

どうにも上手く、その才能に繋がらない。

とにかく、昔のように・・・10歳の頃と言わずとも、せめて30代の頃・・・、のように流れるように進まず、

これまでずっと、絶対的にその自分の才能を信じていただけに、

大きなショックで愕然としてしまった。

これは、老いだけで片づけられない。

自分を活かすのも、潰すのも、自分次第なんだ。

私は、「私という人間の人生を、活かして生きていく」、という使命を担当しているのだから、

大事な才能を潰しちゃイカンよな。

要するに

「いつかやりたい」と願っている夢は、

「いますぐ取りかかるべき」だ。

自分を腐らせちゃイカン。

失ってからでは、手遅れだからね。

これを書いていて、ふと思い出したのは、

昔、オーストラリアを旅していた頃、バイブルにように持ち歩いて読んでいたパウロ・コエーリョの「アルケミスト」という本。

あれは20代の頃、バックパッカーを始めたばかりの頃だったな。

無期限ノープランの旅に出る直前に当時の彼氏からのプレゼントだった。

何度も何度も読んで、かなりいい味だしてたボロ感の本になっていた。

老いるというのは、あのクリスタル商人のようになってしまうのか。

いや、「老いる」というのは「進化する」ということだから、

やりようによって、いかようにも成れるはず。

だから要するに

「いつかやりたい」と願っている夢は、

「いますぐ取りかかるべき」だ。

放っておくといつか腐ってしまうのを知っていて、どう腐らせずに自分を活かすか。

肉体が終わってしまう前に。

だからやっぱり要するに

「いま」だな。

ヒューヒュー!

***

《オンライン個人セッション好評です》
かなり深いワークを提供しています。

◎ヒーリングスピリチュアルカウンセリング(魂リーディング)

◎お任せなすがままシャーマニックワーク(過去世のトラウマの癒し・霊の癒やし・プチ能力開発・封印解除・浄化・開運・霊媒などなどなすがまま)

◎創造療法〜セルフクリエイティブセラピー(創造と身体表現で無意識層からのメッセージを三次元に顕現化)

◎スーパービジョン
(すでに高次元エネルギー能力開発ワークをお受けになったかたへ)

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メール:
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2022年02月07日

太陽と月の出会い・FIRE of JOY



≪太陽と月の出会い・FIRE of JOY ≫



自分の中に炎がきちんと燃えていると、

喜ぶべきことにきちんと喜ぶことができる。



興奮するわー!と感じることも、

大笑いしてバンザーイ!することも、

イエーイ!と喜びを素直に体全部で表すことも、

内なる炎が、自分にベストな状態で燃えていると、

すんなりとなんの躊躇いもなく、無邪気に喜びを表すことができる。



反対に、内なる炎が弱っている眠らせていると、喜びを表現することが難しい。

内側の炎は、怒りや憤りの時にも使われることもあるけれど、

その炎の「クオリティ」は、喜びの時と同じであって、

それを、どう調理して肉体レベルで感じているかの違いだと思う。



セクシャリティも、内側の炎が、違う形で調理されたエネルギーだと思う。

このセクシャリティはとても大切で、

男も女も、知らずに自然に他者のセクシャリティのエネルギーを感知していて、

そして、同性でも異性でも「惹かれる」という人というのは、

このセクシャリティの炎がきちんとその人レベルで適切に燃えているのだと思う。



そしてそれには、

男性的な側面である炎(=太陽)と、女性的な側面である炎(=月)の、その両方が内側にあって、

それらが、うまく融合して・・・いわば、自分の中でバランスよくまぐあっているという感じで、

そういう状態の時の人が、その人の創造的ななにかを発揮すると、

人々はその独自の個性的な炎のエネルギーに惹かれて、心を動かされたり、感動したりする。



そして、一人一人みな、その炎は内側に持っているから(眠っているときもあるけれど)、

そんなふうに、内側の炎を燃やして輝いて生きている人を見ると、自分の中の炎のクオリティが共鳴して、

自分も元気になったり、ポジティブになったり、胸がときめいたりして、

その人に共感したり、ありがたく感じたりするのだと思う。



大切なのは、

くすぶっている内側の炎を、今の自分レベルで最善に使っていくことだと思う。



怒りのエネルギーは怖くて表に出すのは躊躇われるけれど、

純粋なクオリティのところでは、喜びや魅力エネルギーと同じなのだから、

その炎をどう使っていくかを自分で選択することで、あなた本来の人生というアートが描けるのだと思う。



奥のほうに押し込めて、見せないように出さないようにしている、大胆さや激しさ、感情的なスパークを、

ただ、そのままの形で爆発させてしまうのでは、自分も誰かも傷ついてしまうだろう。



だから、私たちは出さないように見せないように、無かったことに見ないようにして抑圧している。

すると、不完全燃焼でくすぶっている炎は黒い煙をあげて、私たちを苦しめる。



だから、自分も誰かも傷つくことなく、

その内側の炎を変容・トランスフォームして、有効に活用していくことが希望的な考え方だと思うし、

それこそが祝福なのだと思う。



有効に活用する・・・ってどういうことか?


🔥🔥🔥

「FIRE of JOY 喜びの炎」

🔥🔥🔥


人生は、アートだ!

2/8火曜19:30日本時間
「Movement Medicine Elemental Dance FIRE of JOY序章 陰×陽=新」


詳細はこちらのページをご覧ください💛
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/485447073.html

※録画でのご参加が可能となりました。オンタイムでご参加が難しいかたもどうぞ(視聴期限は2/13日曜まで)



音楽のサーチ・セレクト・バランス・ミックスがいま終わりました。
準備万端。
気分は、焚き火をいま起こして、みんなを待っている感じ。
とても美しい炎が、パチパチと、すでに燃えているのを静かにしなやかな気分で見つめている感じ・・・。



今回のワークショップは、序章で、ここから深めていく続編がこれから開催されると思います。(いつになるのかは宇宙にお任せ)



直前のご案内ですが、どうぞぜひ、飛び込んでご参加ください。
あなたの命の炎に、良質な薪と新鮮な風を与え、育てて、成長させていきましょう。



ご縁がつながるかたがたと、美しい炎を囲むことができますことを楽しみにしています。
合掌
ユキ ラクシュミナラヤニ


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 20:25| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月25日

ヨーガアーサナを通して伝えたい素晴らしいことがあります



《肉体は祈り》

ヨーガアーサナを通して伝えたい素晴らしいことがあります。



私がアーサナをしているときは、

完全に明け渡して、ただただ「祈り」として身体を使っています。

この身体の中心と繋がりながら動くことで、地球のすべての存在の「中心」との繋がりへの祈り。

この身体と寄り添いながら動くことで、地球へ寄り添い、地球の命へ寄り添っているという祈り。

動きの中で、エネルギーが天と地の方向へと向いて、天と地を私の動きが繋いでいること、それに気づいていることが祈り。

自分の身体に「与える呼吸」をすることで、地球のすべてに「与えている」という祈り。

この呼吸、この汗、すべての関節から繰り出されるムーブメント、すべての筋肉から生まれだされる支えあう力、

そのすべてを見守っている私の意識、そして、完全に自分の身体を信頼していること、

大いなる目線で、身体と動きを見守り、育み、養い、与え、受け入れ、認める・・・

意識を内へと、全体と繋がる、すべてが、祈り。

それを経験するモーメントが、私にとってのアーサナです。





すべてのアーサナは礼拝となり、その礼拝は、この肉体と、その肉体が織りなす動きによって生まれます。

そして、この肉体とは、紛れもなく地球に属していて、地球の細胞の一つであり、

私という一つの細胞が、肉体と動きと意識を全体に注ぐことによって、

地球すべてへの祈りとなります。

なぜなら、私は地球の細胞の一つ、だから、私は地球なのです。

この私という小さな細胞で起こっていることは、確実にほかの細胞たちにも繋がっているし、

目に見えるとか、頭で理解できるとか、そういったところを超えた大きな部分で、

私は全体の一部なのだから、私に起こる出来事は、地球のほかの細胞にも響きます。





「命」とは「動き・ムーブメント」です。

肉体を動きの中で意識し、そして自分を大きく拡大しながら、個である中心と繋がっていくと、

それは私の「命」の活性となって、地球全体への祈りに変えていくことができます。

私のヨーガは、そういうヨーガです。

それを、生徒さんがどこまで受け取ってくださるのかは、そのかた次第なわけですが、

少なくとも、わたしが伝えたいのは、そういうことなのです。





私がヨーガと名の付くエクササイズを指導し始めて、20年が経ちます。

その前には、ジムトレーナーをしていたり、ダンスを教えていましたから、その頃から数えると23年ほど、身体に関わる指導をしています。

最初はジムでするタイプのヨーガ指導から始まりましたが、徐々に、真髄へと移行していきました。

インド渡航歴は20回ほど、ヒマラヤのアシュラムで世界中の人を相手にティーチャーをしていたこともあります。

そして、指導者になる前から実践者でありましたから、かれこれ、27年くらいは身体を意識的に使うことをしていまして(ダンサーで毎晩ステージで踊ったり、サーカスパフォーマンスで数回ショーに出たりという稀有な経験もあったりして)、身体を通して、たくさんの魂の学びをしています。

そして、これだけ長く実践者・指導者として生きてきていても、

今もなお、まったく飽きもせずに、身体の神聖さ、身体が持つスピリチュアリティに、

まだまだ、ずっと夢中で、

自分の身体の動きを通してする瞑想から、毎日たくさんの魂の気づきを教えられています。

私のヨーガは、瞑想です。

そして、

私が伝えたいのは、身体の動きを祈りにすることです。

そして、

私自身アーサナから学んでいるのは、地球との繋がりです。





まさに、アーサナは、身体でムードラーを形作っているということを実感しています。

意識次第で、エネルギーの流れ、動き、循環が、

アーサナごとに大きく変化するのが

ありありとわかります。

ムードラーとは日本語で、印を結ぶ、という意味です。

私は、机上のお勉強で学んだことは、かなりさっぱりとわりとすぐに忘れていってしまいますが、

自分の肉体を伴う経験を持って学んだことは、いつまでも身体が覚えています。

ですので、このアーサナはこうでああで・・・、というお勉強レベルのことを教えるのは私の役割ではありませんが、

その印を結んだ肉体から、どう受け取るのか、どう感じるのか、ということをシェアすることにはとても長けています。

そして、それこそが、私が皆さんに、アーサナから受け取っていただきたいことであって、

身体が柔らかいとか硬いとか、ポーズができたとかできないとか、痩せるとか、ポーズの名前を覚えるとか、

そういったことは、私には、とにかくどうでもよくて、

私が伝えたいことは

「どう感じ取るか、どう受け取るか、どう繋がるのか、どう意識を拡大していくのか、どう全体とひとつになるのか」

ということです。

いまの私が繋がっているのは、そういうヨーガです。





私は20年以上指導していまして、キャリアがそこそこ長いですから、

私の成長と共に、指導スタイルもどんどんアップグレードしていますし、

ヨーガの先生によって、そのかたが感じる善きものをシェアしているわけですので、

人それぞれの個性があり、その時それぞれのカラーでもありますから、

「ヨーガとはこういうもの」と定義づけるのが、私は好きではありません。

なので、私のヨーガが真実である、とか

他のスタイルは間違っている、とか

そういうチッポケな目線でのことではなく、

誰とも競争していないですし、何が正しいとか間違っているとか、そういうことはどうでもよくて、

ただただ、私がヨーガを通して伝えたい、と思うことをただただ、伝えていくだけです。

「これが本当のヨガなんですね」と生徒さんから言われることが、しばしばありますが、

私はそれに、YESもNOも答えません。

私は、私の提供しているのが「本当のヨガ」だとは思っていないですし(そもそも「本当の」とはどういう意味だろう)、

誰かの提供しているのが「偽物のヨガ」だとも思っていないですし(皆それぞれの魂のお仕事だから)、

私はただ、私の伝えたいことを、ヨーガを使って伝えているだけなので、

「本当」も「偽物」も、そういうジャッジの目線ではなく(みんな違ってみんないい)、

私自身が、ヨーガ哲学やアーサナを通して経験してきたことを、

ただただ、伝えているだけです。

そして、

それに共鳴するかたがたへ、持っている経験のすべてを惜しみなくシェアします。

それは

誰かから習った感性ではなく、私自身がアーサナを通した「経験」で培い養い育てていった感性であって、

だからそれを伝えるためには、

生徒さんに「経験」の中で感じて受け取っていただくしかないのです。

そして、きっと、

ヨーガがこれだけ長く世界的に愛されているのは、

その「経験」が、本当に素晴らしく根源の喜びに繋がるからなのだと、わたしは思います。





私にとって、アーサナも、踊る瞑想も、結局は同じところに繋がっていて、

「身体を使った瞑想と祈り」に、型があるのか、またはフリーなのか、というだけで、

その両方にそれぞれの良さがあります。

きっと、人によっては、ヨーガアーサナのように型があるほうが安心するでしょうし、

また、人によっては、ダンス瞑想のように型がないほうが楽にできるのでしょう。

私はたまたま、型があるのも、型がないのも、どちらでも「自由」を感じることができますので、

私の人生にとっては、両方のスタイルが必要であり、

両方から受け取るギフトが違い、とても豊かであります。

私はヨーガが好きですし、アーサナという祈りが好きです。

型の中の動きで自分らしさを探求していって、自分の良さを活かしていき、

全体と一つになる、地球と一つになる、中心と繋がる、その感覚がとても好きです。

それを感じて受け取っていることも、

そして、それを好きだと思っていることも含めて、

それは、私にとって、やはり「祈り」なのです。





「オンライン・シヴァナンダヨーガ」
7/29木曜 日本時間20時
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/479645501.html

※8月は夏休みをいただきます。次回の開催は9月の予定です。

「オンライン・プライベートヨーガ」
もやってますよ。
お問い合わせくださいませ。


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2021年07月19日

自分自身をもっともっと幸せにするためには


どんな人間関係の中でも、

自分自身をもっと幸せにするためには

「ちょうだい、ちょうだい」

ではなく

すでに与えてくれていること、にフォーカスする。



ちょうだい、って思うことは

=なんでこうしてくれないの、と思うことと同じ。

「なんでそうなの、もっとこうだったらいいのに」、

っと不満に思うのは、「もっとちょうだい」、と同じことだから

自分の理想と相手が違うからといって

相手を変えようとする=こうなって欲しいと願う、ことは

実は自分自身を不幸せにしていることだから



その代わりに、

どれだけ感謝すること、祝福することがあるか

一個一個探してみて、

その感謝をちゃんと相手に伝えること。



他人は自分のフィルターで物事を理解するから、

行動や仕草や匂わすだけだと、伝えたいことはきちんと伝わらないよ。

だから言葉で伝えるのが、一番ダイレクトだ。

「愛してる」「ありがとう」という言葉は、

口に出して伝えると、

ハートからさらに愛と感謝が溢れてきて

自分自身を幸せにするんだ。



恥ずかしがってたら人生終わってしまう。

どんどん愛と感謝を伝えて

自分を幸せにしよう。



出し惜しみしてたら、どんどん時間は過ぎてしまう。

大切なのは、なにに感謝をしているのか、ちゃんと言語化すること。

ただ、ありがとう、だけじゃすり抜けちゃうから、

「あなたが○○をしてくれて私は○○に感じた・なった、ありがとう」

と、理由+どう自分に良かったか、を伝えることで、

より、自分の中で自分自身への理解が増すから、感謝が増えて、

自分自身をもっと嬉しくさせる。



それを、声にすることで、自分の耳もその言葉を聞いてるし、身体は声の振動を感じてるから、

身体の細胞レベルで「感謝」を記憶することができるんだ。

そう、身体は私たちの言葉を聞いているし、記憶していくからね。

気をつけて、日々、人間関係の中で、練習しているつもりで培っていくと、

愛と感謝ばかりを見る・感じる・受け取る身体になっていって、

人生は、そういうものになっていく。



私が日々、気をつけて実践してることです。

まだまだ、学びの途中ですが。

でも、意識することで、たくさんの気づきと収穫がある



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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 21:42| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月30日

いま必要な対策って


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本当の意味での、いま必要な対策って

〜〜〜

自分の中心にしっかり立って、

どんな時でも自分の内なる自然とガッチリ繋がって、

地球に生かされている喜びと感謝を持ち続けること

〜〜〜

だと、私は信じている。

もちろん、マスクも手洗いもしたらいいと思うけど、

この地球の現象は、マスクと手洗いを私達に学ばせるために起こっているのではないことは明らかだし、

不安と恐れからは冷静に学びが見えてこないだろう。

もっとポジティブに、地球の未来に繋げていく学びのために、

一人一人の私たちが、「気づく」ことを、刺激されている、と思う。

だから私は、伝え続けよう、と決めた。

〜〜〜

自分の中心にしっかり立って、

どんな時でも自分の内なる自然とガッチリ繋がって、

地球に生かされている喜びと感謝を持ち続けること、を。

〜〜〜

ただビクビクしながら、すべてを奪われ、何もせずに、事が去るのを待つのは、

私には、奴隷のイマジネーションが湧いてしまって、身体が全力で拒否するのがわかる。

そうではなく、私は今この時期、どう過ごしたいのか。

今こそ自分を整えて、この先に繋がる道が喜び踊るものとなるための、

準備期間にしたいと感じる。

だからこそ、これまでの人生での反省点を見つめ直して、ポジティブにそれをトランスフォームして、

より豊かさを受け取り、人間同士の許しと理解に溢れた、

「わたし」を準備したい。

そして、この地球に、「地球の一部」として生かされていることに目覚め、

愛と感謝で地球全体と手をつなぎたい。

そのために、

〜〜〜

自分の中心にしっかり立って、

どんな時でも自分の内なる自然とガッチリ繋がって、

地球に生かされている喜びと感謝を持ち続けること。

〜〜〜

私はそれを、伝え続けることを諦めない、と決めた。

誰がなんと言おうと、いまそれが一番重要だと感じる。だから行動する。

私にとって、それを伝えていくことが、この特殊な時期への対策だと信じているから。

この先も生きていくためには、自分が「生きるに価する存在なのだ」という真実を磨いていこう。

どうせ、新しい生き方、新しい世界になるのだったら、

より真なる豊かさと、より信なる喜びの、新しい人生を創りたい。

そのための、いま。

だとしたら、「いま、どう生きる?」

《ジャパン活動スケジュール≫

こちらのページで随時変更更新中。


※森や自然の中での開催、または、人数制限された十分な広さの会場です、ご安心ください。
※すべてご登録制ですので、あらかじめお申し込みください。

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2021年04月21日

「リスニング・相手を聞く力は、世界の平和に繋がる」



「リスニング・相手を聞く力は、世界の平和に繋がる」



リスニング.jpg



ここ数年、わたしが生活の中で深く感動していることは、

「リスニング・聞く力」を養ったことで、人間に対する恐れが少なくなり、反対に、人間への理解と愛が増えたということです。

それは、私にとって、革命的に、人生を豊かにしてくれることだと感じています。

どのように相手の話を聞くかによって、話している相手を傷つけることになってしまうこともあったり(良かれと思って言うことでも、相手は傷つくことがある)

また、聞き手の聞き方によって、なにか特別なことをしなくても、話し手にとって大きな癒しになったりもするのです。




私自身、ずっと昔から、とても繊細で、しかも、エンパシックコネクションが強くて、すぐに相手の感情に巻き込まれて同化してしまうので、

どうやったら自分をプロテクトしながら、かつコミュニティの中で生きていけれるのだろうか、と今よりも若いころ、かなり悩んでいました。

(その詳しいお話はまたいつか・・・)


私が話す言葉に返ってくる言葉の数々で、とても傷つき、「もうなにも話したくない」とどんどん、自分の気持ちを表現することを殺していました。

昔はそんなだった私が、今はスピリチュアルカウンセリングのお仕事をしているのは、その経験から学んだことを活かしているからです。

「人の話を聞く」・・・・というのは、「その人の問題の解決をしてあげること」・・・ではないのです。



よくありがちな、受け答え。



「でも、それもありじゃない?」と不用意に元気づけられたり、

「そんなことないよ〜」と軽々しく言われたり、

「ほら、笑って笑って!」と無理に強いられたり、

「こうしたほうがいいんじゃない?」とアドバイスされたり、

「それって、こういう意味じゃない?」と、分析されたり、

「もうそんな顔しないの!」と、否定されたり、

「もっとこう考えなよ」と、自分を変えようとされたり、

話している途中で遮られたり、

または、まだ話が終わっていないのに、違う話を振られてしまったり、

話しにくいけれど少し勇気を出して、自分の恥ずかしいことを話しているのに、その人の経験にすり替えられてしまったり、「そうそう、わかるよそれ、私もさぁそういうことあって、あの時はああでこうで・・・・」

スマホを見ながらや、何かをしながら聞かれていたり、

ああ、この人は私の話を本当には「聞いて」いないんだな、と感じる数々のことなど・・・




私たちが無意識に相手に対してかけている、こういった数々の無意識的に発している言葉に、私はこれまで、とてもとても傷つけられてきました。

「なぜ、この人たちはこんな言葉を私にかけるのだろう?」と、熟考したこともたくさんあります。

笑えないほど打ちのめされて落ち込んでいるのに「笑って、笑って!」と言われた時のショックや、

ただ話しを聞いて欲しかっただけなのに、こうしろああしろと言われたときのショックや、

こんなに傷ついているというのに

「でもこの人は私のためを思って言ってくれているのだろうから、傷ついている結果になっているけれど、感謝しなきゃいけないよな・・・・」

と、無理やり、元気になったようなふりをして見たり、ありがとう、と言ってみたり・・・・

でも実際は、私の求めていたものではなかったというのに。

相手を思いやる、空気を読む日本文化の、アルアル、じゃないかなぁ?と思います(どうですか?)




そんな数々、傷ついた経験から、「なぜ、ただ聞いてくれないのだろう?」という腹立ちにも似た疑問が芽生えました。

私なりの結論は、「その人は私のネガティブな姿は見たくないから、私を変えようとする」。

でも、なぜ、「私のネガティブな姿は見たくないのか?」。

それは、「自分も引きずられてしまうから。私が落ち込んでいると、自分も苦しくなるから、だから見たくない。→変えようとする」。

それに対して、解決策はなんだろう・・・・? 相手のサポートになる聞き方ってなんだろう・・・・?と、長いこと熟考しました。

そして、発見したのは、

「自分の軸をきちんと持ち、誰かが落ち込んでいることに影響されずに、どんな状況でも幸せでいられる自分でいる状態」で聞くことが大事だということ。

そのためには、常に、自分の中心に立っていることが大事です。

私が「人の話を聞く」ときには、お仕事でもプライベートでも、まず一番、「自分の中心に立っている」という状態で聞くようにしています。

そして、相手を変えようとせず、アドバイスをしようとせず、何とかして相手を救出しようとせず、

ただただ、相手の中にすべての答えと求めるものがあるのだ、と信じて見守ります。

それは、相手の中心への絶対的な「信頼」でもあります。

それを、自分の中心に立って、ひたすら、愛そのものの存在で、「ただ聞く」をします。

それは、自分の中心への絶対的な「信頼」でもあります。




わたしは、この気づきと、そこからの実践が、本当に人生の役に立っています。

自分への信頼が増し、相手への愛が増し(苦手な相手だとしても愛を向けることはできます。Like ではなくても、Loveはできるのです)、そして、人間としての共鳴を感じて、さらに自分への愛と信頼が増していく。




長いこと、ヒーリングやスピリチュアルカウンセリングのお仕事をさせていただいておりまして、私が感じることは、

一番、私たち人間の心を揺さぶるものは「人間関係」だということ。

「人間関係」」もしくは、「人間を通して自分の中から起こるあれこれ」です。

私たち人間は、「投影」をしあいながら、関係を築いていきます。

それは、自分のフィルターを使って、常に人を見て、その人から受け取る感覚や感情を、知らずに自分で作り上げている、ということです。

苦手だなと思う人や、好きだなと思う人というのは、自分の色眼鏡から感じる「投影」なのです。

そして、そうやって「投影」しあいながら、人間関係を築いていきますから、「投影」をやめることはできないのです。

だから、「投影」がダメだとか、悪だとか、毒だとか、そういう、ゼロか100か、みたいな考え方ではなくて、

それに気づいていることが大事なのだと、伝えたいのです。

「私がこの人から感じているこの感情は投影だな、わたしのフィルターであって真実のこの人ではないんだな」ということを、常に知っていて気付いていることで、それに振り回されなくなります。

大抵、人間関係がギクシャクするのは、「誤解」からの思い込みです。

「誤解」というのが、この「自分の色眼鏡」から発生するものです。

そうだと思い込んで嫌な気分だったけれど、よくよく聞いてみたら、その人には・その出来事にはきちんと理由があって、結局、自分の思い込み・勘違いだった・・・・なんていうこと、よくあります。

そして、「よくよく聞いてみた」からこそ、自分の勘違いと思い込みだった、と気づくわけですが、

そこで「聞いてみる=話し合う」ということが、なかなかできないと、そのまま勘違いした違和感のまま、亀裂が深くなっていったりします。

これも、日本文化のアルアルだと思うのですが、不信感や怒りを感じると「もう口をききません」や「聞く耳持たない」となってしまって、

そうなると、到底「話し合って誤解を解こう」にはなりえないのですね。
(私はこの経験からもたくさん傷ついたことがあります。誤解を解きたいから話し合いたいのに、聞いてくれないブロックされる)

「どのように聞くか」そして、「聞く耳を持つこと」だけが、誤解を→理解に変えていくことができ、

そして、誤解は→理解に変わっていくと、自分も相手も学びが深まって、人間の深みと、調和が増します。

わたしは、世界の不和は、私たち一人一人の不和から始まっているのではないか、と感じるのです。

だから、わたしは、

「リスニング・聞く力を養うこと」が、世界の調和に繋がっていくのだと感じるのです。




もうすぐ開催します、カウンセリングスキル伝授講習では、
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/415731799.html

カウンセラーとしてお仕事をしていく技術だけではなく、「聞く力」を培って養っていくことをメインにお話をさせていきます。

どうやって、存在感で聞くのか。

自分の中心に立って、自分の中でくつろぎ、自分への信頼と繋がりながら、人の話を聞く。

聞く側がきちんと自分の中心にいて聞いてくれていると、相手は知らず知らずに、安心して自分の真実を話しだします。

全身全霊で聞いてくれる相手を目の前にすると、

聞いてもらえないかも、や、私を変えようとされるかも、や、否定されるかも、や、ジャッジされるかも、などの恐れがなくなり、

知らずに、言葉が真実を語りだします。

そんな風にして、「リスニング・聞く力」を生活の中で活用していきますと、周りとの関係性が知らずに違うものとなっていき、そして、自分との関係性も、より心地よいものへと変わっていきます。




私は、人の話を聞くお仕事をしていますが、だからと言って私が完璧なのだというわけではなく、

私自身、たくさんの間違いをしてしまったり、傷ついたりしながら、日々、学びを深めております。

人間だもの、完璧なんてありえません。

だからこそ、学び続けている、そんなわたしの学びを、ご縁のある方にシェアさせていただけたら嬉しいです。

ぜひ、カウンセリングスキル伝授講習を、あなたの人生にお役立てください。

リクエストをいただきました時にだけ開催をしています。

日程が合わない方は、どうぞリクエストをください。

(4/29,30 オンラインにて)
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/415731799.html




そして、

いま、日本に一時帰国中に、いくつかの土地にてワークショップさせていただくツアーを行っています。

6/5〜6の週末は、千葉県いすみのBrawn's Fieldさんで、Movement Medicineのリトリートをさせていただくことになっておりまして、

その企画の中で、「自分の中心に立って聞くこと」についてのシェアと、練習実践をしていく時間を作ります。

とても深く意味のあるリトリートとなると思いますので、どうぞ、このチャンスにぜひご参加ください。

少人数制で安全安心なサークルを作りますため、定員8名様となります。

イベントページは、もう少ししましたら出来上がりますが、すでに何人かお申込みが入っておりますので、ご参加をご希望の方は先行申し込みしたほうがよいかもしれません。



そして、

5/23〜24には、富士山の近くにて「わたしのなかの自然を抱きしめる〜Movement Medicine リトリート」を開催します。

このリトリートの中でも、「聞く」という実践を少しシェアしたいと思っています。

富士山が絶景の温泉宿での開催です。

ARCO Cristalクリスタルショップとのコラボですので、クリスタルを使った瞑想などもしようと考えていますよ。

https://www.facebook.com/events/2588065951486745



私が日本に滞在していますあいだに、どうぞご縁のある方へ、

存在感と、言葉と、身体で、直接あなたへ、シェアできますように。

合掌

ユキ ラクシュミナラヤニ



≪ジャパンツアースケジュール≫

こちらのページで随時変更更新中。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/474221846.html





posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:25| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月11日

3.11に平和の映画の紹介


あれから10年。

私の・あなたの人生を大きく変えた、あの天災から、私たちはどう生きる。

そして、これからの未来の和。

素晴らしい映画です。

「祝福(いのり)の海」

Youtubeで今日の日本時間24:00まで見れるそうです。

よかったら。

制作者をリスペクトして、転載はせず記事のリンクをシェアします。

こちらのFacebookページに載っていますのでご覧くださいね。




posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 18:18| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月27日

ただ流れる涙について



わたしは、よく涙を流します。

私と親しくない人や、お仕事のときだけお会いしている人からは「強い人」とか「自立した人」などと、みられがちなのですが、

でも、実はわたしは、本当によく涙を流します。

それは、「悲し泣き」とか「悔し泣き」とか、

そういう涙ではなくて、(それも時にはあるけれどね)

ただ、ただ、目から流れていく涙です。

なので、「泣く」という表現がしっくりこなくて、「涙が流れる」という表現を使います。



こういう涙が流れるときというのは、たいてい、なんでなのか言葉では説明のつかない気持ちです。

「それは、こうでああだから、きっとあなたはこういうふうに感じて、だから涙が出てくるんじゃない?」

なんて、勝手に誰かに分析されたら、ひょっとしたら、わたしは、ちょっと不愉快な気持ちになるかもしれません。

だって、体と心が自然に反応していることというのは、分析したり、頭で考えたりするような領域ではないと思うのです。

身体の反応は、完全に自然なのです。

だから、雨が降るように、ただ涙は流れるのです。

そして、時が来れば止まるのです。

風が吹くように、涙は流れるのです。

そして、そよ風の時もあれば、強風の時もあり、それは、ただただ、自然なことなのです。

理由付けなんて、まったく、意味のないことであって、むしろ、自然なことを不自然に塗り替えようとしている、無価値な行為だと思うのです。




わたし、

日本に一時帰国して、はや、4週間が過ぎます。

この4週間、なかなか、ブログなど、文字にして今のわたしを表現することができなかったのは、

脳ではないところの、五感でフルに日本とのスピリチュアルコネクションを感じて・新しく構築していたから。

そして、文字にしようとする脳を使ってしまうのが、とっても勿体ないほど、素晴らしい素晴らしい魂の学びをしているから。

この4週間。

毎日、毎日、涙が流れ続けていました。

わたしはしばしば、こういった、感情のラベル付けできない涙を「ヒーリングウォーター」と呼んでいます。

悲しいのでもなく、怒りでもなく、悔しいのでもなく、寂しいのでもなく、感謝や反省の感情というだけでもなく、

なんだかわからないけれど、胸がいっぱいになる感じ。

人々は、それを堪えようとするから、苦しくなるのだと思うのですね。

切なくて苦しい、という感覚でしょうか。

その切ない涙を、ただただ、流れるがままに受け入れてみつめていくと、深い気づきと癒しに変わっていくのだと思うのですね。

そうすると、とても、さっぱりとします。

だから、わたしはそういった涙を「ヒーリングウォーター」と呼んでいます。

魂の癒し。癒されたときの水。

深いところが癒されていくときに湧き出てくる、ウォーター。

頭では判断・理解・分析できず、もうすでに過去に起こったことの記憶にも残っていないようなこと・・・でも、体と細胞は覚えていること・・・が、じっくりと癒されていったときに、ふいに出てくる水。

わたしは、このヒーリングウォーターを大歓迎します。

どんどん、どんどん、出します。

ときに、「いまっ!?」と突っ込みたくなるときに、突然出てくるときがあります。

スーパーマーケットとか、温泉に入っていてとか、車の運転中とか、信号待ちで立っているときとか、山登りをしているときとか、とか・・・。

そして、そこがどこだとしても、出るがままに任せます。

だから私は、人前でも気にせず、涙を流します。

雨が降るように、風が吹くように、ただ自然に涙が出るのだから仕方がない。

でも、たいてい、周りの人はそんな私に気づきません。

気づいても、気にしません。

だって、とても自然だから。



踊っているときも、瞑想をしているときも、日常の生活の中でも、

わたしは、瞬間瞬間で、毎瞬ごとに自分の人生についての気づきをたくさん得ています。

息をするごとに、気づいて、学んでいるのです。

その気づきから、魂レベルで癒されて、涙が流れます。

だから、涙はウェルカムなのです。

「泣いたら負けだ」なんていう日本文化を、わたしは根本からひっくり返します。

特に男性は、泣くのは難しいのでしょうね。

子供のころは、男だろうが、女だろうが、泣くものなのにね。

どうして、泣いたらいけないのでしょうね。




涙は出るものなんだから、出して自然です。

おしっこもウンチも汗も、出るものなんだから、我慢したら体がおかしくなります。

涙だって、出ることが自然なのだから、好きなだけ出します。

だから、わたしは、ただただ、涙が流れていくことを歓迎します。

なにかで紛らして涙を止めようとしたり、無理やり変えようとしたり、消そうとしたりしません。




わたしのヒーリング個人セッションをお受けくださるかた、または、ヨーガやムーブメントメディスンなどのグループクラスをお受けくださる方のなかには、

涙が流れる体験をされることが多いです。

急に涙が出てくるので、びっくりするかたも多いようです。

それは、魂レベルでの癒しが行われて、目からヒーリングウォーターが出ているのですね。

だから、戸惑うことはありません。

ただ、その涙に委ねて、出るがままに任せましょう。

止めようとしなくていいし、「ごめんなさい」なんていう必要もないです。

謝るということは、「泣くことは悪いこと」と思い込んでいるからです。

そこから、解放されましょう。

どんどん、自然な自分に戻っていきましょう。



わたしは、毎日毎日、涙を流します。

それは、とても、命をしっかり生きている感じがします。

自然な自分を受け入れている、喜びを感じます。

そんな自分が、とても純粋で、無邪気で、かわいいし、愛おしいと感じます。

人はわたしを「強い」とか「自立している」とかイメージを持つようです。

わたしは、実際に、人々が私にイメージしているように、強いし自立しています。

でも、涙をどんどん流します。

涙を流して、無邪気で、純粋で、繊細でも、強く、自立していられると思うのです。

涙は、弱さの象徴ではなく、

自分を愛し、認め、受け止め、繊細さから命を輝かせる、その強さのための

ハートから湧き出る水なのだと思います。




★日本での対面ヒーリング個人セッション 8/4まで
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/475989087.html


★オンライン・お電話での各種ヒーリング個人セッション 
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/474890240.html


★7/31ムーブメントメディスン+ボイス〜体と声の解放〜オンライン
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/476423219.html



ただ流れる涙について.jpg






posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 23:21| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月05日

日常での祈り1「感謝エクササイズ」




日々の祈り1「感謝エクササイズ」




祈るって・・・・?どういうことだと思いますか?

「祈り方がわかりません」

という声をこれまで何度か聞いたことがあります。

わたしは、「祈り」を生きていますので、「わからないって、どういうことだろう??」と、思うのですが、

ひょっとしたら、「祈る=教会やお寺などでのこと」と思っているのかもしれない・・・?

お経を読むとか、手を合わせて膝まづくとか、火を焚いてドラムをたたくとか、そういうときだけが、祈り?

いやいや、そんなことないんです、祈りは特別なものではなくて、愛と感謝を生むだけで、祈りに繋がるのだと思うのです。

そして、実は、わたしにとっては、

「地球の周波数とつながる」のが、「祈り」のひとつでもあります。

これは、わたしの特性なので、一般的にはそうではないかもしれませんけれど。

「地球周波数」は「愛の波動」であり、すべてはひとつであり、大きなひとつに溶け合っている・・・というバイブレーション。

日常のほんの些細なところでも、それは、生まれていて、

そこと、つながりながら行動しているとき、わたしにとってすべては「祈り」になるのです。

もう少ししたら、そこのところの研究コース(エレメンタルリサーチ)をしたいな、と考えているのですが、

まだ、もうちょっと、温め熟成中です。

余談でした。




この世界危機で、みんなに祈りを広めて深めて、地球の波動を上げていくために、

わたしはなにができるかな?・・・と考えていました。

「地球とともに祈る」を、できるだけ日々の生きる形としている、わたしがシェアできること・・・・・。

簡単でわかりやすいエクササイズを、少しずつ、紹介しようかな・・・?と思い立ちました。




やってみて。

「感謝エクササイズ」。

毎日・・・または、一日おきに・・・または、いつでも思い出したときに。

本当に変わるから!




@今日一日の、自分自身への感謝を5〜10個、鏡を見ながら自分に伝える。

まるで、ほかの誰かに感謝を伝えているように、鏡の自分に向かって伝える。
あの人からの言葉を思いやりの返事でできてありがとう。とか、頑張って長時間PC仕事してくれてありがとうとか、忘れていたあのことを思い出してやってくれてありがとう、とか、健康な足、きちんと消化してくれる胃や腸、肺があって機能していて空気が吸えること、あなた(わたし)の笑顔は気持ちに花咲かす・・・・とかとか・・・
なんでも、いいのです。
行動でも、思い出も、体の機能でも、なんでも。
できれば10個がいいと思う。
1から順に、後半に行くにつれて、どんどん、ベーシックにシンプルになっていくから。
そして、毎日、同じことを感謝してもいいのです。
同じ事を何度感謝されても、何度でも、嬉しいものでしょう?



A今日一日の、パートナー・家族・一緒に暮らす人への感謝を、5〜10個その人に伝える。

照れくさければ、ベッドに寝転んで暗がりでお互い仰向けになって・・・とか、でもよいのでは。
文字よりも、声がいいと思うな。
突然言ったら驚くかもしれないから、「コロナの期間は自分自身を耕して未来の種をまく、自分磨きの時期だから、いま自分なりにこういう小さなプロジェクトをしているんだ」と、伝えておいて、そして、相手が同意したらお互い一緒にやったらいいと思う。
とても、よいよ。
どんな些細なことでもいいから、今日一日の感謝を探すのです。
食器洗ってくれてありがとう、とか・・・、消し忘れた電気消してくれてありがとう・・・とか、あのときかけてくれた言葉にありがとう・・・とか、とかとか・・・・・。
なんでも、よいのです。
そんな大きなことでなくていいから(もちろん大きなことでもいいけど)、これも、10個目指して。
そして、毎日、同じことを感謝してもいいのです。
同じ事を何度感謝されても、何度でも、嬉しいものでしょう?

お互い、言い合うのがよいと思います。
でももし、相手が言うのを嫌がったら、相手にも相手のリズムがあるのだから、怒りにしないで、理解をして、
自分からだけでもコツコツ続けて。自分のために。



B今日一日の、天・人生への感謝を、5〜10個伝える。

これはきっと、日本人は自然とやっていることなんだと思うな。
人に伝えたり、自分をほめたりするよりも、天に感謝することのほうが、日本文化としてなじみ深いのかな、ひょっとして。
今日一日の中で、こんなことあんなこと気づかせてくれた流れに・・・・、とか、ベストタイミングであの人からの連絡に・・・とか、こんなイベントにめぐり合わせてくれて・・・とか、今日も太陽が美しい・・・とか、お花を見て美しいと感じること・・・とか、とかとか・・・・。
なんでも、よいのです。



これも、感謝という「祈り」として、とても簡単に生活に取り入れることができますよ。

ポイントは、「こうなって欲しい」という願い・エゴではなくて、あるがままを感謝する。

やってみて。

「感謝エクササイズ」

そして、ぜひ、感想をメールください。

愛を込めて💛

ユキ


オンラインでできるプライベートセッション・エネルギー伝授の一覧のページ作りました。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/474890240.html


オンライングループクラス一覧(ヨーガ/ムーブメントメディスン/マントラ瞑想)※5/6夜に更新予定
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/474221846.html


【ヨーガDVD・瞑想ガイドCD 欲しい方送ります】
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/474792787.html



感謝エクササイズ.jpg

※この画像の手鏡は、母が若い頃に使っていたものを引き継いだので、きっと55〜60年ものだと思う。
乙女だった母が、この鏡をのぞき込んでいたと思うと、胸がいっぱいになる。
この鏡を使うたびに、若かかりし日の母へ、感謝と癒しを送っている。



posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 23:48| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月11日

テレビ消して、スマホ置いて、PC切って


(つぶやき、あくまでも、そう見えなくても)

テレビ消して、スマホ置いて、PC切って、

もっと大切なことに時間を使おう。

答えは、インターネットの上にはない。



インターネットの記事は、誰かの人生であって、

あなたの人生ではない。

誰かの考えであって、あなたの真実ではない。

そこには、自分の人生への答えは無いのだ。




日本の人の記事は、

誰かが言ってるようなこと、みんな同じように言っている。

聞いたこと、読んだことを、

そうだそうだ!と、まるで自分の考えのように言っているけど、

それは、自分の中から沸いてきたものじゃなく、

誰かのコピーなんだよね。



真実じゃないものは。

私にはちっとも響かない。



みんな同じような言葉を使って、

同じような書き方で書いて、

同じような仕草をする。

それを、自分の個性と勘違いしているけど

それって、誰かのコピーでしょ。



反対もあるね。

他人の行動が自分のしたいことと違うとき。

人はそれぞれの信条があるものだから、

人のことあれこれ・ウダウダ言わずに

やるべきこと・信じることを、ただやったらいい。

自分の真実からの行動だったら、

疑いは、ないはず。



いまは、

目覚めなきゃ、なときだよ。

地球のメッセージ、ちゃんと受け取るときだよ。

それを自分の命に反映するときだよ。



メディアから離れて、

自分という命と

ガチで向き合おうよ。



(日本の報道は、ものすごくものすごく偏っているから、もし見るんだったら、日本語のニュースだけじゃなくて、日本語以外の世界のニュースも併せて見て!)



敵も味方もなにも存在しなくていい。

自分の命と、人生と、地球との関係性を

新しく気づいて・築いていこう。



メディアから離れよう。

画面じゃなくて、

自分のハートと、地球を、見つめよう!

ぶれずに、自分の真実を生きよう!



オンラインクラス一覧2.jpg


posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 23:01| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月09日

直感というのは


「直感」というのは

一番最初に浮かんだアイデア・または、発した言葉のことです。



大抵の場合、

その後に、「恐れ」がやってきて

それを実行しない「言い訳」をマインドは探し始めます。

お金がもったいない、時間がない、仕事が休めない、家族がいるから、なんだかちょっと怖い、やっぱり気が乗らない、などなど。



そして、最終的には

そちらの「恐れ」のほうを、「直感」なのでは?、とマインドは間違って解釈する方向に

わたしたちを惑わします。



で、

「やっぱやめよう、直感的に(!)今じゃない気がする」

なーんてふうに、「直感」という言葉すらマインドはすり替えてしまいます。

私たちは、そんなマインドの罠にまんまとはまって、そして、気づかずにいます。



でも、「直感」というのは

本当に、一番最初にピンと来ていることですし、

思わず質問してしまったことだったり、

ポロッと言ってしまった希望だったり、のことです。



私にとって、

「直感に誠実に従う」

ということは、

自分が感じていることを、ただ信じるのではありません。



なぜなら、時に、人間は嘘の感覚を本当だと受け取っていることがあるからです。

マインドは巧妙に私たちに、真実ではない情報を、あたかも本当のことのように見せます。



だから、私にとって

「直感に誠実に従う」

ということに、きちんと繋がっているためには、

自分の恐れを、きちんと恐れとして理解して見つめられることが必要です。



だから

「あ、あれは直感だったけれど、ここからの迷いは恐れだな。そして、この乱れは私のエゴだな。だったらこの恐れとエゴの源はどこからやってくるんだろう。」

そんなふうに、

何を直感で受け取っていて、

その後、

恐れからくるなにを感じているのか、

ということが、きちんと理解できていて、はじめて、

「直感を選択する」

ということができます。



だから、

あなたが直感で生きたいのならば、

迷いや乱れを、そのまま「これは迷いや乱れであって真実ではない」とあるがまま見つめて、それに振り回されず、

惑わされることなく、常に自分が主導権を握っていることです。

直感を選択するのは「わたし」であって、「マインド」ではない!という主導権です。



それには、

自分の中に存在する無数のアイデアや想いの中で、

なにが真実で、なにがまやかしか、見極めることが必要であり、

そうすることで、

迷いも疑いもなく、「直感」を信じることができるでしょう。


直感とは.jpg



posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 17:56| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月08日

真実に繋がる糸


52日間のムーブメント・コネクション、という企画をしていまして、1/11で終了します。
ちなみにこちらが詳細。http://yukismyogaism.seesaa.net/article/471602280.html

そのグループの中でシェアしました投稿を、ここでもシェアさせていただきますね。


***********


ちょうど年末年始の慌ただしい時期でしたが、だからこそ、生活の中で動きの瞑想を意識するこの機会は、ふと、自分の中心に立ち戻ってこれるよい機会でした。

皆さんにとっても、旧年と新年のよき橋渡しとなっていますように。



生まれてから、一生、死ぬまで共に寄り添っているBODYは、子供でもパートナーでも家族でもなく、この身体(と心)です。

身体はつねに正直で嘘をつかないので(マインドは嘘だらけで、その嘘情報で身体に強要しようとするけれど)、身体に意識を寄り添わせることで、わたしの「自然」というものを理解します。

身体や心(二つは繋がってますから)にとっての春もあれば秋もある、

雨降りの時もあれば晴天の時もある、

濁流の時もあれば静けさの中の水滴の時もある、

暴風に耐えて立っているときもあれば綿毛のように軽やかに踊るときもある。



日常は不自然の落とし穴がたくさんあって、

やらなければいけないことや、嫌でもすべきことや、どうあがいても避けられない雑務がたくさんあると(でもよく考えると、それを今しなくても生きていけることだったり)、

頭は次から次へとやってくることに占拠されてしまって、身体は頭に支配されて「時間との勝負」をいつもさせられてガチガチになってしまい、目の前にある手先のものしか見えなくなって視野が狭くなってしまうときもあるけれど、

でも「わたしという人間を生きる」ということが私の人生にとっての「本業」。

その本業にとって、本当に大切なこと・必要なものはなんなのか。

目の前にこんがらがってるたくさんの玉のなかで、わたしの命にとっての「真実」と繋がる糸はどれなのか。

他のいろんな(一見、重要そうな、でも実は本当に必要じゃない)糸の中から、真実に繋がる糸だけを選択して、丁寧に丁寧に生きていきたい。

・・・と、こんな言葉が、なすがまま私から出てきましたので、シェアしますね。



真実につながる糸.jpg





posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 21:02| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月06日

身体動かそう!


ドイツ南部の泥の湖で浄化。ひゃほー!



身体動かそう!.jpg



ときに人間はね、

ハチャメチャに踊ったり、はしゃいだり、泳いだり、バカ騒ぎしたり、キックボクササイズしたり、

そんなふうにパワーを使うのが必要だよ。

怒りやフラストレーションや悲しみなどのネガティビティは、

ガムシャラに身体を動かすパワーで、変容されると思うのだよ。

人間ね、誰でも怒りも悲しみも、持っていて当然で、当たり前なの。

だからそれはそれでよいと思うのだけれど、

なにが現実の自分に悪さをしているかというと、

「古い未消化の怒りと悲しみ」

だと思うのだよね。

昔のあのときのまま凍りついてしまっているものが、

今もなお、ふとあるキッカケ(トリガー)があると、あたかも、いま・・・、のようにぶり返してくる。

そして、たいていの場合は、それは、今起こった出来事と被さって錯覚しちゃうから、それが「古い怒りと悲しみ」の仕業だと気づかない、だから

目の前にいるキッカケを作った人や出来事(トリガー)のせいにして、それを責める・嫌いになる、または、自分を責める・自分を嫌いになる。

いつも同じような状況や人間関係で苦しむのは、これだね。(もちろん、私にもある)

それは、永遠に出口のない不幸せな迷路を、自分でセッセと作り続けているようなものだと思うな。

だから、身体をメッチャ動かして、シャドーやサンドバッグでパンチやキックをしたり、踊ってゲラゲラ笑ったり、意味もなくジャンプしたり、水と戯れたり、思いっきりダークな演技やダンスを演じてみたり、

楽しいんだよ!

するとね、ネガティブな炎がポジティブな炎に、知らずに変容するんだよね。

ネガティブはね、削除しようしよう、と頑張っても、消えないんだよ。

でもね、ガッツリそれを、健康的で健全な方法で(誰かや自分を傷つける方法ではなくて)表現すると、変容するんだよね。

真剣に楽しんじゃうの。

スピリチュアル系と呼ばれる・自分で呼ぶ人たちの落とし穴は、

聖者になろうとすればするほど、自分の中にある「ネガティブ」を許せなくなって、隠そうと・消そうと・認めないようにするけれど、(しかもそれに気づいてない)

それは実は、自分自身のスピリチュアルな道から遠ざかっていることだと思うんだ。

キラキラだけをアピールしているのは、人間としてとても違和感があると思うの。

ものすごい高い目標を目指す前に、まず、今ここにいる人間の自分への理解を深めること。

誰かを癒したい・助けになりたいのならば、まず自分自身をケアする・理解すること。

これは、私自身の心がけていることです。

すると、アピールしなくても、言動と生き様がキラキラになってくるんだと思う。

自分ときちんと向き合っている人の言動は、どんなダークな時でも、美しいよね。

身体、動かそう。

凍り付いてるエネルギーを動かそう。

また日本に行くので、一緒にやろう!

心をこめてサポートしますよ!

2019年8-10月・日本での活動スケジュール
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/468302561.html



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2019年07月28日

4つのタイプにわけられる「不安」の分析



ドイツのフリッツ・リーマンという精神分析家が書いた、有名な著書「Grundformen der Angst(日本語だと:人間が持つ基本的な4つの恐れの形)」の中で説かれている内容が、とても腑に落ちたのでシェアします。
(残念ながらドイツ語または英語の翻訳しかないようですが、すごくためになるので読める方はぜひ読んでみてください。)

彼は、精神分析だけに囚われず、スピリチュアルな観点からも人間を見つめているところが、わたしは共鳴します。

下記は、わたしの日本語の簡単な要約です。


*****


人間というのは「不安・怖れ」を持つものである。

それがない動物はいないし、あるからこそ人間であり、自然なことなのだ。

その「不安・不公平と感じること」を、自身で気づいてい行くことが、自分自身への理解に繋がる。

人生の中で直面するさまざまな問題とは、これまで隠れていたものが潜在意識にあげられてきたものであり、それを理解していくことで、自分という人生(人間)をよりよく生きていく学びと智慧につながっていく。

自分自身の不安を認め、知覚し、受け入れていく・・・・なんという美しい人間としての芸術なのだろう・・・・それをみつめ、そして、それらを、苦悩として持ち続けるのではなく、もっと生産性のある方向へと創り変えていくことを、この本では、応援している。

この本の内容の中では、4つの「不安・怖れ」を例に挙げていて、その4つは、それぞれ、二つずつ対になっている相対した側面である。

この相対は、わたしにとって、とても腑に落ちるし、素晴らしい「陰と陽のバランスのアート」だなぁ、と、

つくづく、人間の身体と心と魂の、素晴らしい芸術トリックに、納得・感嘆させられた。

やはり、人間は、すべてにおいて「陰と陽のバランス」であり、その調和を探すことが人生の学びなのだ、と改めて、わたしの使命に大きくうなづいている。



【不安・恐れの性質とその相対性】

@どこか・なにか・誰かに属する・縛られることの恐れ(保障、しかし不自由) ←→ A独立・自由になる・独り立ちすることへの恐れ(孤独、しかし自由)

B今の状況から変わることへの恐れ(未知なることへの恐れ) ←→ C今の状況へ根付くことへの恐れ(変わらないことへの恐れ)




そして、この不安・恐れは、人間が持っている「自然」なことだから、削除しよう!ともがいてもそれは不可能なことに悩むだけで、

そうではなく、理解していこうとすることで、より生産的な方向へと人生を導くことができるのだと感じる。

それには、

自分をみつめること、感じること、理解すること、受け入れること、抱きしめること、愛すること。



上記の相対性から、スピリチュアルな観点も感じる。

@コミュニティの中の一部になる(地球がおうち・ワンネス) ←→ A個人の人生を生きる・アイデンティティ(地球の上に立つひとつの人生の責任を持つ)

Bより成長した魂を目指す(宇宙へ開かれる) ←→ C地に足をつけて生きる(現実的な生活への義務)



なにが良いでも悪いでもなく、どれかを、削除しようとか、消し去ろうとするのではなく、

すべてのバランスが必要なのだ。

そのバランスは、その人、それぞれが、それぞれ、違うさじ加減でバランスされているから、

人生の中では、それを、感じて、理解して、受け入れて、愛して、調和していくことなんだ。

まさにこれは、

わたしが、伝えたい・伝えていることなんだ。


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 04:04| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月11日

サポートを求めることへの葛藤について


イギリスでのムーブメントメデイスンの特別WS「Kindness in the Mirror」から3日前に戻ってきました。


本当に巨大な癒しと、予想以上の素晴らしいプロセスでした。


どれだけ私たちはお互いにサポートしあうことが大事か、


そして同時に、サポートを求めることがどれほど葛藤するか・・・ということを、


この目でまさに見て、身体で経験しました。


サポートを求めることに葛藤をする、心の中を覗いてみた。


すると

「もし、断られたら傷つく・・・・という恐れ」

「相手も大変だろうに、迷惑をかけてしまったら悪い=嫌われたくない・・・という恐れ」

「一人でできるのではないか? ただの弱虫なんじゃないか?・・・という自分へのジャッジ」

「お返しすることができないし、申し訳ない気持ち・・・・という自己価値を低くする観点」

「自分はそんなに偉くないのに、助けてもらうなんて偉そうだ・・・・という、自己卑下」



すべて、ネガティブな心の声に惑わされて、葛藤している。

そして、それはすべて、事実ではない=存在しない=幻。



ひとたび、サポートを求めたのなら、

それを得られることで、大きな感謝と愛が生まれ、サポートしてくれる相手も、思いやりの気持ちを表現できて、そこに愛が生まれる。

そうだよね、わたしが、他人をサポートするときは、本当に愛と慈悲があふれてくるから、それを経験させてくれて、

「サポートさせてくれてありがとう」という気持ちでいっぱいになるものね。

だから、他の人にサポートを求めるのは、その素敵な経験をその人に与えているということだものね。

たとえ、求めたサポートが断わられたとしても、

そこには、理由があって、その人が無理して犠牲的になって助けてくれるよりも、きちんと、「無理だ」と伝えてくれることで、

こちらも、その人への信頼が深まるし、その人ではなかったんだ。

そして、より適任のひとへ求めることで、さらに、自分のためにもなる。




今回でのトレーニングで学んだことは、計り知れないので、また、クラスやイベントでのわたしの行動と言葉で、シェアしていきたいと思います。

(5月にまた、急用ができまして、日本に戻ることになりました。ぜひ、クラス・イベント・セッションにお越しください)



イギリスにて、Sussanah, David, Katherine, and Apsara、そして、一緒に儀式での癒しのプロセスを共有した最高の仲間たち。

素晴らしい人生の学びをありがとうございました。深い深い感謝と慈しみと共に。

合掌


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 19:30| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月28日

「気づく」ためのテクニック



わたしにとっての「自由」。

それは、ただやりたいように、なんでもやってしまえ!・・・ということではない。

本当の意味で「自由」になるというのは、自分自身で自分を「不自由に」しているものに、気づくことだ。



あなたは、「不自由」と感じるときに、どんな感情が湧くだろうか・・・。

あなたは、「自由になりたい」と願うときというのは、どういう状況の時だろうか・・・。



わたしの話をしよう。

わたしには、社会の中で「不自由だなぁ」と感じる時がたくさんある。



例えば、

わたしは、自分のやりたいこと、見えている道を、邪魔されるのがとても嫌だ。

あそこに行きたい!と思っているのに、ビザがとれなくて行けれない・・・とか、

これを学びたい!と思っているのに、問い合わせに送ったメールの返事が全然こない・・・とか、

好きなものを食べたい!のだけれど、勧められたものは好きじゃなくても食べなければいけない暗黙のルール・・・とか、

今すぐに!これをもっとやりたい!とピンときているのに、まあまあ、もうちょっと様子を見て・・・と言われたりとか、

とにかく、欲していることができない!そして、やりたくないことをしなければいけない!
そして、その理由はわたしの問題ではなくて、誰かが決めた何かのルールに従わなければいけなかったり、
私以外の誰かを尊重するために自分の「いまだ!」の直感を押し殺さなければいけなかったり、
世間一般の枠から外れないようにするために、自分のタイミングを無視しなければいけなかったり、
「そういうもんだから」とか「それは普通じゃないから」とかいう真実味に欠ける理由でわたしの望みを踏みとどまらなければいけなかったりとか、
とにかく、わたしの行く手を阻むものたちが現れ、そして、それに対しての「なぜ?」という問いに、納得いく答えが得られないときに、自分の中に「不自由」だなぁ、「やだなぁ}という感覚を感じる。

わたしがその「不自由さ」を感じる時は、ときに、ものすごい巨大な「怒り」となって燃え上がる。

「わたしを、かごの中に入れるな〜〜〜〜〜!!!!」



でも、どうしてそこで「怒り」が発生するのか。

「怒り」は相手からやってくるものではなくて、自分の中から生まれてくるものだ。

だから、そこに火がついてしまう、きちんとした「本当の原因」を自分はもともと持っていて、

そこが相手によって刺激されたから、結果として燃え上がっているのである。

それは、ちゃんとみつめて掘り下げてみないと、その奥底にある「本当の原因」には、たどり着くことができず、

大抵の場合は、まったく知らずに通り過ぎてしまい、「あの人感じ悪い!嫌い!」みたいに、他人への怒りと見えてしまって、

その相手のせいにして終わってしまうけれど、実際には自分の中に、怒りの「本当の原因」がある。




一つだけ例を挙げてみよう。

例えば・・・、

私がやりたいことについて、誰かから「それはやめたほうがいい」と言われたとして、

わたしが仮に「へ〜、そんなこと言う人もいるんだ〜、でも私はやっちゃうけどね、だって、やったほうがいいと思うもん!」って、ふわぁ〜っと、受け流すことができたならば、

そこには、怒りも不自由さも、生まれないのである。

それを「なにぃ!このー!反対意見!邪魔するなー!!」って態度で受け取っているわたしがいるから、怒りが生まれるのである。

ということは、

「それはやめなさい」と言われたわたしは、「それに従わなければいけない」と思っているから、「邪魔された」と感じてしまうわけで、

「従わなくても別にいい」という観念が、もしもわたしにあったならば、別に「邪魔された」とは感じないし、いくら何を言われても邪魔とは感じないわけで、

だとすると

「それに従わなければいけない」とわたしは、知らずに思ってしまっているということで、

それは、私の中の「ねばならない被害者意識」であって、

その被害者意識にのっとられるか、罠にはまらないか、は、実のところ、全部わたしの選択なのである。



そして、さらに掘り下げていくと、

私の中に「周りが賛成することを実行するほうがいい」という、「日本的観念」が、いつのまにやら刷り込まれていて、

だから、誰かが賛成していないと、「それを実行しないほうがよいのでは」と、不安になってくる(顕在意識では気づかないけれど)。

「なんで!?やっちゃだめなの!?」と、邪魔された感じがしてしまって、すると、怒りが沸き上がってくるのだけれど、

その怒りの原因というのは、実は、自分の中で反応した「しないほうがいいのかな」という「不安」に対してなのだ。

動物は「恐れ」を感じると、防衛本能で「攻撃性」が現れるときがある。

犬は、怖いと、グルルルル・・・って牙をむく、あれと同じだ。

だから、その怒りは、「それはやめなさい」と言った人に向けて、「ガオーー!なんでそんなこと言うの!邪魔しないでよ!」と発してしまいがちなのだけど、

実のところは、自分自身の中にある

「周りが賛成することを実行したほうがいい」→「ってことは、賛成してくれないと実行できない」

という、刷り込みに無意識に従おうとしていて、そこからくる、「ねばならない被害者意識」、そして、さらにはそこから生まれる「不安」と「恐れ」への防衛本能からの攻撃性なのである。

別に、気にせずにやってしまえば、なんの怒りも現れないというのに、

その刷り込みに無意識に従おうとしてしまっている「自分の不自由さ」への「怒り」なのである。

だから、結局、

わたしを「不自由」にしているのは、まぎれもなく、私自身(の中の刷り込み・観念)であって、「怒り」は、一見、相手に向けて「このやろー!」と発している風に見えるけれど、でも本当のところは、自分に向けての怒りだったということ。

ということは、

本当の意味で「自由」というのは、自分で自分を厄介にしている、あらゆることに、コツコツと随時「気づく」ことなのだ。

それには、自分をどうみつめていくか・・・のテクニックのコツがいる。

そして、「気づく」ことを抜きにして、人間は変わることはできない。

「気づく」ことからどんどん遠ざかっていくと、精神は混乱してくるし、身体も混乱してくるので、身体と心の調子が悪くなってくる。



よくわたしが、セッションやヨガクラスなどで使うたとえ話の一つとして、「貧乏ゆすり」がある。

貧乏ゆすりをしている人は、自分が貧乏ゆすりをしていることに気づいていない。

でも、気づけば、止める(変える)ことができる。

でも、気づかなければ、何も変わらないし、自分が「貧乏ゆすり」をしていることすら知らない。

本当の意味で、成長する(変化する)ときというのは、

変わりたい!と願って、力んで、踏ん張って、どうにかして変わろうとがんばるのではなく、

冷静に、脱力して、しっかりと自分をみつめて、ひとつひとつのすべての自分の側面に「気づく」こと、それそのものが変化へと続くのだ。

そして「気づく」ためには、自分自身をちゃんとみつめる必要がある。



そんなふうに、しっかり自分自身を、黒も白も、全部まっすぐにみつめて生きていると、

どんな状況でも、どんな環境でも、「自由」というのは、学ぶことができる。

誰かからの言動でどんなに嫌な気分になっている自分をみつけても、他人への怒りに変えて発散するのではなく、

その感情はどこからやってくるのか、というのを、自分の中でみつめることで、

起こった出来事を、より建設的に受け取って、魂の向上の学びに繋げることができる。

すると、

本当に必要なものはなんなのか、いま私がなにを求めているのか、がとてもはっきり見えてくるし、

自分の中の未知なる自分をしっかりみつめてあげることで、癒されなかった影・シャドーが、どんどん癒されて、それが光に変わっていく。




人間は、こんなふうに、とても繊細に、微細に、入り組んだ感情から学ぶことができるし、また、怒りや恐れからくる単純な反応も瞬時に行うことができ、創造的なマジカルな感性を持ちながらにして、本能的なアニマルな感性も併せ持つ、動物界の中で唯一の複雑極まりない動物だ。

そのすべての複雑さを尊重して、活用して、学んで、人間として生きるわたしたちの「自由」というのは、

ただ、ハッピーでゆらゆら〜っと、キャピキャピ(死語?)、キラキラだけで、チョウチョのように生きているだけではなく(その要素もありだけど、それのみ!ではなく)、

そういった、複雑で繊細でとても巧妙な、裏も表も、白も黒も、光も闇も含めた、人間特有の感性や感情を、しっかり受け取っていくことで、

自分自身を知り、気づき、そしてそこから、自由になっていくこと、だとわたしは思う。



よく、自己啓発やスピリチュアルな本や、または、他人に影響力を与えるスピリチュアルな人が、

「こうしなければ I have to : must 」とか、「どうしたほうがいいかな? What I shoud to do?」と言うのをやめなさい、とアドバイスしているのを見たことがある人もいるだろう。

わたしも時々使う言葉なので、わたしから聞いた人もいるかもしれない。

それは、わたしがいま例え話でシェアしているような、より深く自分を掘り下げてみつめていくための、入り口に立つ作業だろう。

入り口の作業だけれど、それをコツコツ、続けていくことで、その入り口を開けることができるだろう。

そうすると、あなたは、本当の意味で自由に生きるという意味が理解できるかもしれない。

すると、現実の自分の生活が、あなたの本質の理解についてくる = 現実的にも自由な生活スタイルに変わっていく、かもしれない。



あなたの望む人生スタイルは、自分次第で創造することができるのです。

どうぞ、サポートが必要な方は、わたしのセッションをお受けくださいませ。

あなたの「気づき」を、心を込めて、お手伝いさせていただきたいです。

オンライン・対面 ヒーリングカウンセリングセッションのご案内。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/418246610.html



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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 08:27| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月25日

身体に必要なものを感じること



ずっと前から旅人の人生の私。

旅の中で、様々な国で・土地で、大地と自然の波動と、人々との交流、そして、その土地の歴史と文化に触れること、

その中で出会う出来事、人々から、感じている「わたし」をみつめる、受け取る、理解すること。

本当に、ひとり旅はわたしを豊かにします。 素晴らしいです。

そして、その土地の各地に、わたしのエネルギーをシェアしていき、そして、わたしもその土地からのエネルギーを転写して持ち帰ります。



旅をしていて、一番、居心地が難しいのは「食べるもの」。

わたしは、ビーガン(動物性を食べない主義)なので、あまり外食をせずに、常に、キッチンがついている宿をチョイスします。

今回の(いまもまだ旅の途中)12日間のお仕事を兼ねたプチ旅も、オーストリアとスロベニアの三か所の宿に滞在したのですが、

でも、唯一、ウィーンでは、友人の家に泊まらせていただきました。

友人は多忙で、わたしは滞在中すべて一人で行動していたので、

邪魔しちゃ悪いな、汚しちゃ悪いな、という遠慮もあって、キッチンを使わせてもらわず、朝昼夕と外食をしていました。

(ヨーロッパはビーガン・ベジタリアンのレストランが結構あるので、こういう場合、助かります。)



でも、な〜〜〜〜〜んか、調子が悪い、身体の。

巨大な吹き出物ができたり、なんだがとってもむくんだり、顔の皮膚がガサガサ・・・を通り越して、ゴワゴワで、笑うだけでほっぺの皮膚がちょこっと破けてしまうほどでした。ひえー、相当だな、こりゃ。

身体がおかしい! なにかが「たまっている」感じと、「なにかが失われている」感じがとてもしました。

ウィーンが乾燥している地域・・・っていう理由だけでは、度を越えていました。

「おかしいなあ、どうしたんだろうなあ。」

「身体は、わたしになにを伝えているんだろう。」

常に、身体からのメッセージを受け取る!を意識してい生きています(ムーブメントメディスンの効果です)から、身体に苦情を言うのではなく、身体からのメッセージに理解を示そうとします。





そして、

ウィーンを離れてから、土地を変えて、キッチン付きの宿に宿泊しましたので、

毎日、毎食、自炊をして、ランチもお手製のサンドイッチを持参して外で食べ、ディナーもサラダとスープを作って宿で食べていました。

とてもとても質素ですが、一番、わたしの安心する食生活です。

すると、

身体の調子がみるみる戻っていきました。

ゴワゴワだったお肌は、あっというまに元通りのツヤツヤに。(基本的に肌質はよいタイプなので)

あり得ないくらいダルクて、重かった身体が、ヒョイヒョイ軽くなりました。

凝った・見た目が美しい料理は、舌と目を喜ばすけれど、実は、身体は嬉しくない・・・ということもありますね。




そして、身体からのメッセージを解読するのに成功した思いがします。

それは、

「わたしの身体は、わたしからの注意・意識(癒し)を求めている」

だから、

ビーガンレストランで美味しくて創造的で、自分では作れないような素敵な食事をしたとしても、

それは、わたしが自分の身体に意識を向けて作ったものではなく、いまの私に必要なものではなかったのだ、ということ。

いまのわたしの身体は、一番近くにいる「わたし」からのエネルギーが欲しかったんだな、と感じました。

誰かほかの知らない人が作った(その人のエネルギーが転写されている)料理ではなくて、いまのわたしの身体は、「わたし」からの意識・エネルギーを欲していたんだな。(いつもそうあるべき、というわけではなく「いま・ここ・わたしの身体」にとっては、それが必要だったのだ、ということ)

マッサージをする、ストレッチをする、オイルを塗る、身に着ける衣類の素材に注意を払う、身体を清潔にする、自分の身体への祝福のためキレイに装飾する(誰かに好かれるためじゃなくて)など・・・・・と同じように、

自分の身体にとって、いま何が必要か?を考えて、自分で自分の身体のために食事を作ることも、身体を癒すことのひとつなのだ。

その失われた感覚と再びつながるために、ヨーガもムーブメントメディスンも、とてもよいツールだ。



ヨーガのクラスで、重ねてわたしが伝えていること。

「わたしの身体は、”わたし”から意識を向けて欲しがっている。”無視しないで!”とメッセージをくれる。

わたしたちは日常が忙しく、外側のやるべきこと、やらなければいけないことがたくさんありすぎて、一番大切である「自分の身体」を二の次にしている。

ちょっと体調悪くても、無理して仕事しちゃう、というのはその典型だな、と私は感じる。(特に日本人は、自分の居心地よりも仕事が優先の文化背景)

自分の身体は、お医者さんが管理してくれるわけではなく、マッサージ師が癒してくれるわけではなく、一番身近にいる「わたし」が「わたしの身体」の最高責任者であって、わたしだけが、自分の身体を感じることができる、世界で唯一の存在である。

だから、感じること。 

「行うこと」よりも「感じること」が大事。

「結果」を期待するよりも「プロセス」を味わうことが大事。それが「意識を向ける」ということ。」



私の中では、ヨーガは「自分と向き合って意識をどう向けていくのかの練習の時間」。

そして、ムーブメントメディスンは、「意識を向けて気づいたメッセージをどう受け取っていくかの練習の時間」です。

ヨーガも、ムーブメントメディスンも、「肉体を使って行う瞑想」にとって大事なのは、「きちんと肉体を感じてあげること」

身体は、わたしに見てもらいたがっているし、感じてもらいたがっている、意識を向けてもらいたがっている。

それが、自分の身体を愛することに繋がっている。

「愛」の反対は、「無視・無関心」。

そして、人間は誰しも「愛したいし、愛されたい」と願っている。

身体に無関心、無視をすることは、「愛」と正反対のことを自分の身体に与えているということ。

すると、自分自身から愛されない「わたし」は、その不満を、外側のなにかに向け始めて、周りの環境や人々への不満が募ってくる。

どうして愛されないのか、どうしてあの人はわたしに冷たいのか、どうしていつも嫌な目に合うのか、愛が欲しい、愛なんかいらない(これも欲しいの裏返し)・・・・・。

それは、実のところ、「わたし」が「わたし自身」に対しての不満の内なる声。

それを、「わたし自身」は自分自身へのメッセージだと受け取ろうとしないから、やり場がなくなって、「周りへの不満」という形となって表れてくるのだろう。

「なんで!?」「どうして!?」と、周りに対して不満に思っていることは、実は全部、「わたし」から「わたし自身」に対しての不満の声なんだ。

これはね、わたしの体験談ですよ、それに気づいたときはものすごい驚きましたし、深く、深く、反省と、

身体に対して、無視したり、苦情ばかり言っている、こんなわたしに、根気よくついてきてくれているこの肉体に、改めて、心から感謝と愛が溢れます。


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2018年12月05日

自分の心地よさ、そしてみんなの心地よさ



わたしが気づいたことをシェアしますね。



1月から(あ!もう来月じゃん!ひゃー)、わたしのサロンをミュンヘンにオープンすることになりました。

これは、すでに9月くらいから決まっていたことだったのですが、他の国での仕事が多く、なかなか、ミュンヘンにじっくり長く滞在する時がなかったので、

このラストスパートで、ちょっと急いでいろいろやってます。



先日、知り合いのインテリアデザイナーのかたに相談して、お部屋のインテリアのアドバイスをいただきました。


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彼は風水も利用して、わたしのエネルギーと、お部屋のエネルギーも見ながらいろいろ考えてくれるのでありがたいです。



彼のアドバイスを聞いて、わたしはそれに従って、インテイリアを考えています。

が、大事なのは、ただデザイナーのアドバイスに従うのではなく、それがわたしにとって「心地よいもの」であること。

だから、「オレンジが良いよ」と言われて、「そうか、じゃあ、オレンジ、オレンジ・・・・」とただ、探すのではないということ。

そこにオレンジがあったとして、わたしは本当に居心地が良いのか、じゃあ、どんな感じのオレンジだったら居心地が良いのか、

を、しっかりと「自分を軸として」考えるのが大事なのです。

どうも日本人なので、それに従えばいいんだ!とうっかり思ってしまって、「オレンジにしたよ!」と報告したら、

「本当にユキはそれで居心地が良いの?」と聞かれまして、

「え!?そうしたらいいよ、って言っておきながら、なんでそんなこと聞くの?」と一瞬思ったけれど、

「ああ、そうだよな、すべてはわたしの選択なんだよな。彼の意見を尊重するよりも、自分の居心地よさを優先だよな」

と、自分の中に染みついている日本文化を見ました。

「違う、NO!」と言うことは、失礼なことではないんだ。




そして、

いざ、部屋のどこにどんな家具を置くか、どこにわたしの椅子を置くか、

それをデザイナーさんと相談しているとき、

「ここに高い棚があったら、どう思う?」と聞かれたり、

「植物はここに置いたらどう思う?」と聞かれたりするたびに、

わたしは、「ここでセッションを受けるクライアントさんがどう感じるかな?」ということをまず考えていることに気づきました。

部屋のエネルギーをみながら、わたしの座る椅子を置く場所を決める時に、

「ユキ、こっち向きに椅子を置いて座るのと、こっちむきに座るのと、どっちのほうが好き?」と聞かれて、

わたしはエネルギーを感じるのは得意のなので(プロですから!)迷わず「こっち」と答えられるのだけれど、

「OK、じゃあ決まり、君の椅子はここ!」と言われた時に、

「え!?わたしの椅子だったのか・・・・!」と、少し驚き、当然、という顔をしているデザイナーさんを見て、

自分自身が「一番自分が居心地の良いと感じる場所をクライアントさんに譲ろうとしていてた」ということに、さらにさらに、驚きました。

わたし一人だったら、それが当然!なのだけれど・・・・それを鏡として見せてくれた、この人がいたから気づけたことでした。

(サポートしてくれる人って、本当に成長にとって大事)

そうだよな、この風水は、わたしの生年月日からのデータだもんな。

それに、わたしはこのサロンに一日中いて、クライアントさんはたまに来て、たった90分か2時間くらいここに座るだけなのだから、

わたしが一番楽でいることが一番優先なんだよな。

「わたしの居場所」なんだから!

わたしがとても楽な状態でリラックスしていれば、それだけよいセッションができて、クライアントさんにもよいサポートができるのだよな。

それに、この位置のこの向きに私の椅子を置いて座ることが、わたしにとってエネルギー的に楽だけれど、それが、クライアントさんにとっても同じかどうかは、その人それぞれだからわからないもんな。



「ユキ、なによりも一番大事なのは、きみの居心地が良いことだよ。それをまっさきに考えなきゃだめだよ」

この言葉を、デザイナーさんとパートナーとに、何度も何度も、言われました。はは。

日本人の自分をまざまざと知る。




わたしがここから気づいたことは、

「相手を優先してしまって、自分の居心地を優先するのを忘れてしまう」ということ。

これは、山梨で6年間、自宅兼サロンとして使っていた「天空の森ヒーリングスペース」での生活もまさにこの通りでした。

「天空の森ヒーリングスペース」は、大好きで、大好きで、いまも恋しくて涙が出るほど大好きな場所です。

(余談ですが・・・・先日、訪れたらエネルギーが変わっていました。わたしがどれだけよいお仕事をそこでしていたのかが、よくわかりました。
よかったら引っ越すときのか美しい想いを書いてありますので見てください。
「天空の森ラストナイト」 http://yukismyogaism.seesaa.net/article/459959214.html
「愛してます〜!日本」 http://yukismyogaism.seesaa.net/article/460005044.html )

森の中で、絶景の景色で、毎日夕陽が目の前で沈んでいき、朝も夜も、森の動物たちの声と共に過ごし、満天の星空と大自然の空気。

最高でした、いまももしもできるなら戻りたいほど、愛しています。

そんな、大好きな場所でしたが、お家の中は、やはり、そこに来てくださるクライアントさん、生徒さんたちのことを最優先にしていました。

広さを確保するため、極限までなにもものを置かないスペースは、暮らすには実は少し不便で、閑散として独り暮らしには寂しかったです。

本当にここに住んでるんですか?生活感ゼロですね!・・・と何度も言われました。はは

でも、たくさんの人々が来てくださることがとても嬉しかったので、わたしはとても幸せでした。

家具や生活用品は不足していても、森の中、山の上で、自然のエネルギーに囲まれていましたから、わたしはとてもリラックスしていました。

ですので、このときは、これでよかったのです。大好きな場所でした。



そして、いま、

山の中森の中ではなく、街の中に新しくサロンを持つにあたって、

わたしがしっかりと森とともに生きていた6年間を通じて、私自身が森であり山である・・・・という確かな感覚があります。

それを、ミュンヘンという都市の真ん中で、わたしそのものからの自然エネルギーをシェアしていきたい、と願います。

新たな気づきと共に成長したわたしは、これからこの街で生きていくため、方程式を変えていくのだと感じます。

「まず、わたしが居心地よくてリラックスする、そして、あなたもそこで居心地がよくてリラックスできる」

これが、わたしの新しい方程式。



より、調和的だと思う!

わたしも楽で、みんなも楽!

自分軸で存在すること・・・・大事です。「ワタシの中心に立つ」。

ヨーロッパにいるからこそ、日本の文化の良いところ悪いところ、善さが転じて足かせになっているところ、よくわかります。



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先週と今週は、あちこちの家具屋さんに行って、新しい家具を選んでいます。

なかなか、ピンとくるものがなくて(デザインとお値段が)、もう少し時間がかかりそう。

ちゃんとした家具は、注文してから届けられるまで、4〜6週間くらいかかるので急がなければ!

あれ? もうオープンまでに間に合わないかも!?




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クリスマスの雰囲気の街歩きは楽しいです。

中心部に行くといろいろなところで、小さなマーケットがやっていて、買い物は趣味ではないのであまりしないけれど、

賑やかな雰囲気は楽しいです。

大きな広場の大きな噴水が、突然、スケートリンクになっていてびっくり!

楽しそうにスケートをする人たちを見ながら、温かい飲み物をふぅふぅして、ほっこりします。


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カードを見るのはわたしの趣味。

数々の名画の中に「いわさきちひろ」があった!

嬉しい! 小学生のころからのわたしのお気に入り!

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日本にいる時のように、ここミュンヘンがわたしにとって、とても居心地の良い土地になるように・・・・

周りのすべての人たちが、わたしに協力してくれています。

本当に、ありがたいことです。

日本にいると、立場的にすべての決断をわたしがくだして、すべてを仕切って引っ張っていくので、

「男性性・リーダーシップ」を大きく発揮しながらお仕事しているのですが、

ミュンヘンでは、言語の面や、知り合いがあまりいないこと、わからないことがたくさんなので、

パートナーや、パートナーの友人、ミュンヘンのヨガの生徒さんたち、などにたくさん頼らせていただいていて、

たくさん、たくさん、甘えさせていただいています。

サポートしていただけること、本当に、ありがたいことです。




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2018年10月03日

パートナーとのケンカと、インナーチャイルドの怒りの関係性





パートナーや、親しい友人と、ケンカするとき、

わたしは、関係性が深まるチャンスだと思うのです。



ただ、罵り合うだけのケンカや、「あんたのせいだ!」と「私が全部悪いのよ」を言い合って、相手のせいにするか、自分のせいにするか、のケンカは、関係性の進展の期待は難しいですが、

そうではなくて、

ふつふつと湧き上がってくる、自分の感じている怒りと悲しみにどっぷりと覆われてみて、みつめてみる、という選択をすると、

どこからこの怒りと悲しみはやってくるのか・・・・ということに、気づくでしょう。

それは、相手がこの「怒りと悲しみ」をわたしに与えているのではなくて、

明らかに、自分の中から「着火」して、ドカン!と爆発しているのが分かります。

だから、自分の中に火種があって、自動的に自分で着火しているのですね。



わたしは、パートナーととても頻繁に自分のプロセスについてシェアリングをしますが、

でも、やはり、ケンカをするときもあります。

お互いカウンセラーでセラピストでヒーラーですが、お互い人間ですから、完璧な神様ではありません。

ときには、激しくブチ切れます。



ここ最近のパートナーとのケンカでわたしが気づいたことは、

怒りの原因は、相手にわたしがしてしまっている、母と父の投影、または、昔の先生などへの投影がとても大きな部分を占めているということ。

両親から経験したフラストレーションや、怒り、悲しみ・・・それと同じような、または、ひょっとすると関連しているように見える状況になると、その、昔のフラストレーション、怒りと悲しみが沸き上がってくる。

それは、一見、目の前にいるその相手に対しての不満と怒りに見えるのですが、

なぜ、それを不満と怒りとして感じているのか・・・というルーツをたどると、結局は両親との関係性、インナーチャイルドにつながっています。



パートナーには、両親にしてほしかったことを無意識に求めています。

これは、無意識なので、止めようがないし、それが実は、人間の自然だと思います。

それが得られないと不満になり、相手のせいにしたりしがちです。

そして、両親にしてほしくなかったこと、に似ている状況になると、怒りや悲しみが発生します。

子供のころに、似たような類の状況を経験しているので、そのときの恐れや怒りや悲しみが刺激されるのですね。



だから、親しい関係性の中で起こるケンカから、自分自身の理解がより深まっていきます。

「なんでこの怒りはこんなに激しく燃えているんだろう?なにが元だったのか?」と、しっかりみつめること、

例えば、

「だってあの人がこう言ったから、こういう態度したから!」というのは、「原因」ではありません。

「なぜ、あの人がこう言ったら、私の中の怒りが燃えたのか?」に目を向けて、その先が「元」です。

なるほど、わたしの怒りはこんな引き金(トリガー)から着火するのか、と理解することで、

自分のインナーチャイルドは、「やっと気づいてくれたのね!」と、きちんと目を向けたことで癒されていきます。



たとえ、パートナーが、わたしの欲求を満たしてくれたとしても、

パートナーはわたしの両親ではありませんから、根本のところでの「不満」は消えません。

仮に、いま年老いた両親に相談して、子供のころにやってもらいたかった不満を満たしてほしいと言ったところで、

両親はあのころの両親とは変わっていますし、自分ももう子供ではないので、その当時に不満だったことは、満たされることはないのです。

では、どうしたらいいのか、このインナーチャイルドの怒りと悲しみは?

やみくもに、相手や誰かに怒りをぶつけても、結局、自分の問題で怒りが発生しているのに、相手を傷つけて、そして、自分も深く傷つきます。

わたしにとっては、

自分自身でそれをみつめて、よき理解者になって、もう怒りや悲しみは必要ないのだ、と、不満を抱えている自分にちゃんと教えてあげることが、一番、平和的で効果的だと感じます。

パートナーはそれを「鏡」となって見せてくれて、その機会を与えてくれる、大先生ですね。ありがたい。

わたしも、パートナーにとっての「鏡」ですから、お互いが支え合って、学び合っているのですね。







パートナーとのケンカの中では、

相手も両親の投影をわたしにしていますから、それを理解した目線で相手の言い分をきちんと聞いてみると、

相手には相手のインナーチャイルドの怒りや悲しみ、恐れがあるのだ、

その反映を相手は見ているだけなのだ、私に対しての怒りではなく、投影に対しての怒りが現れているのだ、

という「理解しよう」というポジションで接することができます。

「ちょっとやめてよ!投影しないでよ!」とは思わないようにします。

自分も確実に、相手に投影していますからお互い様ですし、

すべての人間関係は、どんな類の関係性であれ、つねに投影しあっているからこそ、学び合って、響きあっているのです。

やめてよ!は通用しない、というか、不可能です。

そして、

わたしが自分の過去の恐れ・怒りの投影から発した怒りの言葉や行動がもととなって、相手の怒りと悲しみも刺激し、

そして、それを相手から聞き、感じることで、どれだけ自分が相手に、「過去の恐れ」を投影して、それが相手を傷つけていたのかがわかるでしょう。

相手を傷つけても、自分の傷は癒えることはないから、

パートナーシップでは、相手という「鏡」を通して見える、「わたしの傷」をしっかりみつめて、理解していくこと、

そして、それを、きちんとシェアしあうことが、より良い、人間としての学びの関係性の持続につながると思います。

そのようにして、パートナーを「私自身の理解を深めるための影なる協力者」という立場に置いて接してみると、

ケンカを通して、とても学びが大きく(ケンカしている渦中は怒りと悲しみでとても痛いですけれどね)、

よりお互いの理解も深まり、きちんとまとまると、関係性は深まっていきます。

とても上級なテクニックですが、これも、「わたし」を「自分の中心」として物事をみてみる、ということです。

相手のせいでこうなった!・・・ではなくて、自分に起こった出来事のすべてを、「自分の中心」に立ってみてみる。(自分のせい、でもないですよ)

そうすると、「被害者意識」にならずにすむので、自分で自分を傷つけずに済みます。




わたしが実践していることのひとつは、

怒鳴り合ってヒートアップしてしまったときは(そういうときもありますよね。時には暴れるのも必要ですよね。)その後、少し離れて、お互いの時間を作ってみる。

一日、とか、数日とか、離れて、冷静に自分の怒りをみつめられる時間を作る。

そのときに、「実家に帰ります」は、絶対にしない。わたしの場合。

誰か周りに「味方」を置いて、自分を正当化して「あいつが悪いのよ!」とならないためにも(実家にいると、とてもそうなりやすい)、

一人になる時間を持って、きちんと「わたし」と二人っきりになる。

街に出てもいいし、自然に行ってもいいし、周りに人間がいる場所でもいいのだけれど、

「味方」となって「あなたは正しい」と言って慰めてくれる人を周りに置かないようにする。

すると、それにあおられて「誰かの(相手の)せいにする」が始まってしまって、すると、自分をみつめるプロセスが進まない。

パートナーにも、一人になる時間を持ってもらって、お互いがお互いのそれぞれの存在を感じながら、

自分自身と二人っきりになって、自分をみつめる時間を持つようにする。

すると、冷静に観察できる状態に戻っていきます。




夫婦やカップルのパートナーシップは、お互いのインナーチャイルドの理解を深める「鏡」となる関係性です。

ときに、とても近い、きちんと本音を言えて、腹を割ってつきあえる友人関係でもそうなりえますね。

相手を責めてしまったり、相手に変わってもらいたいと願ったり、わたしたちはどうしても、簡単に「意識が外側」に向いてしまいますが、

結局は、すべて自分の内側の反映を、見させてもらっています。

パートナー・親友は大先生ですね。

とはいえ、

どうしても、この「鏡」はわたしにとって苦しすぎるし、幸せではない!と感じたら、離れたらいいですし、

この「鏡」から学び合うことは、一瞬、痛いこともあるけれど、なんて自己理解が深まるのだろう!素敵!と感じたら、気が済むまで一緒にいたらいい。

そして、学びがひと段落ついたな、もう新たな学びはこの関係性からは発生しないな、と感じたら、離れたらいい。



しかしながら、自分のインナーチャイルドは一生ともに生きていくものなので、理解し続け、お世話をし続ける関係性です。

だからといって、

両親に「なんであのときこうしてくれなかったの!」と、今更、怒りを感じるのは、方向が違います。

それは、「あんたのせいで!」と誰かのせいにしているのと同じです。

人のせいにするのはすごく便利なので、とても簡単にわたしたちは、誰かのせいにしようとしてしまいますが(無意識なので気づかないことが多いです)

自分の心と人生の幸せのために、建設的な手段としてみれば、それをいかにして学んでいくか、という方向に向けて行くことで、

自分で自分を救うことができます。



次の機会に、

両親のインナーチャイルドと、自分自身のインナーチャイルドについて、わたしが経験したことを書いてシェアしたいな、と思います。


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2018年09月27日

古いネガティブパターンをみつめること



先週のこと。

わたしは、孤独の底に沈んでいる、自分を見つめていました。

それは、少し前からのわたしの個人的なプロセスと繋がっていました。

わたしは、しばしば

「私はひとりぼっちで、誰も私をサポートしてくれないのだろう。そして、みな、私から離れていくのだろう」

という、想いに支配されてしまうときがあります。

それに支配されているときは、本当に確信をもって、「そうなのだ」、と信じてしまうので、

その「孤独の底の罠」にはまってしまっているときというのは、もう、孤独で絶望的で世界でひとりぼっちで悲しくて仕方がない(という幻を見ている)のです。

それは、

わたしの今世の中での、過去の痛ましい数々の経験から、そう、信じてしまっているのもありますし、

また、先祖たちから引き継いでいるカルマでもある、ということを、踊る瞑想・座る瞑想の中での先祖たちからのメッセージで教えてもらい、知っています。



そして、

9月最初に、踊る瞑想の中で、わたしは、さらに自分の先祖と交信をして話をしました時に、先祖のサポートからのヒントで、

その「孤独の底の罠」にはまってしまう自分の、その「罠」の「システム」を自分の中に発見しました。

その罠は、なかなか巧妙で、一見、ものすごく「正当」に見えるので、それが「偽物」だと見逃してしまって、うっかり罠を信じてしまうのですが、

でも、実は、その罠を信じてその罠を使ってしまっているばかりに、わたしは、自分を「孤独の底」に陥れているのでした。




それを発見したわたしは、本当に、びっくり驚きましたし、また、「全部、自分のコミットメントじゃん!」と、気づいて、力が抜けて笑いたくなりました。

発見したからには、わたしは、「その罠にはもうひっかからないようにするぞ!」という意味の、新しいコミットメントを自分で繋げて、

それをもとに、日々の生活の中で自分を見つめながら、古い罠にひっかからないように、新しいドアにつながるように、生活の中で、周りの人々の中で、自分で自分を感じている、そんな自分を感じて、コツコツと「練習」していました。

そのように「意図」すると、「古い罠」に気づくことができます。

人と関わっているときの自分の感情・感覚・思いの方向の中で、「あっち」のほうに行こうとする自分の考え方・思考を発見することができます。

それは、「古いコミットメント・罠」からもう卒業するんだ!と「意図」するから、きちんと気づくことができるんだなぁ、と、人間の意識の影響の強さに感心します。

人間は、意識が向く方向に、きちんと、進んでいきますね。(だから、どちらに意識を向けるのか、本当に気をつけなきゃね)

そして、「わたし」という人間にとって、最善で居心地の良い状態で、人間関係を築けるように、「意図」して、古いパターンを変えていきます。

それには「古いパターン」に気づいた、その都度、その都度、その気づくたびに、根気よく、何度も何度も、「意図」して、「あっち」に行こうとする自分の考え方を、「こっち」に向かせるようにします。

これは、ヨーガのテクニックですね。

自分の「思考」を手なづける。

「思考」は無くならないですからね。 特殊な状態を除いて、普通の生活の中では。

頭で努力しても「無」にはなれないです。 結局、頭で考えているので、無駄な努力です。

「思考」は自分という人生を象徴しています。

思考(スーパーエゴ)に振り回されてしまえば「邪魔者」になってしまいますが、

でも、それを理解すること、そして、手なづけることで、人生を学ぶための「味方」につけることができます。

そして、それに惑わされる・翻弄されるのではなく、「私がボスなんだ!」という威厳を持って、

「古いパターン・自分を不幸せにしている思考」を手なづけて、今の自分にとって居心地の良いパターンを推し進めていく。

古いパターンは、かつての昔の自分にとって必要だったものであり、その時期はもう過ぎたので、必要なくなっているわけだから、いつまでも古いものにしがみついていても、今の新しい自分にとっては、それとともに生きていても幸福にはならない。

だから、「いまの自分」に必要なシステムに塗り替えていく必要があります。

そこには、少し勇気も必要です。

今まで、したことないパターンでやってみる・・・というのは、生活の中での出来事でも、また、心の中のシステムでも、同じように少し勇気が必要なんですね。

だから、「マインド・思考」は抵抗するときがあります。

その抵抗は、身体にまで影響を及ぼすときがあります。

その抵抗を信じてしまうと、振り回されて、やはりまた、同じことをぐるぐると繰り返してしまうのでしょう。




話が反れましたので戻ります。



私は、スピリチュアルなギフトを持っていますが、そうはいってもやはり、人間として生きていますので、日々、自分と向き合い、人生という学びを深めています。

そんなふうに、日々、自分の古いコミットメントから卒業しようと、日々の生活の人々との関係性の中で「練習」をしていたある日。

本当に、痛い、痛い、出来事が起こりました。

「ああ、やっぱり、私は孤独なんだ。」

と思い知らされる(ような錯覚を起こす)出来事。

そして、勇気を出して、「でも、私は助けが必要なの」、と言葉にして言ってみたものの、それもやはり、

「ああ、やっぱり、誰も私をサポートしてくれないんだ」

と思い知らされる(ような錯覚を起こす)結果になり、

「ああ、やっぱり、私が愛を感じる人間たちは私から離れていってしまうんだ」

と思い知らされる(ような錯覚を起こす)、「孤独の底」に、ずぶずぶと落ちていく私を見ました。




でも、わたしは、常に自分を観察する・・・という、日々の中での瞑想を実践していますので、その「孤独の底」に落ちて呻きながらも、

「ああ、これは、テストだな」ということは、わかっていました。

ですので、その出来事の人物を責めることはしませんでした。「つらい」とは伝えましたが。

その人物はわたしのために、その「テスト」を与えてくれたのだと感じましたので、自分が傷ついているのを、その人物のせいにはしません。

そのテストというのは、わたしは、ここ最近のプロセスの中で(古いコミットメントに気づいて卒業するために)「練習」していたことを、まさに、実践して乗り越えるための、決定的なテスト。

練習してきたから、ここで、乗り越えるためのテストがやってきたのですね。

そう気づいていながらも、わたしは「古いネガティブパターンのコミットメント」にいる自分を叱咤して無理やり立ち上がらせるのではなく、(これをするから、卒業できないでずっと苦しむのです)まず、傷ついている「わたし」を、抱きしめ、抱擁し、愛し、よき理解者になるところから始めました。

そして、痛みを抱えている「わたし」を理解してあげたあとで、その「古いコミットメント」から離れるために、何が最善なのか、ということを「傷ついているわたし」と一緒になって考え、それに対して必要なものを与えてあげる。

(これをするには、ヨーガのテクニックでもある「自分の観察者になる」というのが、とても役に立ちます。いや、そのテクニック無しでは無理ですね。)

その時の、わたしは、絶対的に

「私は孤独で、誰もサポートしてくれないし、みな私から離れていってしまう」

という、「偽の真実」から、「わたし」を目覚めさせることが必要でした。

わたしは、お互いの人生のプロセスをずっと見守り合い続け、サポートしあい続けている、魂でつながる人々(ヨーロッパの仲間)にメッセージを送りました。

いま向き合っている自分の古いコミットメントと離れたいこと、その出来事が起こってテストされていること、このテストをどうしてもパスしたいこと、明日、自分自身の古いコミットメントを昇華するためのセレモニーを個人的にするから魂で参加してサポートしてほしいこと・・・・

そんなことを、心を込めて誠実に伝えました。

彼女たちはそれぞれ、ヨーロッパの中の違う国に住む仲間でしたが、わたしの「意図」に深く共鳴をしてくれて、一緒にそれぞれの自宅でセレモニーをすることになりました。

そして、それは、彼女たちにとってもとてもベストタイミングだったようで、その私のシェアリングと、みんなで意識を合わせて行ったセレモニーで、それぞれの心的なプロセスが深まったのでした。

わたしは、「孤独ではない」「真剣に求めればサポートは与えられる」そして、「私が誠実に人生の学びをシェアすると、ご縁のある人々の学びも深まる」という、確たる証拠を与えられ、感動で号泣をしました。




そして、その後も、

「古いネガティブパターンのコミットメント」から「わたし」を救出するぞ!と、強く「意図」して過ごしていました。

そう、

「わたし」を救出できるのは「わたし」しかいない。

でも、それには、サポートが必要ではある。

でも、サポートしてくれる誰かが救出してくれるのではなく、「わたし」は「わたし」しか救出できない。

でも、「ひとり」では、それはできない。

サポートがあるからこそ、わたしはそれをすることができる。




わたしが「意図」して生きていると、出会う人が突然、わたしのハートを震わすようなことを言ってくださったりします。

ヨーガの生徒さんがくださった、何気ない一言が、本当に、わたしの「救出」のサポートになったり、

いただいたメッセージの中から、いつもは気づかないのであろう「ひっそりと隠れた愛」を発見して感動したり、

また、アドバイスもなく、良いも悪いもなく、質問もなく、ただただ、うんうん、と話を聞いてくれることが、自分を見つめることを深めて、ジーンとしたり。

苦しい記憶とともに、こんなふうな癒しの記憶が、繰り返し、行ったり来たり、コツコツと繰り返されて、人間の経験を持つ「わたし」の「古いネガティブパターン」は新しい「希望的なコミットメント」へと、塗り替えられていきます。




Rattenberg1.jpg






この前の記事に書いた、先日訪れたラッテンベルグという町で。

そこは、パワーストーンのお店がたくさんありました。

アルプス山脈の近くなので、よく採れるのでしょうね。

わたしは「ストーンパーソン」であり、石と会話ができます。

そして、石と交流することで、わたしもとても癒されます。

あるお店で、かわいい石を発見してそれを買おうとレジに持っていきました。

観光客がいる場所なので、英語が通じてよかった。

ドイツやオーストリアはドイツ語圏なので、ドイツ語が喋れない私は、買い物をするときはいつも、ドキドキします。




レジカウンターでお金を払うときに、ふと、カウンターにあるマグカップに気づきました。

マグカップのふちに、四葉のクローバーがちょこん、とかわいく乗っていました。



Rattenberg四葉のクローバー.jpg



「わあ、かわいいですね!これ!」と、わたし。

感じの良い、昔ヒッピーだったっぽい中年のお姉さんは

「そうなの、さっきあそこで見つけたの。かわいいでしょう」

と言って、しんなりしていた四葉のクローバーを指でクルリン、と開いてくれました。

「写真撮らせて!」とわたしがカメラを向けると

「これは、あなたの幸運のためにここにあるのよ!」とお姉さんは言ってくれました。

・・・・・何気ない一言なのだけれど、お姉さんが自分で探して、自分でみつけて、自分のお店に置いてあった四葉のクローバーを、

わたしの幸運のために・・・・・と言ってくれて、

お姉さんが見つけた「幸運」を、ひょっこりやってきたただの観光客の私にシェアしてくれたことに、深く感激しました。

「ありがとう。あなたの幸運のため、そして、わたしの幸運のため、ですね。」

と、わたしは、ありがたい気持ちがいっぱいで言い直し、お姉さんとふたりで微笑みあいました。




なんてことない、小さな出来事でしたが、「古いネガティブパターンのコミットメント」から自分を救出する!という「意図」を持った私が引き寄せた、

素晴らしいプロセスだったな、と感激で胸がいっぱい、涙が出ました。

感動したので、ここでシェアしたくて、書きました。

そんなふうにして、「意図的」に生きることで、より自分を深く理解していき、

自分への理解が深ることで、よりこの世界にグラウンディングして、

地に足をつけて、生きていくことへの助けになるのだと思います。




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アシャッフェンブルグ6.jpg






























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2018年09月03日

心のフィルター



愛だけ、受け入れる、というフィルターを持とう。

どんなに腹が立つ状況だったとしても、

必ず、そこには愛が存在する。

わたしたち、一人一人は、愛が源となって存在している。

自分にとってどんなにイジワルで、失礼で、納得いかない誰かに対しても、

人間がかかわることのすべてには、必ず、根底に愛が存在する。

愛だけ受け取ることを決意する。

その人に、その状況に、腹が立っているのは、自分の投影だ。

それは、自分の人生の過去の経験からくる「思い込み」にすぎない。

「思い込み」は思い込んでいるだけであって、真実ではない。

思い込みという名の、眼鏡で見ているようなものだ。

実際のところ、

どこにも、かしこにも、必ず愛は存在する。

愛ではないものは、真実ではないから、

偽物の「事実」を、うのみにして信じないこと。

人間関係の中で、悲しい気持ちになっても、腹が立っても、納得いかなくても、

その根底にある「愛」を認めて、それだけ信じよう。

人間関係の中で感じているネガティブな思いは、

ほとんどの場合、自分がなにかを、その相手に投影しているからだ。

世界には、愛が溢れているんだよ。

人はみな、愛なしでは、生きて行けれない。

わたしたちは、愛でできているんだ。

その目線で人と接してみようか。

すると、すべての人間関係での葛藤や悲しみや怒りや居心地の悪さが、学びとなって、

それを冷静にみつめること、一歩さがって自分自身を観察するという行為そのものが、

深い学びとなり、あなた自身への癒しとなり、さらなる「あなたへの深み」となっていくんだ。

そして、愛を信じて、それをみつめる、そんなあなたのその存在そのものが、

世界への癒しへつながっていくんだよ。



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2018年08月28日

ブレイクスルー・乗り越えるチャンスの「サイン」



気になるけど、近づけない・・・・というとき、ないですか?

そういうときは、「サイン」ですよ。



例えば・・・・

やろう!・・・と前から思っていたのだけれれど、目前に迫ると、やっぱりやめとこうかな、と思い直してみたり。

家を出て、目的地まで行くための電車や自転車や車に乗ったというのに、やっぱり、なーんか気が乗らない、帰ろう・・・と引き返したり。

または、家の玄関で、立ったり座ったり、どうしよう、予定していたあそこに行こうか、でも面倒くさくなってきた・・・とモジモジしたり。

とても目に付く人がいて、気にっているのだけれど、なかなか勇気がなくて近づくことができない、かといって、別に恋しているわけではない、でも気になる、近づいてみたい、と思っているのだけれど、なんかためらってしまったり。

すごーーーーーく、気になっているイベントに、参加したいのだけれど、なんか勇気が出なくて、何度もそのページを開いてみたりするのだけれど、申し込むことがなかなかできず、時ばかり過ぎていったり。




そうこと、ないですか?

わたしは、ものすごい、たくさん、たくさん、たーくさん、ありますよ。

そして、その都度、自分をしっかりと内観します。




今日も、ありました。

まだちょっと、加わることに恥ずかしいような、おっかなびっくりなような、そんなコミュニティがミュンヘンにありまして。

そのリーダーの人と知り合いなので、きちんとしたコミュニティーだとはもちろんわかっているのだけれど、

歓迎されなかったらどうしよう、とか、

アジア人だから見下されたらどうしよう、とか、

なに話していいかわからないなどうしよう、とか、

そもそも、コミュニティに交わることが、もともと難しい私、どうしよう、とか、

ドイツの社会に少しずつ進出していくことが、なんだかおっかなびっくりでどうしよう、とか、

とか、とか、とか、

いろんな想いが混ざって、混ざって、混ざって、

自宅でメイクアップをして、服を着替えて、バックを持って、

さあ、いざ、出かけるぞ!・・・・ってなったところで、やっぱりやめようかな・・・・なんてソファに座っちゃったりして、逃げ腰になったりして。

そんな、かわいらしい「小鹿ちゃん」のわたしを、みつけましたよ。

これも、全部わたしのプロセス。





たいていね、わたしのプロセスの中では(みんなのプロセスにも当てはまるはず)、

自分の意志でやろうと思っていたことが、急に面倒くさくなったり、急に眠くなったり、急に面白くなくなったり、急にやめようかなと思ったりするとき、

そういうときは、「サイン」なのですよ。

なんの「サイン」?

それは、「エッジ」のサイン。

「エッジ」は、次の段階・ステージに上がるための経験が目前にあるときのこと。

そこに、大きな学びがあって、それが重要であればあるほど、ときに、マインドは反対のことをして邪魔をするときがあります。

要するに、おかしいな、これまで乗り気マンマンだったのに、な〜んだか急に嫌になっちゃった・・・というときというのは、その対象のことが、あなたの魂の向上につながる!ということ。

それを、どうブレイクスルーしていくかが、とても重要なポイントです。




でもね、

だからといって、そういう状況の時に、ただガムシャラに自分をやたらに律して、ガンガン突き進む・・・・というのではなくてね、(スピリチュアル的な準備ができていないと撃沈するときもありますから)

その、「な〜んかやんなっちゃった、どうしようかな、やめようかな」と、感じている自分を客観的にみつめて、

このまま、実行しても大丈夫かどうか、自分に感じてみることが大事です。

「無理やり、実行に移してしまったら、ちょっと、いまは無理かもしれない。苦しいかも」・・・・・と思ったら、今回は見送って、次のチャンスに準備が整ったときに行けばいい。

「うん、でも、きっと私は大丈夫、これは、次の段階に進むためのテストだから、きっとここはなんとか行けるはず」・・・・・と思ったら、怠惰になっている自分を少し奮い起こして、やるのみ、行くのみ!強い気持ちで自分を勇気づける!




今日の私は、いったい何回、行ったり来たりして、帰ろうか、行こうか、ウロウロしたかしら(笑)

でも、何度も行ったり来たりした経験を経たからこそ、少しずつでも、前に進んだんだ。

家の中から始まって、玄関・・・自転車・・・駅のホーム・・・・目的地の駅を出て・・・・目的地に近づいて・・・・、何度もウロウロ、自分の気持ちを確かめた。

現地に到着しても、入り口を入ることができず、何度も入り口まで行っては、少し離れたベンチに座って、自分の気持ちを確かめて、

そして、また入り口に行ったときの自分の気持ちを確かめて、また戻って、整えて。

そんなことを何度も繰り返して、やっと、中に入ることができた。

結局、30分くらい遅刻したけれど、(15分前に着くように自宅で準備をしたというのに!)

わたしにとって、その入り口を一人で!(これが重要だった)入ることができて、とても大きな偉業を成し遂げたような気分。

実は、なんてことない、些細な出来事だけれど、わたしの様々なトラウマや、過去の経験からの恐れなどから、

ちっちゃくなっていた「小鹿ちゃん」のわたしが、この今日の経験で癒されて、そして、大きく、広く、なっていくのだよ。




だからね。

皆さんにも言いたい。

すっごーく気になって、なんどもチェックしちゃうんだけど、どうしてもそこに近づけない・・・・・というとき。

今まですごく興味があったんだけど、急に飽きちゃった、つまらなく感じちゃった、帰りたくなっちゃった・・・・・というとき。

今までノリノリだったんだけど、突然、気持ちが変わって、やっぱやーめたモードになっちゃった・・・・・というとき。

そこには、あなたの向上にとっての、重要なカギが隠されているのだよ。

そのサインを、ただの「心の変化・心変わり」と捉えないで、

よく、感じてみて。

絶対に、「急にやりたくなくなった」という理由があるから。(大抵は、過去の経験からのあれこれが、影響している。でも頭での分析は不可能)


そして、

これは無理!いまは乗り越えられそうにない!・・・と思ったら、自分をいたわって、次のチャンスに回したらいいよ。

でも、

行けそう・・・、やれそう・・・だったら、行くのみ!!! やるのみ!!!

ちょっと自分を勇気づけて、元気づけて、ゴーゴー!

誰か周りの人に相談しても、そういうときは意味がない(プロのカウンセラーに相談するのだったら意味があるけれどね。スキルのない友人関係での相談は、そういうときはやめたほうがいい)。

(素人の)人の人生の経験からの口出し・アドバイスは、その人の人生のものであって、あなたの人生のものではないから。

他人の人生においての主観的なアドバイスを聞くと、余計に、戸惑う、混乱する、自分がわからなくなるだけだ。

どうしても誰かに聞いてもらいたくなったら、自分を整えるために、プロのカウンセラー、または、きちんとシェアリングを聞く技術を持った人に聞いてもらったらいい。(私のヒーリングカウンセリングセッションがお役に立てればどうぞ活用してください)



それにしても、

今日のわたしは、とてもわかりやすいプロセスで、ブレイクスルー・乗り越えましたよ。

何度も、行ったり来たり、やめようか、どうしようか、でも行ってみようか、戻ろうか、

葛藤しながらも、自分を勇気づけて、愛を与えて、大丈夫かどうか自分に聞いて、

そして、自分の力で、自分の足で、一人でその入り口を入って、

未知のコミュニティの一部に溶けていった。

やってみたら、葛藤していたことなんか、忘れてしまった。

どうってことなかった。

でも、葛藤しながら乗り越えたことが、わたしの何かを変えたことは事実として感じられる。

そして、この経験が、また、次につながっていく。

そしてそれが、前へ、前へと続いていく。

自分をほめてあげよう。

よくやった、わたし。

皆さんにも、当てはまるはず。

どうぞ、わたしの経験のシェアからご自身を感じてください。



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2018年06月12日

「鏡」




文字だけの交流は

真実を覆い隠す

人は

文字からの情報を

自分のフィルターを通して理解するから

「相手」という「鏡」から

自分の内面を映し出して見て

いろんな感情になるのだということに

気づいていた方がいい

たとえそれを頭で知っていたとしても

実際には

無意識では気づかないことが多いだろう

人間は不完全であることが完璧な形だ

だから

間違いを恐れずに

自分の間違いに

意識的に気づこう

そして

あなたが見ている「鏡」は

相手そのものの真実ではなく

あなたの内面で感じ取っている

あなたの一部分なのだと認めよう

どんなにすごいひとでも

どんなに修行した人でも

人間として生きているうちは

絶対にこれにはまるからね

人のことより

自分のことをみるんだ

それはジャッジメントではない

裁きの目ではなく

育みの目で見るんだ



洗面所の鏡に映った自分は

装っている自分の顔だけれど

周りの人間という「鏡」に見ている自分の反映は

ストレートに自分の内面だ

文字だけの世界は

顕著に現れるよね

信じてはいけないよ

生きやすく生きたいのなら

それを真実だと信じてはいけない

その人に見ている「鏡」に

映し出されたものではなく

その人そのものをきちんと感じたほうがいい

会いに行って

または

声を聞いて

直接感じるべきだと思うのだよ

すると

自分が見ていた「鏡」に気付くだろう

そして

人と人は理解し合えて

そして

自分への理解も深まる

すると成長するのだろう



SNSやメッセンジャーとかライン、ブログなどは

まさにこの「鏡」の世界だよね




「鏡」.jpg



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2018年04月24日

わたしもあなたも正しい


誰が正しいとか、

誰が悪いとか、

誰のせいだとか、

そんなんじゃない。

それはただ、外側にも、自分の内側にも、争いを生むだけのトリックだ。

自分の正しさを主張すればするほど、

平和から遠ざかっていく。

そして、相手を尊重しすぎて自分を殺してしまえば、

内側の自分が、いずれ発狂する。

実際に、そこにあるのは「違う」ということ。

わたしも正しいし、あなたも正しい。

ただ、違うだけ。

ただ居心地のよい方法や、受け取りかたのコツが違うだけ。

人それぞれ、みんな人生イロイロなのだから、

十人十色の生き方があり、考え方がある。

相手を否定するか、または、自分を否定するか、

という、無駄な葛藤は必要ない。

わたしも正しいし、あなたも正しい。

ただ違うだけ。

無理やりなにかを変えようとしなくていい。

違ったって、いいじゃないか。

オリジナル・バンザイ!

自分のオリジナリティを自信満々に心底認めていれば、

相手のオリジナリティも、好奇心いっぱいに受け入れることができる。

相手を受け入れられない、許せないのは、

自分が自分を認めていないからだ。

ただ、「違う」だけ。

正しいも、間違いも、そこには存在しない。

これは、外側の人間関係の平和だけではなく、自分の内側の平和へ繋がる、大きな一歩。



オンライン・お電話セッションご予約可能枠
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/445301608.html


2018年初夏 日本でのイベント・セッション
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/458378556.html



わたしもあなたも正しい.jpg





posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:46| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

「いま」というアート



「いま」を感じるサインは

どこにでも 潜んでいる



雷が鳴って 突然 驚かされたとき

「いま」の「わたし」に引き戻される



まさに いま 蚊が 私の皮膚に食いついているとき

「いま」の「わたし」に気づく



長いストーリーを書いていて 突然 PCがダウンしてしまったとき

「いま」の「わたし」の落胆をどっぷり感じる



太陽の光が 雲の間から 急にわたしの顔を撫でたとき

「いま」の「わたし」の命に感謝する



駅のホームで 目の前で電車のドアが閉まってしまったとき

取り残された「いま」の「わたし」がいる



あるはずのものが 急になくなってしまったことに 気づいたとき

「いま」の「わたし」が どれほどそれを大切に思っていたかに 気づかされる



「いま」に気づかされるサインは どこにでも潜んでいる

目線をそこに移すだけで 生活は「瞑想」になる

すると 人生と「わたし」との 関係性がみえてくる

そして 命の 意味が受け取れるようになる

瞬間 瞬間ごとが 丁寧に作り上げられた アート(芸術)となる


ティクセ2.jpg







posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 10:00| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月23日

セクシャリティとスピリチュアリティ

セクシャリティは、スピリチュアリティと深く関与する。

多くの人は「セクシャリティ」と聞くと、ただ「エロス」を連想してしまうようだが、それは偏った見かたであると言いたい。

セクシーになるとか、性行為の技術や感度があがるとか、誰彼かまわずオープンにフリーに交わるとか、そういう「欲望的」なことが「セクシャリティ」なのではない。

社会や文化や育った環境から偏見の目を培われてしまっている私たちは、本当の意味でのセクシャリティについては、目隠しされているようなものだと感じる。

恥ずかしいもの、と自動的にマインドが反応してしまうのだろう。

そのように偏った情報で、世間と文化からインプットされているから、自動的に恥ずかしい、隠さなきゃ、後ろめたい、と反応してしまうのだろう。

でも実際には、私たち人間の肉体はどうやってできあがるのか?

性エネルギーなしでは、私たちの肉体=この人生、は創られることはないのは紛れもない事実。

なぜこの偉大な創造性の力が、恥ずかしくて後ろめたく感じてしまうのだろう。生まれてきたことは恥ずかしいことなのか?

とても神聖な「命が創造されるエネルギー」なのだ。

ただの欲望に任せたエロスではない。

覚醒された状態で、真なる目を開いて見てみれば、それは、命=人生で一番大切なもの、を創造することができる神聖なエネルギーなのだ。

私が感じているセクシャリティの調和とは、男女のまぐあいの行為だけではなく、それ以前に、

個人の中での男性性と女性性の統合。

それは、陰と陽のバランスでもあり、秘めたる創造性=クリエイティブな生き方、に繋がるドアでもあるといえる。

それは「自分らしく生きる」というエッセンスであり、「生まれてきた源・自分の命の意味」という源泉に向かう扉ともいえる。

それはスピリチュアリティを深めることともいえる。

そういう目線でセクシャリティ=創造性クリエイティビティを感じている。

私は瞑想的に生きることと、様々なスピリチュアル体験を経て、自分の内から、これらに気づいている。知っている。でも本当はみな誰しも、知っている。でも忘れている、閉ざされてる。

わたしはこれからもっと、この「重要なこと」について、語りたいと思っている。




イベント情報
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/420951276.html

セッションのご案内
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/418246610.html

ヒーリングヨーガ(スカイプ)
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/439826067.html




セクシャリティとスピリチュアリティ.jpg


posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 00:33| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

完璧ってなんだ?



なるほど。

人はみは、自分で自分を裁いている「インナージャッジメント」に苦しんでいるのではないか。

もっと、ああすればよかった、とか、

わたしはもっと、うまくできたはず、とか、

こんなこと言って、あの人に悪いことしたな、とか、

どうして、ああいうふうにできないんだろう、とか、

よし!これが最善だ!と思ってやった行動でも、そのすぐ直後に「ああ、間違ってたかな」、とか、

心の中では、常に、「なにか」の基準に自分を当てはめて、葛藤している。



わたしが見ているに、これは、一人残らず、すべての人間が同じように持っている。

だから、これは、人間という生き物の「性質」なのだと思う。

もちろん、わたしも持っている。人間だから。



どうして、ジャッジしているのか?

なにを基準にして、「良い」と「悪い」を決めているのか?

完璧であるためにジャッジしているのか?

「完璧」ってなんだ?

どんな形と様式が「完璧」というものなのか?

具体的に「完璧」という自分をあげてみよ・・・・と言われたら・・・・

うん、きっと一個一個、理想である「完璧像」を挙げられると思う。

いや、まてよ。

でも、それは、本当に、本当に、「完璧(パーフェクト)」なのか?

そして、その自分が理想としている「完璧」な像になることは、果たして可能なのか?

その像と同じ「完璧な人」は、この世に存在しているのか?

存在するとしたら、いったい誰だ? 誰を理想としているんだ?

いや、私の知っている限りでは、完璧な人間なんて、誰一人としていない。

イエスやブッダでさえも、わたしが自分に強いている「完璧な像」とは違うとわたしは感じる。

では、なぜ、存在しないものに、そうあろうと、自分を縛り付けているのか。

どうして、存在しないものと自分を比べて、自分をジャッジしているのか。

まったく無意味なことだ。

あほらしい。

「完璧」なんて、存在しないのだ。

外側の世界にも存在しないし、内側の世界にも存在しない。

だとしたら、ある意味、

いまの「不完全なわたし」のままで、すでに「完璧」と言ってしまえばいい。

存在しないものを、自分で勝手に創造してそれを基準としているのだったら、

自分の心地よいように、新しく創造してもよいはず。

そのほうが、よっぽど、精神的に安定して、ある側面での「完璧」に近づくのでは?

マインドのからくりは面白くて、本当に笑える。

その罠にかかっている自分に気づくと、また笑える。




そして、これが人間の「性質」なのだとしたら、持っている意味があるはず。

すべてのものは必要があって存在するから。

それに気づいて、そこから「自分」を確立することを学んでいくために、あえて、そういう性質を持っているのかもしれない。

だとしたら、わたしは、

その「存在しない完璧像」に振り回されない・・・・・と宣言しておこう。

「性質」なのだから、持ち続けていくものなのだから、

だったら、持っているそれから、「振り回される」のではなくて、

わたしは「学び進む」という道を選ぶ。

そうすると、すべてに意味が生じる。

笑える、素敵だ。


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 16:34| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月21日

自分自身に強く意図すること




少しひさびさに近況報告を。



9月に参加したムーブメントメディスンの集中トレーニングから、ちょうど1か月経ち、

さらに深いレベルのトレーニングに参加するため、また、イギリスに帰ってきた。



これは、前回のトレーニングの集合写真の女子のみのバージョン。 ほかに男性もいたけれど、全員の集合写真は手もとにないのでこれで。

Initiation.jpg



やっと、これの写真(からのエネルギー)をアップする気持ちになった。

前回のトレーニングコースで、自分の感性をさらに発達させ、わたしは、他者の波動や土地の波動に、前よりももっと繊細になり(前から敏感だが)、

この1カ月間、この新しい自分と、パワフルすぎる能力との折り合いをつける方法を探す、エネルギー調整期間に入っていた。





そして、今日からまた、10日間の集中トレーニングに入っている。

この期間は、本当に本当に深いワークに入るので、外界との交流ができなくなる。

そのために、11月からの日本でのお仕事を、すべて、今日までにまとめたので、ものすごい忙しかった。



この一か月・・・・よりパワフルになったわたしが学んでいたことは・・・・・

「本当の意味でのプロテクションとはなにか? どうすることで本当の意味で自分へのプロテクトになるのか?」

結局、学ぶのは自分であり、人生というのは、学んで、楽しみ尽くすために生きていると思うのだ。

そして、苦しみはいつも自分のこれまでの経験からの「想い癖」からくるもので、

これは自分で張り付けた癖なので、自分でしか軌道修正することができない。

本当の意味での「プロテクション(守る)」というのは、

悪いものがこちら側に入ってこないようにする・・・ことではなくて、

善からぬ波動がやってきても、動じない自分を作る・・・・・ということだと信じている。

(これは、私が提供する新サイキックプロテクションの考えと同じだ。)
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/409862235.html
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/408610523.html

だから、周りのせいにするのではなくて・・・・、自分を強く!自分を磨け!・・・・ということ。

だって、結局、自分の中のあれこれが、外界のいろいろから刺激されて巻き起こっているだけだから、

外界のいろいろのせいではなくて、結局、そこから自分がどう学んでいくか・・・・ということ。

そして、それが自分を守る強さにつながっていくということ。

敵は外にいるのではなく(内側にもいないけど)、内側にいる味方に磨きをかけよ!・・・ということかな。




ここ数週間のわたしに、

頻繁に、「試される」できごとが、繰り返し、繰り返しやってきて、

わたしは、その都度、またいつもの「古い自分の想い癖・パターン」にはまっていく。

それに気づくたびに、わたしのスピリチュアルなガイドが、上からわたしに語りかける。

「Remember who you are. 本来のあなたを想いだしなさい。」




こんなサイクルを、あなたは繰り返していないだろうか?

古い自分のパターンや心の思い癖に気づくたびに

「まただ、なんで私、うまくできないんだろう。だめだなぁ」・・・・と、落ち込んで自分が嫌になったりする。

そんなふうに自分をジャッジしている自分に気づいて、また、「ああ、またジャッジしている、だめだなぁ」・・・・と、永遠に連鎖する「自己否定」のループに絡まってしまったりする。

そして、永遠にそこから出られなくなっていって、どんどん、自分の存在を疑い始める・・・・。

自分で作り上げている、苦しみの方程式だ。




わたしは、こう強く思う。

結局、「変わるぞ!」と意図しなければ、人間は変われないんだ。

自分の意図したとおりに、人生は顕現化していく。

とても強い意図をもたなければいけない。

「わたしはだめなんだ」と、意図すれば、ダメのままでいるのだろう。

心の向きの通りに、現実は創造されるからだ。




「受け入れる」というのは、このまま甘んじて、不本意な自分のままでいる・・・・ということではないと思う。

「受け入れる」というのは、それをジャッジせずに認めて、そのうえで、その学びを生かしていくということだと思う。

スピリチュアルな世界に興味を持つ人の、間違いやすい点は、「受け入れる」というのを勘違いして理解してしまうことだと思う。

このことについては、文章では書けない(誤解されやすい)内容だから、セッションを受けてください。そのかたそれぞれに対して必要な言葉でシェアできると思う。





わたしは、スイッチがそこにあるのを知っている。

それは、自分の「使い古したパターン」を切り離すスイッチ。

それを押すのも、ただ見つめるだけで押さないのも、自分次第。

ほかの誰かが、そのスイッチを押してくれることは、絶対にない。

信頼のおける人が、そのスイッチを押す勇気をくれる助けになることはあるかもしれない。
(それが、カウンセリングだったりヒーリングセッションだったりするかもしれない)

でも、スイッチに手をかける意図を持って、力を出して、エイッ!と押せるのは、自分でしかない。

もしかしたら、そのスイッチにはパスワードも必要なのかもしれない。

自分で作ったスイッチだから、自分しかそのパスワードを知らない。

そして、私たちは、自分でパスワードを設定しておいて、それを忘れてしまう。

だから、思い出すためのヒントや手助けが必要なときもあるだろう。
(カウンセリングやヒーリングセッションなどが助けになる)

でも、スイッチを押すことは、自分でしかできない。




とにかく、わたしは、意図する。

「気づいている」わたしは、強い意図をもって、スイッチを押す。

スイッチは一回押したくらいじゃ、切り替わらないことも知っている。

ずっと、オフになっていたスイッチだから、オンにしても、放っておくと、またすぐにオフに切り替わってしまう。

「オン」の癖がつくまで、何度でも、何度でも、わたしは強く意図する。

誰も、わたしの代わりにはやってくれない。

わたしは、私自身で、自分を強くしていく。

わたしは、前に進み続ける。

強く、意図する。




これが、新たな変容へのドアの前に立っている、いまのわたし。

「Remember who you are. 本来の自分を思い出しなさい」

繰り返し、繰り返し、このメッセージが響いている。

これから、2週間ほどは、もしかしたらブログのアップはできないかもしれません。

ご縁のあるみなさまが、祝福されていることに気づきますように、

宇宙にお祈りしております。









posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 06:01| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

下着を外した理由



最近のわたしは、できるだけ下着をつけないようして生活をしてる。

下着をつけない生活・・・・・・まず、強く伝えることができるのが

「めちゃくちゃ、快適!!!!!」なんですよ、これ。



******



最近ね、

当たり前のように、普通に生活でやっている、いわゆる「習慣」を見直しているところです。

自動的に、「そういうもの」として、自然と自分の生活の一部になっている「習慣」を、本当にそれが必要なのか?・・・・それがないと生きて行けないのか?・・・それがない生活って、どんななんだろう?・・・・とみなおしています。

すると、疑問点や、不思議感や、腑に落ちない感が、いっぱいなの!

なにも考えずにいままでやっていたけれど、「生きている自分」というところに、きちんと目を向けた時に、いまのわたしにとって、必要ないもの、納得いかないものは、しなくてもいいな、と思っています。

それは、親や、先生や、社会から教えられたから、これまで、何も考えずに、ただ従ってきたものだったけれど、いまの自分にとって、本当にそれが「心地よいのか?」と、改めて自分に問いたところで、出てきた答えで、生きていきたいのです。


********


そして、下着について、疑問を抱き始めました。

そもそも、なぜ、下着をつけなければいけないのか?

ちょっと、考えてみました。

なんで? なんでだろう?

まず、ブラジャー → 乳が垂れるから?(笑)

でも、ブラジャーしても、どうせ垂れるよね? ははは

年取れば、仕方ないことだよね。

それは、老いることが、美しくない・・・・と勝手に決め込んでいる、思いこみだよね。




そして、ショーツ。

生理の時は、着用するのは仕方がないね。

でも、昔の着物時代の日本人は、生理の時もショーツは履いてなかったんだよね。

現代人は、経血のコントロールが難しいから、ショーツ使用するのは仕方がないね。

でも、生理以外の日は、なんで履いているの?

バイキンが入るから? ははは、本当かな、そんなこと、この清潔な現代社会に。 

インドの田舎じゃあるまいし。

日本では、コンビニのトイレにも除菌とウォシュレットがついてるっていうのに。


******



下着について、疑問に思ったきっかけは、ヨーロッパ人のある男性から

「女性のブラジャーは、まるで牢獄みたいだ。 居心地悪くないの? 僕は賛成しないんだよね。」

と、言われたたことでした。

ビックリしました。

その発言にもビックリだけど、わたしの男性というものの概念とも違って、ビックリ。

全然、下心も、いやらしい気持ちも、なんにもなくて、さりげない日常でボソッとつぶやいた言葉でしたから、その人の本音なんでしょう。

本当に、ビックリ。

わたし、いままで、男性はみんな、バストの大きい人が好きなんだと思っていた。

だから、ブラジャーの魔法でキレイに見えるバストのことが、みんな、好きなんだと思ってた。

ずっと、そう思ってたし、ずっと、そういう男性ばかりがまわりにいた。





そして、考えたのですね。

なんで、ブラジャーするんだろう?

わたし別に、将来、乳が垂れるから・・・・とか、そういうのまったく気にしてないです(笑)

じゃあ、なんでだろう?

休みの日とか、リラックスムードのときは、ブラ、つけないで過ごすこともありますよね。

すると、とっても脱力できて快適なのに、どうして、わざわざ、快適じゃないことをしているんだろう?

なんでだろう?

うん、わたしにとっては・・・

胸の形がきれいに見えるから・・・・っていうのが、一番、大きい理由だと気づきました。

バストが豊かに見えたほうが、なんだか気分がいいから・・・・って理由が大きかったな。

とくにいまヨーロッパにいると、バスト大きい人が多いから、なんだか日本人サイズの自分が恥ずかしいような・・・。

なんで、バストが大きく見えたほうがいいのか・・・・?

それは、男性目線で見た時に、そのほうが「キレイ」って思われそう・・・・だからですね。

だって女性的には、小さくても、大きくても、どっちでも関係なく生きて行けれるもんね。

社会的にも、バストの大きい女性のことが好きな男性が多いし、それだけで、男性は盛り上がっちゃうかたが多いから、女性もそれに合わせて、「愛されたい!」という意識から、よりバストを美しく見せようとするのかもしれない。

そういえば、確かに、これまでの関わった男性は、バストが大きいほうが盛り上がっている男性がほとんどでした。

特に、日本人男性は露骨にその傾向があると感じます。

だから、女性はボリュームアップのブラとか、つけちゃうんですよね。

「愛されたい」という意識が、根底にあるんですよね。

バストが大きいほうが愛されるだろう、って勘違いしちゃう。

でも、ボリュームアップの偽物パッドが入ったブラジャーを外したら、いつものサイズに戻っちゃうから、そうなると、愛されないのか?

そんなの、おかしいよなぁ。

バストが大きかろうと、小さかろうと、わたしは、わたし。

本当の意味で愛されたい女性は、どんな姿かたちの自分でも、愛してくれる男性を、選ぶべし!

ということで、最近、わたしは、窮屈なブラジャーをできるだけ外して、ゆるゆるなブラ・・・または、ノーブラで暮らしています。

乳首が服の上から見えてしまう服装の時は仕方がないので着用しますが(でもヨーロッパだと乳首見えてもみんな気にしてないんだけどね)、それでも、ホックやワイヤーで締め付けない、布製のブラをできるだけ使います。 

それは、パッドの入っていない、三角ビキニみたいな感じなので、バストの形なんて、ぺったんこになっちゃうけど、

締め付けたり、厚いパッドが入っていたり、きついワイヤーが入っているブラに比べたら、断然、ダンゼン、だんぜーーーーん! めちゃくちゃ快適です!!!!!!

そして、

いま思うのは、「キレイに見せたい。男性に愛されたい」みたいな、媚びるかのような、間違った「美意識」からも解放されて、

すっごい、すっごい、快適です!!!!!

ブラに関して、わたしにとっては、かなり、この「バストの形をキレイに見せたい」という気持ちから着用していた、ということに気づきました。

そして、それは、「キレイと思われたい」というところにつながり、

そこには「愛されたい」という意識が潜んでいることに気づいた、という結論に達しました。

でも、そんなふうに愛されても、それは、本当の意味で愛されてるわけじゃないよね。

だったら、必要ないね。



********


そして、ショーツ。

こちらに関しては、本当に、疑問でした。

とくに、モモの付け根のそけい部のあたりがショーツで締め付けられて居心地悪いし、おへその下のあたりにゴムの線がつくし、よいことがあまりないです。

化学繊維のショーツはデリケート肌な私はかぶれてしまうので、できるだけコットン100%のショーツを選びますし、最近は、ふんどしっぽい形のゆるパンを使用し始めました。でも、それだと、かわいいデザインが少ないのよね。

でも、なんで、そこまでして、ショーツ履かなきゃいけないの?

生理の時のことは、置いといたとして・・・・・

このショーツについては、意味がわかりません。 なんでだろう????

着物時代の人たちは、履いてなかったんでしょ?

じゃあ、いつから履くようになったんだろう? そして、なんのために???

誰が、決めたんだろう??

意味がわからないので、まず、やってみよう!・・・と、一度、ショーツを履くのをやめてみました。

そしたら、これが、快適で、快適で!!!

ロングスカートの時なんかは、ショーツ無しでも、全然OKですよね。 誰も気づかない。

ふわっとしたパンツの時なんかも、ショーツ無しでも大丈夫。

そして、寝る時なんかは、ショーツなんか履かないでも、まったく問題ないですよね。

めっちゃくちゃ、快適ですよ!!!




わたしは、森で裸になって踊ったりすることがあります。

誰もいなければ、川で、裸で沐浴したりすることも好きです。

そういう時に思うのですが、洋服は「社会」ですよね。

わたしたちは、社会を着こんでる。

着る服によって、その人の印象が変わるし、立場も変わってくるかもしれない。

セクシーな服を着れば女らしく見えるし、工事現場みたいな服を着れば、まるで女性らしさは見えなくなるし、カチッとしたスーツを着ればお堅く見えて、ゆるっとしたヒッピー服を着れば反社会的だと見えるかもしれない、聖者っぽい宗教的な服装をすればそう見えるし、ボロボロの真っ黒な服を着てればホームレスに見えるのかもしれない。

その人間自体は、なんにも変わらないのに、洋服が変わるだけで「社会性」が変わるんですね。

大自然の森の中で、その「社会」である洋服を脱ぎ捨てて、すべての部分の肌を太陽にさらして、風を感じる時の解放感ったら、すごいですよ!!!!

そして、その「社会」であるところの「洋服」の、最後の砦が「下着」です。

昔、初めて、森で裸になろう!と決心した時。

洋服は脱げても、下着はなかなか、脱げませんでした。

一番最初は、結局、下着は脱げずに諦めた記憶があります。(いまは軽々、脱いじゃいます!)

それだけ、頑なに、へばりついている「こうあるべき!」という概念=「社会」が、わたしに憑りついているんだな、と感じました。

丸裸で、生きたいな〜〜。


マヨルカ3.jpg



















posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:20| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

その3 人生の中での優先順位は?



わたしが、むかし肋骨がヒビ折れたときのお話。

あれは、まだ、東京都練馬区に住んでいたころだったから、2003年くらいだったかな。

自分の体よりも、エゴを優先にしてしいたことに気づいたときのお話をシェアします。





当時は・・・・・

東京で大人気のヨーガインストラクターで、フィットネスクラブでガンガン、レッスンやっていました。

当時は、ダンスチックなエアロビクスのインストラクターもしていて、そちらも結構ファンの方がいてくださって、

そして、日本で人気が出始めてすぐのころの、ピラティスの国際認定トレーナーもしていて、プライベートトレーニングなんかも提供していました。

週に30本以上のレッスンやセッションをやって、めちゃくちゃ、忙しい生活をしていたころのことです。

毎日、くたくたに疲れて、1DKの狭いアパートの独り暮らしの部屋に、倒れこむようにして帰る日々でした。

とにかく、運動しすぎ、身体を使いすぎていたので、身体は疲労しまくっていて、ストレッチしても、マッサージしても、回復する前に、また疲労する・・・・という状態でした。

インストラクターは、運動をしながら大きな声で、ずっと喋りまくるので、声はガラガラで、時々、声がまったく出なくなってしまうことも、しょっちゅうでした。




ある日。

朝、起きると、脇腹の激痛で動けなくなりました。

痛くて、痛くて、ピクリとも動けませんでした。

どうしたものか・・・・・、今日もみっちり6レッスンも仕事が入っているのに・・・・。

傷みに悶えながら、なんとかしてベッドから出て、着替えを済ませ、さて、どうしたらいいんだろう・・・と悩みました。

これでは、ヨーガのポーズや、ダンスのインストラクションはもとより、大きな声で話をすることも、できない。

深呼吸するのも痛いし、お腹に力を入れることもできないから、トイレも恐怖でした。

そのときはちょうど、風邪を引いていて、ゲホゲホ、ずっと言っていたので、疲れた肉体が、その咳に耐えられなくて、過度に伸縮を繰り返した肋骨が、寝ている間にヒビ折れてしまった模様。

それに加えて、運動しながらマイクでしゃべり続けていて、たくさん、腹筋と横隔膜を使いすぎて、肋骨周辺の筋肉が疲労しすぎたために、耐えられずに肋骨にヒビが入った模様。





あの時は、本当に痛かった・・・・・

でも、わたしは、仕事を休めなかった。

休む気なら、代わりの人を探して休むことができたのだけれど、休んではいけない、と自分で自分を律していた。

どんなに苦しくても、つらくても、絶対に休んではいけない!・・・・と思いこんでいた。

当時、仲良くしていた鍼灸治療院の友人に連絡をして、とにかく応急でどうしたらいいかを聞き、

ドラッグストアで骨盤ベルトを買ってきて、それを肋骨にまいて、なんと、激痛の中、ダンスエアロを含む6本のレッスンを、その日はやってしまった。

仕事を休まずに、頑張った自分が、なんだかとても偉い!と思ってしまって、その後も、ずっと、激痛を我慢しながら、休まずレッスンをリードしていた。

もちろん、肋骨は悪化していって、痛くて、痛くて、本当に痛かった。

でも、なんだか、痛いのを我慢してまで頑張っている自分が、とっても偉い、と錯覚してきてしまって、そんな自分に馬鹿みたいに浸っていたんだと思う。

わたし、頑張ってるんだよ! こんなに痛いのに、がんばってるんだよ!・・・・とアピールしていたような・・・。

これは一種の、麻薬だね。 

どんどん、その「わたしこんなに頑張ってるの!」が、気持ちよくなってきてしまう。

すっごく痛ければ、痛いほど、それを我慢して、頑張れば、頑張るほど・・・・なんだか、認められるような気がしていた。

でも、違った。

結局、レッスン参加者からご意見箱にコメントをいただき、

「怪我をしても休まずレッスンしてくれるのは嬉しいけれど、ユキさんはすごく痛そうで、見ているこっちもすごくツライ。お願いだからユキさんを休ませてあげてください。身体にいいことするはずのインストラクターが、身体に苦しいことしているのは、見ていてとてもツライです。」

という内容だった。

わたしは、本当にビックリした。

自分が、間違った観念を持っていたことに、やっと気がついた。

そうか、頑張って、頑張って、苦しみの中でも頑張り通すことが、美しいのだと、勘違いしてたんだ。

そういう姿を、人々は認めてくれるのだと、勘違いしていた。

だから、尋常ではない数のレッスンを毎日、毎週こなして、「こんなに頑張っているのよ、あたし!」・・・・という、まやかしの自己満足に、ただ浸ってただけだったんだ!

頑張って、頑張って、苦しんでるわたしをみても、誰も美しいと思わないんだ。 

ああ、間違っていた。

エゴだった。

(楽しんで、頑張っている姿が、きっと美しいんだな、といまは思う)




途端に、身体がかわいそうになった。

当時は、プロポーションが良くて、写真家の方から「ヌードモデルになってくれませんか?」と言われたことも何度かあった。

いまは、歳とともに(心とともに)だいぶゆるでしまったけれど、当時は、引き締まった自慢の身体だった。

当時、わたしの商売道具のひとつとして意識していた、その身体。

本当に、酷使して、かわいそうなことをしていた。

わたしは、人から認められたいと思うばかりに、自分自身を追いこんで、痛めつけ、咳をしただけで肋骨がヒビ折れてしまうほど弱らせていた。

それに、まったく気づかずに、ただただ、「わたし、こんなに頑張っている!」という、自己満足の麻薬に憑りつかれていた。

「認められたい」という意識の中での、エゴ満足だった。

でも、それは、ただのわたしの思い違いで、そんなに頑張って、苦しんでも、誰からも認められないのに・・・・。




それから必死で、代わりにレッスンをしてくれるインストラクターを探しまくって、次の日から1週間、お仕事をお休みをした。

絶対に休めない!・・・・と思いこんでいたけれど、あっさりと代わりが見つかり、簡単にお休みすることができた。

それにも、驚いた。

やろうと思えば、こんなに簡単に仕事を休むことができるんだ。

休めない、休んではいけない、と思っていたのは、ただの幻だった。

それが幻だったとしたら、わたしは、なにに、そんなに、しがみついていたんだろう。

一番大事にしなければいけないのは、レッスンへの執着や、人から認められたい欲や、エゴ満足の馬鹿みたいな意地ではなくて、

一番大事にするべきなのは、なによりも、自分自身が本当の意味で「幸福」に感じること、なのではないか。

身体と、心と、魂の「幸福」。




この出来事は、わたしがヨーガ指導を始めてまだまもないころのこと。

当時は、ポーズだけのフィットネス形式のヨーガクラスを、たくさんの東京の有名スポーツクラブで提供しているころの経験でした。

この少しあとに、本格的な精神世界のヨーガを学び始めました。

わたしのヨーガは、身体から方向から始まったのですが、精神世界やヨーガ哲学を学ぶにつれて、すべての統合が必要なのだということ行きつきました。

身体次元の観点だけではなく、スピリチュアリティの観点だけでもなく、また、エネルギーの観点だけでもない。

すべての統合。

これはまた、別の機会に書こうと思います。



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2017年07月04日

その2 人生の中での優先順位は?



彼女は、とても大切にしている人を、両親に会わせようとした。

1か月以上も前から、その人を連れて両親を訪ねる日取りを決めていた。

両親は「仕事の様子で、時間が取れるかどうかわからない」と言っていた。

彼女はとても納得いかなかった。

どうして、1か月以上も前から告げているのに、それに合わせて、仕事を調整しようとしないのだろう。

大切な人を両親に会わせたい・・・・・と願うことって、人生で、そうそう、何度もないことなのに。



1か月後、その日が来た。

彼女は両親の住む家へと、大切な人と一緒に向かった。

父親は不在だった。

母親は「仕事が忙しくて来れないよ」と言った。

彼女は、とても悲しかったが、諦めた。

結局、家族よりも仕事のほうが大事なのだ。



彼女が連れて行った大切な人は、20時間もかけて、はるばる、ここまで来てくれた人だった。

仕事を休んで、お金をかけて、時間を費やして、体力を消耗して、はるばるやってきた。

彼女の父親は、自宅から車で20分のオフィスで働いていた。

娘の大切な人のために、たった30分でも顔を出すことさえも、考えられないほど、仕事が大事だった。

彼女は、最初から諦めていたが、それでも、やはり傷ついた。




実のところ、父親は、彼女の本当の父ではなかった。

30年近く戸籍の上では親子関係ではあるが、実際には、彼女は父親ときちんと話をしたことがほとんどなかった。

父親は、いつでも、どんなときでも、仕事が忙しかった。

彼女は、新しく父親になった人と、どうやって、新しい家族関係を築いていくのかを、誰からも習うことができなかった。

母親も、父親も、仕事が忙しかった。

だから、新しい父親とどうやって、話をしていいのか、よくわからないまま大人になった。





彼女は、小さな愚痴をこぼした。

「滅多にわたしからこんな風に、父親に歩み寄ろうとすることなんてないのに、この稀なタイミングでさえも、父は仕事を優先にするんだね。」

母は即座に言った。

「仕方がないでしょう、仕事なんだから。 わかってあげてよ。」

彼女は納得がいかなかった。

どうして、仕事だから仕方がないのか。

家族のつながりよりも、仕事のほうが大事なのか。

なぜ、母親は「わかってあげてよ」というのか。

母親は、彼女の気持ちを、わかろうとしているのか。

コントロールしようとするだけで、彼女がどれだけ傷つき、自分自身の存在価値を落としていることを教えこまれているということが、わかっているのか。




彼女は、突然、思いだした。

「仕事なんだから、仕方がないでしょう。諦めなさい。 わかってあげて。」

この言葉を、何百回、何千回と、子供のころから聞き続けているのだろう。

そして、その都度、何百回、何千回と、傷つき、悲しんだことか。

その言葉は、「自分の存在価値は仕事よりも劣るのだ」と教え込まれていることと、等しかった。



**********



好奇心を満たしたい! 世界のいろんなことに興味津々! ワクワクして仕方がないなにかをしたい!

そんな、子供だからこそ忘れずにまだ持ち続けている宝モノの輝きを、大人はいともアッサリ切り捨てようとする。

大人のルールに従わせようとする。

でも、子供は理解できない。

なんで、仕事だから無理なのか? 仕方がないのか? どうして、我慢しなければいけないのか?

人間の原動力はこの「ワクワク」が源泉となっているというのに、その源のパワーを、大人たちは理不尽な「仕事」という言葉で呪いをかける。

子供は、最初はなぜだめなのか、意味がわからない。

だから、反発する。 

なぜ仕事が優先なのか、その意味がわからないから、なぜなのか知ろうとする。

大人たちは、ダメなものはダメと、理不尽なことを言う。 

実際、大人たちも、なぜなのか、気づいていないから。

子供は永遠に、「なぜ、人間らしく生きることよりも、仕事が優先なのか」、意味がわからない。

大人は、すでに毒に侵されているから、自分がおかしいとは思わずに、子供がただワガママを言っていると勘違いする。

そして、子供から学ぶ・・・・という姿勢を忘れ、ただ、子供をコントロールして支配しようとし、無邪気に輝いている子供を、社会に沿わせたルールに従って変えようとする。

子供たちは、もともと、まず最初に、親を癒すのが目的として生まれてきた、「愛そのもの」の存在。

だから、最初は腑に落ちなくても、徐々に、親の言うことを信用しようとする。

親のことを、全面的に好きで、子供は「愛」そのものだから。

そして、親を信頼し、従い、どんどん、「ワクワク」の輝きの中で生きることを、あきらめていく。

そして、どんどん、「仕事」に縛られることが人生なのだと学び、本来の自分らしく生きることを、ただ単に見ないようにしていく。

そして、仕事が忙しくて、やりたいことはできない、それが人生だ、と自分自身で人生の道を歪めていく。

本来の「愛」そのものの存在から遠ざかり、それでも「仕方がない」と、諦めていく。

そのうち、子供は、親を疑い始める。

本来の輝きを持っていた自然のままの自分を、不自然な社会に従わせるために、変えてしまった親に疑問を抱くようになる。

しかし、親を愛する気持ちは永遠に消えないので、その葛藤に苦しむようになる。

どんどん、生きにくくなり、自分の存在価値を疑うようになる。



*********



仕事のためには、自分の大切なもの、やりたいこと、すべてを犠牲にしなければいけない。

それは、仕方がないことなのだ・・・・。

そう、彼女は、ある意味「呪い」のように、仕事優先の観念を刷り込まれているのだ、ということに気づいた。

彼女は、両親に向かって、笑顔を見せることがほとんど、なかった。

愛を感じることが、難しかった。

家庭から、愛を学ぶことが、できなかった。





「仕事だから、仕方がない」

というのは、いったいどういう意味だろう。

なぜ、仕事だから、仕方がないのか。

仕方がないって、百科事典的には、どういう意味だったか。 

諦める、って意味か。 妥協か。 認めることか。

仕事って、なんだ。

自分の健康よりも、大事なのか。

家族のつながりよりも、大事なのか。

仕事のために、笑顔を凍り付かせても、それでも仕事のほうが優位なのか。




そして、彼女は、両親のもとを訪れることがほとんど無くなった。

母親に誘われても、断る文句はいつも

「仕事が忙しいから無理」

もはや、どうやって家族の中で、愛をみつけていったらいのか、わからなかった。

だから、仕方がなかった。

「仕事なんだから、仕方がないでしょう」

と、さんざん、教え込まれたとおりに、

「仕事が忙しくて、家族とは関わらない。それは仕方がない」

という観念しか、持てなかった。

なぜなら、そう、教えられたから。



仕事って、なんだ?

健やかに、心地よく生きていくためには、収入は必要。

仕事は、不可欠。

それは、当然だ。

仕事しなければ、税金も、携帯電話も、家賃も、支払えないから、この現実社会で、快適に暮らすことができない。

だから、当然、仕事をしなければ生きていけない。

でも、仕事って、なんだ?

愛よりも、大事なのか?

呪いにかかっていないか?

仕事という「悪魔」に乗っ取られていないか?

愛って、なんだ?

後回しにしても、いいのか?

後回しにしたのなら、いつ、それは再びやってくるのか?

いま、一瞬、一瞬は、もう二度と戻ってこない。

時間は、止まらない。

あとにも、戻らない。

後回しにした「愛」は、もう、二度と取り返しがつかない。

仕事って、なんだ?

愛よりも、大事なのか?




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2017年07月03日

人生の中での優先順位は?



どうしても腑に落ちないことがある。

この世界に生きていて・・・・、世間の人々を見ていて・・・・

なぜ、そんなに仕事の犠牲にならなければ、生きていけれないのだろう。

どうして、仕事が忙しいために、なにもかも、我慢しなければいけないのだろう。

なんのために、生まれたのだろう。

世界中のどこの国にいっても、結局、みんな「仕事が忙しい」の悪魔に憑りつかれている。

日本は、その悪魔が、世界中のどの国よりも、根深いと感じる。


****************************


数か月前に、日本で、ラジオから聞こえてきたこと。

ラジオのパーソナリティーは、

「仕事が忙しくて、なかなか、帰れなくて、休めなくて、恋人ができても長く続かない人が増えている」という内容のことを言っていた。

そして、「まあ、仕方がないよねぇ〜」と、それに対して、そのパーソナリティーは言っていた。

「どうしようもないんだよね、でも、なんとかならないものかね〜」みたいな話し方だった。

わたし、納得できない。

なんのために生きている?

大切な人と愛を育む時間もないほど働いて、仕事を最優先に生きて、それはいったい、なんのための人生なんだ?

わたしたちは、愛を学ぶために、この地球に生まれてきたのだというのに。

そして、「仕方がないよねぇ〜」で、他人事のように済ませてしまう、そんな世間にもわたしには同意できない。

なにやってるんだ、人間たちは。

会社のネジの一本になるために、この生命を授かったわけではない。


*******************************



わたしは、別に、仕事をやめろとか、仕事するなとか、そういうことを言っているわけではなくて。

仕事をするのは、当然だ。 

そういう現代社会だから、もちろん、仕事をしなければならない。

でも、仕事を、人生の「最優先」にするのは、違うのではないか、ということ。

「愛する」ってなんですか。

仕事してくたくたに疲れた自分を、癒してくれてる誰かを探してるんですか。

癒されるから、その人を愛するんですか。

それじゃあ、仕事してなければ、疲れてなければ、その人を愛することができないじゃないか。

そんなのは、愛じゃないと思う。

そんな関係は、すぐに壊れる。


********************************



仕事を愛している?

でも、仕事は、あなたを愛してはいないだろう。

どうして、仕事を愛していると感じるのか?

仕事から愛されることは、絶対にないというのに。

そこに、どんな、損得利益があるのか? エネルギー交歓があるのか?

きっと、仕事を愛しているのではなくて、「仕事をしている自分を愛している」のだろう。

それは、なぜ?

他人から、認められたいから?

世間から認められる自分じゃなければ、愛せないから。

そして、世間から認められなければ、誰からも愛されないと思っているから。

あなたは、ありのままでは、愛される価値がないのか?

ずっと、誰かから認められるために、頑張り続けるのか?

ありのままの自分を否定し続けるのか?


**********


仕事して、くたくたに疲れてい帰ってくると、子供がわがまま言って、さらに疲れさせる・・・・、だからうちの子は手のかかる悪い子だ・・・・って。

それは、子供のせいにしているだけではないか。

子供の「自然な生き方」に愛を感じられないほど、仕事を優先してしまって、盲目になってしまって、毒に麻痺している、自分のせいなのだとは、思わないのか。

もしも、仕事で疲れていなくて、心に余裕のある状態だったら、きっと、子供の天真爛漫なあれこれも「かわいい個性」と思えるのではないか。

子供は、ただ、いろんなことに興味があり、いろんなことにワクワクしている。

あなたが、毒されて忘れてしまった、すべてを持っているその子供の無邪気さを、仕事最優先の生活を維持するため・・・・、または、お金を稼がなければ生きて行けない、という、ローンを支払うためにお金を稼ぐこと最優先の考え方で、あなたは悪気なく、子供の無邪気さやワクワクを、簡単に握りつぶしてしまうのだろう。

それが、社会で生きていく術だと、教えるのかもしれない。

でも、わたしたち、人間は、お金を稼ぐために生まれてきたわけではない。

仕事を優先に考えてしまうことで、もっとほかの、もっと大事なものを、後回しにしようとしていないか。

「仕事を頑張っている生活」というものを持続したいがゆえに、それをある意味「妨害」するものを、すべて「邪魔者」と見ているのではないか。

子供も、「面倒をかけるもの」と、見えてしまうのかもしれない。

でも、違う見方をしたならば、子供や家族との絆を深めるための時間とエネルギーを邪魔しているのは、反対に「仕事」なのだ、という見解も存在することを忘れてはいけない。




******************



生まれて来たことに、もっと深みを持たせ、人間本来の「愛」につながっていくことを、後回しにしていないか。

「いつか時間ができたらしよう。 ゆっくり時間がとれるときにしよう」

と思っている、興味のあるあれこれを、きっと誰しも、もっているはず。

でも、確実に言えるのは、

「いつか時間が出来たら・・・」の、その「いつか」は、きっと永遠にやってこない。

おそらく、おばあちゃんやおじいちゃんになったときに、やっと時間がとれたとして、そのころには、そのやりたかったことをするエネルギーは残されていなくて、きっと、ただ朝から晩までテレビを見るだけの生活で、朽ち果てていくのだろう。

「ゆっくり時間がとれるときにしよう・・・・」と言っている、その「ゆっくり時間」は、永遠にとれないだろう。

それは、向こうからやってくるものではなくて、自分で意図して作らなければ、存在しないものだから。


*****************


人生における、優先順位は、あなたにとって、いま、どうなっているのか。

「幸福」になりたいと、みんな願っているのではないか。

それなのに、「幸福」だと感じること、または、感じるであろうことを、後回しにしていないか。

仕事ってなんだ?

お金を得る手段か。

ローンを支払うための手段か。

または、ただ、人から・・・・世間から・・・・認められたいからか。

認められると、嬉しいから、頑張るのか。

じゃあ、認められなかったら、幸福ではないのか。

そしたら、一生、頑張り続けて、人から認められることを期待して、本来の自分ではない姿で生きるのか。

それは、本当の意味で、幸福なのか。

人から認められないと、どうして、だめなのか。

人生の中での優先順位が、間違っているんじゃないか。

仕事って、なんだ?

家族のつながりよりも、仕事が大事なのか?

愛よりも、仕事が大事なのか?

自分をきちんと生きることよりも、仕事が大事なのか?

仕事は、外側の出来事に過ぎない。

仕事は、あなたそのものではない。

あなたは、自分の人生に向き合うことから目を背け、仕事が自分だと思い違いしているのではないか。

仕事は、あなたではない。

仕事は、あなたを愛してくれることは、絶対にない。

愛されたいと願っているのに、あなたは、なぜ、愛を注ぐべき対象を、すり替えるのか。

仕事をしてはいけない、と言っているわけではない。

仕事をすることは、生きていくうえで不可欠。 大事なこと。

でも、生きていくうえで、最優先にするべきことは、あなたの「幸福」と「愛」なのではないか。



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2016年09月06日

日本の良さをもっと活かしたいな


海外に暮らすと、痛いほど感じる「自分の中の日本人的ふるまい」

日本人は世界一、素晴らしい国民だと私は確信しているのですが、

ひとつだけ、海外にいるととても難しく感じる「日本文化的ふるまい」があります。

それは、「答えを曖昧に濁してしまう」ところ。



日本人はですね、他者の気持ちを読み取る力が、世界一だとわたしは思うのです。

だから、「空気を読んで」そして、「察する」という力が、抜群です。

だから、全部言わなくても、そのニュアンスで感じ取る・・・・ということができると思うのですね。

でも、

外国人には、あまりその能力がないことが多いので、「んん・・・」と、顔の表情だけで伝えようと、お茶を濁していると

「どっちなんだよ!ユキ!はっきりしろ!お前は自分のことがわからないのか!? キミの自分の意見がないところが好きじゃない!」と、グッサリと指摘されてしまう。

「いやいや、違うんだよ。自分の意見がないんじゃなくて、これは優しさからの態度なんだよ」と説明しても、さっぱり理解してくれなかったりする。

相手を傷つけないように、相手を否定しすぎないように、相手の意見も尊重したいから・・・・・だから、自分の意見を主張しすぎない・・・・

という、日本人の美しいふるまいは、海外では「自信がない」という姿に見えるのだそう。



「日本人は謙虚さを美しさとするんだよ!」と、主張すると

ドイツ人の心理療法士の友人は、「いや、度を過ぎる謙虚さは、ただのエゴだよ」と、バッサリ、切られてしまう。

うーん、確かに。

心からじゃない場合の形だけの謙虚な態度は、「嫌われたくない」とか、「気に入られたい」とか、「なんとか穏便に・・・」とか、そういう謙虚さは、確かにかなりな大きな「エゴ」だよね。

・・・・と、改めて気づかされたりして。

勉強になります。はい。



わたしは、日本人の中でもかなりハッキリ、スッパリ、言い切ってしまうタイプなので、日本にいるといつも「ああ、またストレートに言いすぎてしまった。直球を投げてしまって、傷つけちゃったかな・・・」・・・と、自分で反省する日々なのですが・・・・

そんなストレートにズバズバ言ってしまう、この私でさえ「ユキは自分の意見を言わない。」と言われるのです。海外では。

わたしは、わたしが思っている自己認識よりも、違うんだなぁ〜、と改めて、自分を知るよい機会です。



とにかく、「イエス」なのか、「ノー」なのか、はっきりしろ!と言われることがとても多い。

この、ワ・タ・シ・が!・・・・ですよ!(笑)

相当、イエス、ノーが、はっきりしていて、日本人の友人ができにくい、このワタシがっ!(笑)




でもね、

日本人って、他者を思いやるがゆえに・・・、相手に合わせようとするがゆえに・・・、自分の意見を言わない・・・・という癖がついているじゃない。

だから、困っちゃいます、海外で暮らしていると。

ある友人からはハッキリと

「どっちがいい?という質問に、どっちでもいい、と答えるのは好きじゃない。それはやめてくれ。とても迷惑だ。」

とストレートに言われました。 

そこに愛があって、これからも仲良くしたいからこそ、友人は、そう言ってくれているのです。(こんなふうにズバリ!言われたら、日本人同士ならへこんじゃって、関係悪くなっちゃいますよね(笑))

うん、でも、確かに。

「でも、どっちでもいいんだもん、仕方がないじゃない」

と言っても、「そんなのありえないよ。どちらか選ぶことができるだろう。できないわけないだろう」と言われる。

うん、そうだよね。どうして、どっちでもいいんだろう?

「あなたに任せます」という姿勢は、日本人特有だよね(私も含めて)。 

悪く言うと「人任せ」「自分がどうしたいのかわからない」。

良く言うと「他人を立てる」「謙遜する」。



考えてみたんだ。

どうして、「どちらでもいい」って思っちゃうのか。

それは、選択することから逃げているのだと思う。

どうして、選択することから逃げるのか?

それは、選択することによって、その責任が生まれてしまうかもしれないから。

どうして、責任が生まれると思ってしまうのか?

日本では、なにもかも、上のものが責任をとる、という文化だから。

だから、選択することによって、そのいわゆる「責任者」みたいになっちゃって、それで、もしも、その選択が失敗だったら「申し訳ない・・・」という気持ちになっちゃうから。

でも、

ちょっとした選択・・・・例えば、「食後のフルーツは、リンゴと、ブドウと、どっちがいい?」みたいな選択肢。

そんなの、どっちでもいいじゃーん、って思うから、「どっちでもいいです」って答えちゃうんだけど。

外国人にそれを説明したら「どっちでもいいんだったら、どっちか選ぶこともできるだろ!」とイライラされたよ。

うん、確かにね。

別に、選択したからって責任を取らせられるわけではないのだけれど、なんとなく、選択することから逃げてしまうんだよね。

それは、やはり、日本文化の根底に「責任を取る」みたいなものがあるのも、関係しているからだと思うんだよな。

だから、誰かの独断で決定しちゃうのは怖い感じがする・・・・・・あとで、「申し訳ない」という気持ちになりたくないし、迷惑かけたくない。

それで、関係者みんなが賛成したものをみんなで納得してやろう、という形が、日本人にはベストなんだと思う。

でも、関係者全員が「どっちでもいい」って言ったとしたら、なにも進まないんだよね。



いま滞在しているヨーロッパでは、「自分の責任は自分でとる」という文化。

これからお話しするのは、ああ、そうかぁ、と思った日常の一コマですが・・・・




先日、ヴィーガン(菜食)レストランに友人が連れて行ってくれたのですね。

わたしは、卵もチーズも牛乳もほとんど摂らないのでベジタリアンよりもヴィーガンのレストランのほうが合っているのです。

そこで、お肉に似せた大豆肉みたいなのでグレイビーソースをかけたお料理と、大豆かなんかで作ったソーセージを友人が注文してくれて、それを食べてみたんですね。

私にしてみれば、そういう「お肉っぽいもの」を食べることがとても、変な感じで、それはお肉じゃないんだけど、頭が拒否しているっていうか・・・・

私の場合、お肉類を食べると、体に反応が出てしまうから、だから食べないだけなので、無理して食べないようにしているわけじゃないのですね。

だから、自然に菜食になったので、努力してヴィーガンになろうとしたわけではないので、食べれるもの(体が反応しない程度のもの)は食べます。

だから、ヴィーガンのルールの中でも、わたしは食べれるものもあります。

そういう意味では、ヴィーガンとは呼べないと思うのですけど、説明が面倒くさいので、ヴィーガンです、と名乗っていますが。



話は戻りまして・・・・

お料理はとても美味しかったし、雰囲気も素敵で、オシャレして行ったので、わたしはご満悦だったのですが・・・・・、

その日の夜、お腹が痛くなってしまって、そして、一晩明けた翌日には、足に発疹ができていて、痒くて痒くて・・・・

それを、友人に話したところ

「ははは、体がびっくりして拒否したんだねぇ。ははは〜」

みたいに、笑い飛ばしていたから、わたしは、それにもちょっと驚いたわけです。

なんで驚いたのかというと、

私は、せっかく連れて行ってくれた素敵なレストランだったのに、こんなふうに苦情みたいなこと言ってしまったら悪いかな、傷つけちゃうかな、失礼かな・・・・?、なーんて、思いながら、慎重に伝えたわけですが、

友人は、まったく「自分のせい」と思わず、笑い飛ばしたということ。

これがね、日本人同士だったらね

「ああ〜、ごめんね、そのお店、ユキちゃんには合わなかったんだね〜。ごめんね。違うお店にすればよかったね。ごめんね〜〜〜〜〜。」

みたいな感じで、ごめんねを連発して、自分のせいだ、って、連れて行ってくれた友人は思っちゃうんじゃないかな。

だから、わたしも、そう思ってもらいたくなくて慎重に話したり、または、その事実を伝えなかったりするのかな、と思う。

でも、そのドイツの友人は、まったく、これっぽっちも「ごめんね」と思っていないから、「責任を取る」という文化的姿勢が、日本とは違うんだなぁ、と強く感じました。

そうだよね、全然、自分のせいじゃないのに「ごめんなさい」「すみません」って、言い過ぎだよね、日本人って。

そんな恐れや葛藤などもあって

「本当に自分がやりたいこと」をきちんと感じることができないのかなぁ、なんて、感じてみたりする。

だから、「あなたに合わせます」的な感じになっちゃうのかな。



ヨーロッパの友人がバサリ!と指摘してくれたように

今までわたしは「謙虚さ」は素晴らしく美しいものだと自負していたけれど、

度が過ぎると「大きなエゴ」なのだということを、改めて学びました。

そして、みんなが「自分で選択」して、そしてそのすべてを納得して人生を歩んでいけば、「誰かの(なにかの)せいだ」と、外側のせいにすることも、減るのにな、と思いました。

日本は、本当に素晴らしい文化だし、いろんな国の人々と接してきて、しみじみと「世界一の国民性だ」と思うのだけれど、

日本に帰ったり、日本人の人たちと過ごすと、その、「曖昧さ」に、「嘘っぽさ」を感じてしまって、「本当にその言葉、心から思っているのかなぁ〜?」と、なんか少し居心地の悪さを感じることも事実。

日本文化の「美しさ」を、ネガティブに反映させずに、そのまま「美しい形」で利用していけたらいいのにな。

そうしたなら、もっと、芯の強い、揺るぎない日本人、自分を信じる力、それらが、これからの日本の活力として、新たな輝ける日本の未来に、つながっていけるといいな。

そんな、想いを夢見て、わたしはこれからの日本に貢献したい、と願っています。

これは、日本人への苦情ではなくて、私自身も持っている日本文化的ふるまいの一部なので、だからこそ、気づくことができるし、だからこそ、理解できることなので、

誰が悪いとか、だからダメだとか、そういうんじゃなくて、

感じたことを、ご縁のあるかたにシェアしたいな、と思いまして、

指が進むままに、ただ、つらつらと書いてみました。

つぶやきでした。


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2015年06月15日

気づいたこと(高速で移動する負担&現状から最善を見つける)



わたしは、人にプレゼントをするのが好きです。

それは、わたしが心地よいから、そうしています。

好かれたいとか、気を使ってとか、義務感でとか、そういう窮屈な感じではなくて、そうすることで私も満たされるのでそうしています。




どなたかのお宅や仕事場にお邪魔する時は、必ず、なにかちょこっと、負担にならない物(高価でない物)を手土産に持っていきます。

わたしは、そのかたが喜ぶものを差し上げたいので、当たり障りのない菓子折りとか、饅頭とか、あまり選びません。

お金はかかっていなくても、「きゃ〜!」ってトキメクものを、できたら差し上げたいです。

または、すごく実用的で、あると助かるわ〜、というもの。

または、自分では絶対買わないけど、もらったらちょっと嬉しいかも、というもの。

または、ちょっとコミカルで、「ぷっ」と微笑んじゃうような、こころほんわかもの。



最近は、夏に向かって、我が天空の森のまわりにはお花がたくさん咲いているので、

ペットボトルにお花を挿して、車で訪問先まで持っていくことが多いです。

きちんと、

「おはよー!ご機嫌いかがかな? ○○さんのお宅に行きたいかな? 切って行くけどいいかな?」

と、お花に聞いて、「いいよー、いくいくー!」と嬉しそうなお花だけを切ってきます。



お花をもらって、嬉しくない人は誰もいないですね。

お花って、すごいヒーラーさんですよね。




そのお花、車で運ぶとね、

どんどん、しんなり、元気が無くなってしまうのです。

もう、運転しながら、気が気じゃないですよ、わたしは。

病気の家族を病院に連れていくときのような心境で、焦る、焦る(笑)



我が家に持ってきて花瓶に挿してあげるときは、ぜ〜んぜん、しんなりしないし、むしろ、より生き生きして数日、元気いっぱいなのですけどね、

車に乗ると、この運転の振動でだめなのかなぁ〜?、とか、

ペットボトルの口が窮屈だから、苦しいのかなぁ〜?、と思って、口の広いコップで運んでみたのですが、やっぱり、みるみる、15分くらいで萎れてきてしまうのです。

「かわいそうに〜〜〜〜〜、がんばれーー!!もう少しだーーー!」

と、お花を励まし、元気づけながら、運転して、訪問先まで車を飛ばします。

そして、訪問先で花瓶に入れ替えてあげると、元気のなかったお花たちは、少しずつ元気を取り戻して行きます。




これは、原因は

「移動」ですね。

確かに、

車という金属の塊は、地球の自然の中で、不自然極まりないですし、

植物という地に根を張って生きている存在にとって、40〜60kmの速度で1時間も移動するって、あり得ないですもんね。

植物には、「移動する」という概念が、プログラミングされていないんですよね。

だから、細胞レベルで、非常に疲れてしまうんでしょうね。



ふむ。

すると、人間だってそうですよね。

もともと、できる才能が、私たちの自然な才能ですから、人間は、肉体のみだとしたら、歩く、走る、しか移動手段がないわけですね。

それが、わたしたち人間の身体にもともとプログラミングされている情報ですから、それを、高速で移動する、というのは、肉体にとっては不自然なものなのでしょうね。

だから、移動すると疲れますね。

車や飛行機の電磁波でも疲れますが、それ以前に、シンプルに「移動」で疲れちゃいます。

その移動のスピードが早ければ早いほど・・・・・イコール・・・・・歩く・走るという速度よりもかけ離れれば離れるほど、

より、肉体に負担をかけているんでしょうね。

車で運ぶと、お花がみるみる、萎れて行くように、身体も見えないレベルで、萎れて行くんでしょうね。

リニアとか・・・・・・怖いですね。 (わたしは乗らないぞ)



そういう私も、週に1〜2回は東京でお仕事がありますので、山梨から移動していますが、できるだけ、特急は使わずに、各駅停車の電車で行きます。

山梨県内は、車がないと何処にも行けれませんから、あちこち、毎日、車で移動してます。

お花は純粋なので、すぐに反応が出ますが、人間は大人になって、ある意味、純粋ではなくなっていく?(ちょっと違うかも?)ので、肉体に負担をかけていることに気づかないのでしょうね。



とはいえ、スーパーに行かないと買い物できないし、仕事に行くにも車に乗って移動しないと生きて行けれません!

では、どうするか!

まず、肉体に負担をかけている事実を知ること。

そして、それを知っているからこそできるケアをすること。

だなぁ〜、と思います。

現代社会のシステムを否定しても変えることはできないので、そこではなくて、

問題に気が付いたならば、そのうえで、どう最善を尽くすか。



そう考えると、すべてのあらゆる問題に対して、置き換えることができます。

状況を変えることはできないから、それを否定せずに、その状況の中で最善を探す。

すごく、ポジティブです。



今日のメモでした。

お花さん、ありがとう★



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2015年02月21日

フェアトレードについて思う



グアテマラに行って、肌で感じたこと。

フェアトレードについて。

労働に、みあった報酬を支払う流通のことです。

今回、訪れましたグアテマラは、コーヒーやカカオの産地の場所です。

わたしが滞在しました場所も、コーヒーの産地のところがいくつかありました。



田舎道を歩いていますと、なにやら、大きな釣り針のような機械が道端に置いてありました。

これはなにか、と一緒にいた詳しい方にお聞きしましたら、コーヒーの入った、袋を測る機械だそう。

機械・・・・・と呼ぶには、あまりにもお粗末な、紐と巨大釣り糸と棒だけのものでしたが・・・・。

先住民の村人たちは、山の上のほうでコーヒーを収穫してきて、40キロ近い袋を運んできます。

運んでくるのはもちろん女性もいて、幅広の紐を袋にくくりつけて、それをおでこにひっかけて、背中に袋を抱え、前かがみで山から下りてきます。

それはそれは、重たいし、ものすごい重労働です。

やっとの思いで運んだ袋は、機械に測られて、本当にちょっぴりだけのお金と交換されます。

ほとんどのお金は、仲介の人たちのポケットに入ってしまうとのこと。

それでも、運んでくる人々は、そのようにしかお金を稼ぐ術がないから、その重労働で低賃金を続けるしかないのだそう。

これが、フェアトレードではない流通、ということです。

ですので、私たちが、安い値段で買っているコーヒーやチョコレートのことです。



その村は、年々、観光地化されており、欧米人のかたがたが、あちこち、別荘を建て始めています。

心ない外国人が、自分の買った土地からの見晴らしを良くするためだけに、木を切っていきます。

しかし、その木は、

山の上のほうから、汗だくで40キロの袋を運んでくる、先住民たちの、ホッと一息つける、休憩所でもあったのです。

それを、勝手に土地を買って、ここは俺の土地だ、と言って、自分本位に木を切ってしまう。

その土地に対する敬意も、先住民の方たちに対する尊重も、なにも考えていない。

観光客や、別荘として利用する外国人たちが、綺麗な服を着て、楽しそうにディナーを食べ、

音楽をかけてパーティをしている様子を、

先住民の方々は、どんな気分でみているのだろうか・・・・。



わたしは、とても、せつなくなりました。

本当に、なんて、フェアじゃないんだろう。

フェアトレードという流通のかたちは、もちろん以前より知っていましたが、

こうして、実際に、フェアじゃない現場を、生で見てしまいますと、本当に、せつないです。

フェアトレードの商品は、普通の流通(ですから、不当な賃金での労働で流れてくる商品)に比べて、

やはり少しお値段が高いので、わたしたち消費者は、安いほうを選んでしまい、フェアトレードの商品には手を出さないことが多いのではないでしょうか。

でも、そのように、安いだけで商品を選んでしまうかたが多いから、一向に、この不当な「重労働低賃金」で苦しむ方が減らないのだと感じました。

フェアトレードの商品を買う人が増えてくれれば、きちんとした正当な流通のラインがどんどん太くなってきて、

理不尽に苦しむ方々が減っていくのではないかと感じます。

せめて、

陳列棚に、フェアトレードと、そうじゃないのが置いてあったら、少しくらい高くても、フェアトレードの商品を買っていただきたいと、

たくさんの皆さんにお願いをしたいです。

わたしも、そうしようと思います。

少し高かったとしても、ほんの、数百円です。

そのちょっとのお金が、彼らにとっては、大きなものなのですね。

地球に住む、同じ家族のため。

現場で感じたことです。シェアさせてくださいね。

読んでくださって、ありがとうございました。


サンマルコス.jpg



posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

八正道(1)正見から学ぶ


「八正道」(1)正見



手を打てば

下女は茶を汲む

鳥は立つ

魚は集まる猿沢の池





奈良の興福寺に、猿沢の池という池があります。

昔この池のほとりに茶店がありまして、お客がポンポンポンと手を打ちました。

下女はお茶をもってこいという合図と思い、いそいそとお茶をもって参りました。

ところがこの手を打つ音を聞いて、水鳥は一斉に飛び去り、池に飼われていた鯉は餌をくれる音と聞いて競って集まって参りました。

(「やさしく説いたほとけさまの教え」 より)





ひとは、自分のフィルターを通してしか、物事を理解、解釈はできない。

だとしたら、いかに、まっさらなフィルターでいるかが、重要だと思うのです。

または、色がついたフィルターだとしても、そこから抽出されるものは、自分のオリジナルであり、他人は他人のオリジナルがあるんだと、認め、お互いのものを尊重する。

不満や争いは、他人を変えようとする思いから現れると思います。

他人は変わらないことは明白だし、自分もそうたやすく簡単には変わらないのだとしたら、相違を認めあい、補いあい、そのかたの生き方を否定しないことが、人間関係では大切だな、と私は感じました。

ちょっと正道からは外れたかも?しれませんが、いまの私がこの仏教の教えから感じたもの。 

時がたてばまた、違う学びがあるのでしょう。 合掌



わたしの仏教哲学の先生僧侶のHP
http://myohouan.jimdo.com/





posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

つぶやきます


FBの記事より引用。



(つぶやきます)
なんか、しみじみ思うの。
この世界は、みんな、役割分担なんだよ。
ひとりひとりが、自分の役割をがんばっているんだよね。


だから、誰が一番すごいとか、あれやっているから偉いとか、
どうせ、俺にはできないさとか、ちくしょーなんであの人ばっかりとか、
そういう感情?言葉?って、存在するはずないんだよね。
もちろん、刺激は受けていいと思うけど、悔しくなったり、嫉妬したり、妬んだり、
する必要ないんだよね。

だってさ、眉毛は、まつ毛のお仕事できないわけし、
胃は腸の働きを代わりにすることできないし、
足の裏と、手のひら、どっちが偉いか、って比べること自体、無意味だし、
私たちって、そういうことなんだと思うの。

みんな、世界の中、宇宙の中で、それぞれの役割担当を、自分なりのやりかたでやっているんだな、ってしみじみ思う。

だからね、FB見ていて、思うの。
わたしがこんなかんじに生きている(笑)ので、わたしのFB知り合いは、ヒーラーさん、ワーカーさん、ライトワーカーさん、シャーマンさん、宗教家さん、出家されたかた、平和主義さん、グル、ヨーガマスター、などなど、普通の社会の歯車的なお仕事している人が少ないんだよね。 はたまた、サラリーマンのかたもいたりもするのだけどね。
みんな、それぞれ、宇宙規模の視線から見て、担当する箇所、担当する人々、担当する方面の、役割があるんだよね。
そして、この地球上で、いまの肉体をもった自分で、得意分野を喜びとともに担当して、ご縁のあるかたがたに奉仕し、より、世界を作る役割となっているんだよね。
だからね、FBみていて、みんな、ご自分の活動報告をしていたりすると、
ああ、宇宙の中の、自分の役割と、担当分野をがんばっているんだなぁ。
地球・宇宙のためにありがとう。
と、思うわけなのです。

わたしと似ているお仕事しているかたがたもたーくさんいますね。

わたしのとこに来てくださるクライアントさんは、私にご縁があって、わたしが必要であって、ほかのワーカーさんにご縁があるクライアントさんはそのかたが必要なのであって、どっちが上でも下でも、どっちがすごいんでもなくて、それは、みんな得意分野があって、それが役割分担になっていて、自然とそういうひとを引き寄せるんだよね。
だから、競争とかしても仕方がないと思うの。
競争とか、起こり得ないよね。そういう視点で見ると。
だから、皆さんのこと、心から応援しているんです。わたし。

人間の体の機能や細胞の一つ一つは、まさにわたしたち一人一人だな、って思うの。
その小さな小さな細胞が、自分の役割を誠実に行っていて、そして、そのたくさんのワーカーさんが人間というものを形作り、生かし、動かしている。
世界も、そうだと思うの。
一人ひとりの役割の集合体で世界ができている。
だから、爪の細胞は、髪の毛の細胞に、あのやろーあんなに長く伸びやがって、とか嫉妬したりしないように、
わたしたちも、広い視点から見れば、他者のやっていることを妬む必要ないし、自分の役割分担された担当の仕事を、楽しんでやっていけばいいと思うんだ。
そして、それぞれが、それぞれ、助け合って、影響しあって、存在すればいいと思うな。

わたしは、いまわかっている、自分の役割をただ、やっているだけ。
それは、そんなにドカン!と大きいものなんかじゃないけど、宇宙の目線で見たら、ちっちゃくたって大事な担当部署なんだよ。
もう少したって、新しい役割も発見したら、それもやっていくさ。
ただ、それだけだよ。
負けず嫌いや、野心なんて、とっくの昔に手放してる。

共に、行きましょう。生きましょう。
心から、皆さんのこと、応援しています。
どうぞ、あなたの分野で、輝いて、
どうぞ、あなたのご縁のあるかたに、与えて行って、
どうぞ、世界がひとつであるところの、あなたが担う重要なポジションを、
喜びとともに、ただ、あるがままに、あなたらしく咲いてください。
FBっておもしろいな。
流れていく記事の中で、世界の成り立ちの動きがわかるからね。

だから、要するに、世界はひとつ、ってことなんだな。

つぶやきでした。あとで消します!
posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 01:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月12日

夢日記


数日前の夢・・・・・。



たくさんの人々がいた。

そこは、無機質な建物が立ち並び、人々はまるで箱庭の中で扱われているように、生きているようだった。


わたしはその色のない人々の中で、カラフルに色を振りまいて歩いていたが、

なんだか、自分だけがカラフルなのは居心地が悪いなぁ、色を失くしたほうがいいのかなぁ、

なんて、日本人っぽく考えてみたりして、少し、淡い色を出すようにして、周りに合わせてみたりしていた。

向こうの方から、男性たちがたくさん、ガヤガヤやってくる。

男たちは、それぞれが、それぞれの方法で、武装している。

鎧を着ている人もいれば、古代ローマ人の戦闘者のような装いのものもいて、とにかく、みんながそれぞれ、個性豊かな武装をしていた。

ちょっと、ぷぷぷ、と笑っちゃうような、コミカルな感じ見えた。

そのなかには、わたしの知り合いの男性もいて(20年前のOL時代に亡くなった同僚)がいて、

「なにやってるの?なにが始まるの?」

と、わたしが聞いても

「いいんだ、これから大事なんだ」

と、かなり興奮して返すだけだった。

武装したたーくさんの男性たちは、みんな、興奮して殺気立っているのだが、プロレスラーのように闘志ムンムン・・・・、という感じではなくて、

どちらかというと、冷静にみえるのだけれど、秘めたる興奮をピシピシ、視線や仕草で表している、インテリジェンスなかんじでの静かな殺気と闘志だった。

みんなが、それぞれのやり方で、闘う練習?をしていて、それが、すべてチグハグにみえて、とても可笑しかった。

わたしは、なんだかすべてがちょっとずれているような、違和感を感じて、男性たちがとても滑稽に見えた。

なんなんだ、武装していも、しかたがないではないか。

全然、強そうじゃないし。

空回りだし。

突然、遠くから敵らしきものがやってきたぞ!、という叫び声を誰かがあげた。

武装した、インテリジェンスな男たちは、塀のところへと走って行った。

塀は、緩やかな下り坂になっているところに、ダムの止水板のように、上から差し込まれている。

シャッターみたいに上から下りてくるタイプ。

その分厚い石でできているシャッターが、下からギリギリ、1mくらいのところまでおろされた。

その1mの隙間に、なにか、得体のしれないものが(敵か?)押し寄せてきた。

男たちは、その隙間に入って、自分の体を塀にして太刀打ちしている。

現れた巨人の人々(多分、味方)が、まるで栓をするように、その隙間になにか杭のようなものを横から打ち込もうとした。

わたしは、「やめて!!みんながそこに挟まっちゃう!!」と叫んだが、その巨人のような人々は、私を無視し、武装したインテリジェンスな人々の上から、その隙間に横から杭をハンマーで打ち込んだ。

ぴったりと隙間なく杭は打ちこまれ、挟まっていた武装したインテリジェンスな人々は、とても苦しそうだった。

「ああ、もうこれじゃ、みんな死んじゃう!」

と思ったときに、塀の向こう側からやってきている得体のしれない敵が、ぎゅうぎゅうと塀を押し始めて、打ち込んだ杭と挟まっている武装したインテリジェンスな人々は、ぐいぐいと押しつぶされていく。

押しつぶされていく人々の悲鳴が響く。でも一瞬だけ。

あっというまに、すべての武装したインテリジェンスな人々は、「ぷちっ」と、あっけなくつぶれてしまった。

まるで虫が潰されたみたいにして。

その瞬間、その塀の隙間から、ゴゴゴゴゴォーーーーーーー!!!っと、水が押し寄せてきた。

水は、厚い石でできている塀を、ドッゴーン!!と壊し、津波のようにこちらへ向かってくる。

わたしは、逃げた。

途中で、知り合いのNさんがいたから、彼女の手を引いて、逃げた。

水が迫ってきた。

建物の隙間をぬって、逃げた。

天井の梁との隙間を、小柄なNさんがくぐりぬけ、肉厚なわたしは少しひっかかりながらもなんとかして、すり抜けた。

押し寄せてきたみずが、身体を浮かせ、わたしたちはいつのまにか泳いでいた。

いつの間にか津波の勢いは収まり、静かな海のようになっている水の中を泳いでいた。

目の前を、ベッドのマットレスのような白い正方形で、両腕で抱える程度のサイズのものがプカプカ浮いていて、横切ろうとしていたから、泳いでいたわたしはそれにつかまった。

もうひとつ、同じものがプカプカ流れてきたから、それを、横にいるNさんに渡した。

あと、他にも、何個か流れてきたから、周りの泳いでいる人々に渡した。

そのマットレスのようなものにしがみついて、水の中をバシャバシャ泳いでいたら、ゆっくりと浅瀬にたどりついた。

浅瀬から、いつのまにか足がつくようになって、歩いて岸につくと、そこは、いまさっきまでの闘争モードの無機質な場所とはまったく違った、穏やかで素朴な北欧かな?そのあたりの田舎町だった。

街ゆく人々は、みんな、陽気で、ハッピーで、踊りながら仕事をしていた。

道を歩いているおじさんが、わたしを見ながら、笑って踊ってウインクした。

町全体が、音楽に満たされ、陽気で、温かく、やさしさに満ちていた。

そんな、田舎町を、わたしはテクテク歩いて、とても、ほっとした気分になった。

*************

そんな夢でした。

新しい地球は、愛と暖かさに溢れ、自由に歌ったり、踊ったり、してもいいんだよ。

自分らしく生きても、よいんだよ。

すべてが、ひとつの空気の中にあって、そこで、当然のようにひとつに育まれているのが、自然なんだよ。

みんなが、そこに行けれますように。
posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月31日

みてみて!



このかた、ほんっとに、良いこと言っている!

自分を信じる力、湧き上がるよ。

you tubeですが、見てみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=gBumdOWWMhY&feature=youtu.be


posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月12日

昨日見た夢 今朝見た夢


昨日見た夢。


もう、大方忘れてしまったが、わたしは学校のような、病院のような、そういうコミュニティの場所にいた。

プログラムの担当になっていて、それに対して、義務的に行っていた。

殺風景で、無機質な建物だった。

お風呂に入りに行こうと思った。

お風呂道具と着替えを持って、共同のお風呂に向かったら、そこはとても広々としたプールのようだった。

あれ?おかしいな?お風呂じゃないのか?

わたしは、服を全部脱ぎ、全裸でお風呂に入ったのだが、みんな、水着を着ていた。

男性はいなかったと思うのだが、裸の人は誰もいなかった。

ん?ここは、水着着用のお風呂なのかな?

プールのような広いお風呂で、みな、ぺちゃくちゃ、喋っていた。

わたしは、おしゃべりが苦手なので、独りで裸で、お湯の中をゆらゆら漂っていた。

すると、遠くの向う側の壁から、ザパーン!と音がした。

大きな波が立ち、波が、こちらにドドドドドー!!と押し寄せてくる。

おいおい・・・!お風呂じゃなかったのか?プールでもないのか?なんなんだー、とわたしは、逃げる方向に泳ぎだす。

後ろから波が迫ってきた。

あー、追いつかれちゃったー、と思ったら、それは、丸石の波で、カラカラゴロゴロ、転がって私のほうに迫ってくる。

石ー!?

と思ったら、その石が、私の体を後ろから、ガラガラと、押してくる。

体中を、マッサージされている感じで、痛いというより、むしろ気持ちよかったかな。

丸い石が、体の上を滑っていく。

なんなんだろう、と思ったら、目が覚めた。

目が覚めると、体中が痛くて、痛みにうめいた。



********************


今朝見た夢。


8月に一度だけお会いした、Kさんがいた。

Kさんとは、仲良くない。 一度会っただけで、そのとき、わたしは、ヨガの先生、ヒーラーという立場を隠して参加していたイベントでお会いしたから、

彼女も特にわたしに興味があるような感じがなかった。

彼女は、妬みと自己卑下のコンプレックスがあるようだった。

なんとか、変わりたい、と思っているようだった。

夢の中でKさんとわたしは、一緒に、行動をしているようだった。

イベントのようなことを、一緒に行っているようだった。

突然、舞の時間になった。

わたしは、歌いながら舞った。

とても、気持ちがよくて、開放的だった。

もう、なにもいらないと思った。

踊っている体と、空気がからみつき、宇宙の煌めきが、キラキラとわたしを祝福する。

わたしは、とても満たされていた。



Kさんは、わたしの隣で舞いながら、居心地が悪そうだった。

Kさん、お願いだから、わたしに嫉妬しないで、羨ましいと思わないで、お願いだよ。

そう想いながら、わたしは舞っていた。

Kさんは、いなくなった。

わたしは、悲しくなった。

わたしが、わたしの魂のままに自由に、解放されることで、それを見て、嫉妬する人がいる。

わたしをみて、羨ましいと、妬む人がいる。

すると、その人は苦しくなる。

苦しめているのは、わたし? 悲しいな。

もちろん、私の問題ではなくて、相手の問題なのだけれど、わたしは、それで悲しくなる。

嫉妬しないで、妬まないで、とお願いしたくなる。

あなたも、自由に解放されたらいいのよ。



みんなで、ちゃぶ台に座って、正座をしてご飯を食べていたら、Kさんが戻ってきた。

とても、傷ついた顔をしていた。

それを見て、わたしもとても傷ついた。

わたしが、幸せだと、傷つく人がいるんだ。

どうしたらいいんだろう、彼女を幸せにするには。

わたしは、幸せでいたい、でも、わたしが幸せなことで、傷つく人がいるのは、とても悲しいし、わたしも傷つく。

Kさんに、話しかけた。

Kさんは、悲しそうに微笑んだ。

どうぞ、彼女が解放されますように。

どうぞ、わたしに嫉妬する心、妬む心から、解放され、彼女が彼女だけの真実にたどり着けますように。

悲しいような、切ないような気持で、目が覚めた。


***********


世界のすべての人が、幸せになりますように。


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2014年09月20日

「愛」と「情」



わたしは「愛」そのもの。



「愛」というのは、「情」ではない。

「よい人に思われたい」と思って行う、やさしそうな顔は、愛ではない。

いただいたものにはすべてお返しをするべきだ、という気持ちで行う行為は、愛ではない。

ニコニコ、笑顔でいることだけが、愛ではない。

「この人、ダメな人だなぁ」と思いながらも、同情の顔を作り、ウンウン、同意しているふりをするのは、愛ではない。

「いい人」の仮面は、恐れから身につけてしまう。

普遍なる愛とは、一見、冷たくも感じるもの。

見ている視点が違うから。

宇宙の愛の視点で見ているから。

そのかたの、真に必要なものを見ているときは、

表面だけ取り繕うことが、必要なくなる。

だから、真実のみを、つく。 

でも人は、真実を言われると、とても動揺する。

真実の愛は、嫌われてしまうかもしれない、という恐れを超える。

「好かれたい」という呪縛から解放される。

わたしたちはすでに、愛されているのだから。




「愛」とは、「情」ではない。

もちろん、「情」も人間には必要であり、そして、とても美しく温かいものである。

だから、それを不必要、と言っているわけではない。

むしろ、だからこそ人間は美しいのだと、言える。

良いとか、悪いとかではなく、

「愛」と「情」は、違うのだということを真に知ること。

それを知ると、恐れが無くなる。

「嫌われたらどうしよう」という恐れ。

いわば、その人を「失う恐れ」。

恐れが無くなると、真実のみを語ることができる。

すると、「情」ではなく、「愛」を信じることができる。

「愛」は、時間と空間を超える。

うわべだけのやさしさや、対処的な安心感だけが欲しい人で、

この、普遍的な愛を、受け取ることができなくて、

たとえ、わたしを嫌ったとしても、

わたしは、「愛」そのもの。

あなたを、全身全霊で、愛している。

いつか、わかるときが来ると信じている。

それが、遠い、遠い、来世、来来世、さらに先だったとしても、

わたしの「愛」はすでに、もう、その先まで続いている。



いま、

近くにいないあなたにも、

もう、すでに、届いている。

わたしは、「愛」そのものだから。


だから、わたしは、舞う。

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2014年03月17日

日々



毎日

目が回るほど忙しいけれど

ああ、

なんて、満たされているんだろう。

地球の愛、だなぁ。

人々の、愛も、だよなぁ。

みなさんにも、このLOVEを、おすそわけー!!


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2014年03月03日

光と闇



ヨーガの指導をしていて。

ヒーリングセッションをしていて。

とても、感じることがある。



わたしが、傷ついて、心が痛いときほど、

とても、よい指導、ヒーリングができるということ。



胸が、きゅーーっと、なっていて、せつないなぁ、と感じているとき、

とても、よいヒーリングの波動が出るということ。



誰かから「あなた嫌い」という波動を感じるとき、

とても悲しくなる。とても、とても。

ずどーん、と落ちる。

そして、不思議なことに、その「悲しみ」の中から、すごく深い愛の波動が生まれる。

好かれたいという、すがるような想いというわけではなく、

そのかたのその「ジャッジ」する「裁く」心が、少しでも楽になりますように、と

深い愛が、広がっていく。

心は、痛いのだけれど、愛は深くなる。



「ああ、ひとりぼっちだ」、と、ふと、感じて、さみしくて涙が出てくるときがある。

寂しくて、悲しくて、孤独で、どうしようもなくなるときがある。

もちろん、わたしは愛されているのだけれど、でも、孤独はやってくる。

それが、わたしの今世での学びだから。

「孤独」は、わたしを、まるで世界の果てに連れてってしまうかのように、滅多うちにするのだけれど、

その「孤独」が私の中にあるからこそ、ハートの泉から愛が湧くのだということが、とてもよくわかる。

愛は、孤独を知ることによって、深く、大きく、なるのだと。

そうなると、私の中の「孤独」も必要があって存在する。

「愛が溢れるもの」、として選ばれて生まれてきた、わたしには、

それは、必要なものなんだ。

真実に気付くために、必要なもの。

そして、気付くことで、手放す。



わたしは、自分自身が、「光」と「闇」を両方持っているのを知っている。

闇があるから、光がある。

それが、とてもとても、納得がいく。

そして、光の部分だけを大切にして、闇を封印して、自分を裁いてしまわずに、

その闇も、愛せる、自分でいたい。

愛すことで、形が変わる。

そのとき、他者への愛も、深くなっていくのだと、強く理解している。

そう、闇も、必要。 大事なわたしの一部。



「痛み」や「悲しみ」があるからこそ、愛が生まれる。

そして、愛が生まれると、その痛みは、実は存在しなかったことがわかる。

本来は、すべて、わたしたちは「光」の存在。

「孤独」は悲しいけれど、それは「愛」の原動力になる。

そして、そのために、すべては、ある。

人生は、美しい。

無駄なものは、なにもない。

愛、そのものだ。


ガンガ2.jpg













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2014年01月30日

体内記憶を語る子供たち

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2013年10月27日

水は地球の恩恵


わたしは、仕事以外でひとりでいるときは、音楽をかけないときが多いです。

もちろん、テレビは、持っていません。

静寂のなかに、自然の音が聞こえるのが好きです。

風や、鳥や、森の音。

冷蔵庫や、洗濯物が揺れる音や、自分の衣擦れなどの生活の音。

耳を澄まさないと聞こえない、そういう存在の音が好きです。



昨夜。

天空の森アシュラムの少し向うに流れる、小さな小川のせせらぎが、

いつもよりも、大きく、強く、聞こえました。

あれ?雨が降っているのかしら?

と思うほど、勢いよく流れる音は、とても勇ましかったです。

一昨日から降り続いた台風の雨で、山から、水がジャンジャン流れてきているのですね。

大好きな、お風呂で読書、をしながら、

小川の激流音を聞いて、びっくりしているであろう、このへんの森の生物たちのことを想いました。



ふと、先月、お会いしたかたのことを思い出しました。



森に住むあるかたの、心に残る言葉。 

そうだそうだよ。

激しく、頷けます。



「水道から水がでなくなったら、たとえば東京の人は東京都に文句を言うでしょ、みんな。

水は東京都が供給してくれていると思っているんだ。

そこが、おかしいんだよ。

水は、雨が降って、森から流れてくるんだ。

水は、地球の恵みなんだ。水は、森が供給してくれているんだよ。

なのになんで日本人は、森を大事にしないんだ。

なんで感謝しないんだ。

水は水道局が与えていると思っている。

そうじゃないんだよ。考

え方がおかしいんだよ。

なにかが狂ってるんだよ、現代は。」


ゼロ磁場2.jpg


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2013年10月11日

腕時計をはずして



夕焼けの空間が、素敵すぎて、

半ば、外に飛び出した。



夕陽の光線をめいっぱい浴びて、

幸福と愛に満たされながら、

眼下の湖を眺めていたら、

無性にその光に飛び込みたくなった。



スニーカーに履き替えて、車のエンジンをブルン、とかけて、

坂道を、くねくね、くねくね、おりていった。



湖畔をお散歩しようと、歩きだしたら

暮れゆく陽の光のなかの湖が美しすぎて、走り出さずにはいられなかった。



足が軽く、体が軽く、飛ぶようにしてジョギングした。

タッタッタッタ

気持ちいい。

驚いたカメが、ジャボン!と水に飛び込んだ。



ああ、なんて、一秒一秒は尊いんだろう。

感謝と愛が、止まらない。



あたりが、薄暗くなるころ、帰宅する空気が流れた。

湖をしばし眺め、今日のお別れを惜しんだ。

今日はありがとう。



心が大満足で帰宅して、

キャンドルをともし、

間接照明をつけた。

天井に、網目の模様が広がって、とても幻想的。



フロアにヨガマットを敷いて、ゴロンと横になる。

60分ほど、陰ヨガ。

じっくり、たっぷり、肉体とそれに属している心と、向き合う。

魂の声を聞く。



わたしの魂さん、結構、はっきりしている。

わたしの魂が、言っていることを、全部、はいはい、聞いてしまうと、

わたしは、自分の真実の道を行く魂の喜びと引き換えに、

たくさんのかたに迷惑をかけ、そして、傷つけてしまう。

まだ、「悪者」になるだけの、心の準備はできてないな。

誰も、傷つけたくない。

だから、

本当は、もう、先の、先までわかっているし、結局のところ、たどり着くところも知ってる。

直行便でも行けるんだけど、あえて、遠回りして、少しずつ近づいている。



人間でいるということは、面倒くさいけど、そういうことなんだな、と

スピリットが、頷いている。

人を、傷つけたくない。

でも、真実は、傷つきやすい。

人が、傷つくと、

わたしも、深く、深く、傷つく。



腕時計をはずして、

時間と空間を、失くした。

人間として、わたしとして、

生きていくことについて、考えた。


富士山.jpg











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2013年07月13日

年齢



わたし、年齢を聞かれると「200歳」と答えます。

ですので、先日のお誕生日は201歳になりました(笑)



でもね、

歳をとるのが嫌だから・・・・という、平凡な理由から、明かさないわけではないのです。

「年齢」というペルソナ(仮面・ラベル)も、必要ないと思っているから、言いたくないのです。

とくに、日本の文化は、年齢をとても気にして、年齢で無意識にジャッジされるのがわかります。

たった1歳だけ年上の方に「年下とは思えないね〜」とか、

同じ年の人に、「どうしても比べちゃう。ライバル視しちゃう」とか、

年齢がわかった瞬間、急にタメ口になったり、急にかしこまったり・・・・

そういうの、不自然で、あまり好きではありません。

「俺のいっこ上」とか、「わたしと同い年」とか、そういう言い方も日本独特で、自分を基準として、上下関係を見ているわけですね。

外国ではあまり聞きかないです。



むかーし、「どうして日本人は、すぐに年齢を聞くの?」と、イギリス人の友人に言われたことがあります。

世界中のかたと出会ってみると、老人とも、子供とも、友達になれるのですが、

日本では、難しいですね。

日本では、年齢というラベルでジャッジしてしまったり、優劣をつけたりするのかな。 

もったいない。 そのひとの本質を覆い隠してしまうのに。

だから、わたしも、必要がないとき以外は、ひとに年齢を聞きません。

「年齢」というラベルではなく、そのかた、そのものでお付き合いしたいです。



そんな理由から、わたしは明かさないですし、そして、人に年齢を聞くことも、ほとんどないです。

まあ、会話の流れで聞くことはあるけれど、基本的には興味がないのです。

気にしてないから、聞いても、すぐに忘れちゃいますしね。

「あの人、何歳なんだろう?」と思うこと・・・・からすでに、ジャッジは始まっているのかな、と感じます。

ですので、

老いたくない、という理由や、自分を若く見せたい、という理由から、年齢を明かさないというわけではないのですね。

わたしは、老いることに、まったく無頓着です。

お肌ケアも、紫外線ケアも、ほとんど、気にしてないですし。

染みとか、シワとか、気にされる周りの声を聞くと、ああ、そうなんだ、と、自分の無頓着に気がつきます。

でも、わたし、いいです、このまま、自然で。

内側の光を磨きたいの。

気にしてないわりには、結構、若く見られたりします。

肉体は、所詮、老いていくもの。それはしかたないですし、

「わたし」はこの肉体ではない部分だということを知っています。



年齢とか、外見とか、そういう所じゃない部分で、

わたしは、人と接して行きたいです。

だから、ずっと200歳、と言い続けます(笑)







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2013年07月06日

宇宙船



なにか、感じる・・・・・と思ったら。


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