「あ!いたっ・・・!」
細い針が、左手の人差し指に刺さって、私は思わずビクッと手を引いて、胸に寄せた。
見ると、かすかに赤い点が見える。
その人差し指を口の中に入れて、チューと少しの間吸って、ペロリと舐めたらパタパタと手を振って、風で指先を乾かす。
この真っ白な日よけ帽子に、わたしの血液の鮮やかな赤がついてしまわないように、十分に用心して人差し指をできるだけ帽子から遠いところに広げ、代わりに中指を使いながら針を刺す。
「ごめんね、ユキ。なんだか面倒なことをやってもらっちゃって」
畳の上で正座をして背中を丸くしながら縫物をする私の隣で、座椅子にもたれたまま半分こちらに身を乗り出した母が、眉を寄せ困ったような顔をして何度も同じ言葉を繰り返す。
「甘え下手」なのは、母譲りだな・・・・、と私は確信する。
母は、私が母のためになにかするといつでも「ごめん、ごめん、ごめん」と謝ってばかりだ。
私は、その母の口癖に聞こえないふりをして、背中を丸くし、ものすごい集中力でじっと手元を見つめている。
いつのまにやら、この私もだいぶお年頃になってきたようで、最近は手元の細かい作業のとき、視界がぼやけてしまう。
私自身は永遠に思春期の中にいて、そんなに大人になったようにも感じないのだが、肉体は確実に時間と共に腕を組んでどんどん進んでいるのだろう。わたしの「幼さ」を置いてきぼりにして。
手元との距離を調整しながら、お疲れ眼のピントをなんとか合わせつつ、チクチクと針と糸を繰り寄せていく。
その日の午後、カラリと晴れて、薄い青がろうろうと広がる空。
ハトの群れが冬の畑をついばんでいて、私たちが近づくと合図もなしに一斉に飛び立ち、そして、どうやって意思疎通するのか一斉に向きを変えてそしてまた一斉に向きを変えて・・・見えない誰かに指揮されているかのような奇跡のようなダンスを描いていた。
私たちは、母の家の周りの路地や畑の脇の道を、ふたりで「歩く練習」をしていた。
母がかぶっていた大きなフードの黒い帽子が気になった。
母は、どうしても日焼けをすることが許せない性分らしく、いつも外に出るときは絶対に帽子をかかさない。
その黒くて広いまあるいフードは、母の顔をすっぽりと覆い隠して、恐らく、かなり日焼けをガードしている役立ち者だとは思うのだけれど、その代わりに、前方がまったく見えず、足元しか見えない構造をしている。
二人で歩く練習をするあぜ道は、ライスフィールドが広がり、用水路の水の音が心地よく聞こえる線路沿いで、山々が美しく見える日本的な田舎の風景で、わたしはここで風や土を感じながら歩くのが好きだ。
一時間に一本か二本、2両編成のローカル電車が、ゴトゴトと実にのんきなスピードで通り過ぎていくのも、のどかで気持ちがゆっくりになる。
とても細い畑道ではあるのだけれど、とはいえ、近所の車や自転車やバイクが通ることもしばしばあって、どう考えても前方が見えていないであろう、大きな黒い魔女みたいな帽子をかぶって、ヨチヨチ、手押し車を押している母をみると、ヒヤヒヤしっぱなしだった。
ただでさえ、病気で視界が狭くなっているうえ、歩くことに全神経を集中して頑張っている母は、さらには耳も遠いので、車や自転車が来ていることに気づいていないのは間違いないだろう。
私が日本にいるときは、一緒に歩いてあげられるから良いのだけれど、私が日本にいない一年の大半の期間は、母はひとりで歩く練習をしているらしい。
ひとりで、この帽子をかぶって周囲が全く見えないまま歩いているなんて・・・私は心配でゾッとする。
私は母に、この黒い帽子は庭の枯葉拾いのときだけにして、歩くときは使わないほうがいい、と提案した。
すると、母には母の言い分があって、いくつかある帽子の中で、この黒い魔女のような帽子だけが、顎ひもがあるから、帽子が飛んでしまうことを心配しないで済むので、歩く練習に集中しやすいそう。
なるほど、それなら・・・・と、私は母が持っているすべての帽子に、顎ひもを縫い付けた。
なんだか私は、「母を守るんだ」という力強い使命感を感じている自分に気づいた。
いくつもの帽子にチクチク針を刺しながら、子供のお世話をするってこういう気持ちなのかな、と感じてみたりした。私は今世では、自分の子供とのご縁がなかったけれど。
こうやって、若かりし日の母も、私が幼少期のころには、赤白帽子や黄色帽子やぞうきんや布バッグなどを、せっせと縫ってくれたんだろうな・・・なんて、想像したりした。
その時の母の気持ちを想像して、なんだか、じんわりと感謝が溢れてきて、温かい気持ちになった。
過去の母からの愛をいまさらながら受け取り、そして、今の私の母への愛を認めながら針と糸とをみつめていた。
*
数日前、
ランチに母の好きなあんまんを蒸した。
母は、熱いから・・・と、あんまんをお箸でつかんで、私を微笑ませた。
「美味しい!」と目を真ん丸にして、一口食べ、そして、また次の一口も、まるで初めて食べたかのように、最初と同じように目を大きく見開いて「美味しい!」と、一口目と同じ感動を現わした。
私が一緒でだからこそ、食べる食べ物がたくさんあって、ひとりだと経験できない感動があるのだろうな・・・、と私がいないときの母の生活のモノクロさを感じる。
平日のお昼過ぎ、テレビでは毎日殺人事件のドラマか、健康になる商品の電話販売の番組ばかりがやっていて、私はほとほと、テレビという毒が嫌になっている。
私はテレビが好きではないし、20年以上テレビのない生活をしているけれど、でも、母の生活にはテレビが欠かせないので、母の家では母の生活を尊重して、私は口を閉じる。
それまでぼんやりと、テレビの画面を見ていた母が、突然顔を上げ、目の光を変えて神妙な顔になり、まっすぐに私をみつめ、「ユキに聞いてもらいたいことがある」と言った。
私は、ドキッとしたが、それが母にとってとても重要なことなのだろう、ど感じ、あんまんの乗っていたお皿を二枚重ねてから、組んでいた足をほどき、姿勢を正して、母のまっすぐな視線を受け止めた。
母は、脳に大きな腫瘍があり、言葉がうまく話せないし、物事を理解することが、もはやうまくできなくなってしまった。
だから、母が話す言葉は支離滅裂で、主語も名詞も動詞も、すべてがめちゃくちゃなので、きちんとした会話にならない。
元来、話好きの本人は、喋りたいことをきちんと喋ることができなくて、それはそれは、とてもつらそうだ。
けれど、聞いている私も、心を静めてゆとりをもって、イライラしないように気を付けて、とても好意的な気持ちで、フルに想像力を使って聞いてあげなければならない。
その母が、うまく出てこない言葉に苛立ちながらも、「ユキに話したいことがある」と、わたしに自分の過去の小さな過ちについてを告白した。
それは、私から見ると(世間一般的にみると)とても小さな間違いで、誰も傷ついていないし、誰しも起こす可能性のある出来事で、そして、誰しもそれほど深く気にせず通り過ぎるであろう出来事だったというのに、母はその後5〜6年間、ずっと、その時の自分の間違った選択に対して、自分を責め続けて苦しんだという。
苦しくて、苦しくて、後悔して、後悔して、申し訳なくてどうしようもなく、もう、死んでしまおうか、と思ったほどだ・・・と聞いたときは、どれほど母が自分を責めて、どれほど自分自身で自分を傷つけるタイプの人間なのかというのを、改めて知った。
絶対に誠実でありたい、曲がったことは絶対にしたくない・・・という母の信念が、彼女をそれほど苦しめたのだ。
どのように苦しんで、どのように傷ついたのか、をめちゃくちゃな言葉でつなぎ合わせて(それを私が想像とテレパシーで理解して)、本当に苦しそうに、母は顔をゆがめて、胸を掻きむしる動作を繰り返した。
本当に、つらかったのだろなぁ。
ひとしきり話した後、
「ああ、ユキに話してよかった。胸が軽くなったよ。ずっと誰にもこんな申し訳ないこと話せなかった。ユキが聞いてくれてよかった。もう昔のことだからいいよね。もう、いいんだよね」
と、頬の緊張を緩め、目じりが少し下がって、さっき胸を掻きむしっていた手で、今度は静かに同じ手で胸を撫でている。
私は、ニッコリと笑顔になって、「よかったね、お母さん」と伝えた。
私はなにも言わず、ただ相槌を打っていただけだったのだけれど、ジャッジも慰めもせず、ただ聞いてくれる・・・という、ただそれだけが母にとって必要だったのだろう。
母の誠実さ、まっすぐ過ぎて不器用なところ、自分を戒める気持ちの強さ・・・よく知っている、私の愛すべき母。
誰にも相談できなかった、その母の性質もとてもよく知っている。
そして、私に話してくれたことを、心から嬉しく感じる。
「ユキ、ありがとう、聞いてくれて。気持ちが軽くなったよ」無邪気にそう言う母が愛しくて、鼻の奥がぐっと苦しくなって、あわや目から水が溢れそうになる。
それを、抑えるためにまた私はニッコリと笑い、「よかったね、お母さん」と言った。
私は、慰めようとも、母の気持ちを軽くしようとも、話を膨らませようとも、なにもせずに、ただ、ハートを開いて聞いていただけだ。
でもその「聞く姿勢」が、話す側にとって、一番、癒されるのだと(仕事柄)知っているから、私は母にもそうした。
母の少し安堵した顔を見ながら、心の中で祈った。
母が、どんどん、癒されますように。
もっともっと自分を許して、自由になっていきますように。
母の苦しかった人生のすべての経験から残る、すべてのつらい記憶が、泡となってポコポコポコポコと消えて無くなっていきますように。
日に日に、物事の理解ができなくなり、少しずつ、動くことが困難になっていく母。
そんな母に、「良くなってほしい」とは私は願っていない。
もちろん、「これ以上悪くなりませんように」とは願っている。(でも、それは無理な願いだと知っている)
しかし、「良くなってほしい」と願うことは、「今の状態の母を許せない」、という思いがあることと等しいと私は思う。
だから私は、そう願う代わりに、どんな状態のどんな母でも許したい。
もしも、なんにもできなくなっても、全部、許したい。いやすでに、全部、許してる。
言うまでもなく、ずっと一緒にいたいに決まっているけれど、でも、人間の命は生まれた瞬間から、終了することが決まっているのだから、
だったら、命ある限り、そのままで、ありのままでいいから、ただただ、幸せでいてほしい。
言語がめちゃくちゃでも、日常生活がうまく過ごせなくても、世話が焼けたとしても、あるがままでいいから、幸せを感じて過ごしてほしい。
母が、とにかく幸せでいてくれることを、母の胎内から生れ落ちた、あの瞬間から、ずっとずっと、私はこの人生の中で、ただそれだけを願っている。
地球に生まれて、初めて愛を学んだ関係性である母という人は、
こうして、まだまだ、まだまだ、私の中にある愛に、気づかせてくれる存在なんだ。
なんて尊い存在なのだろう、母親とは。
ありがとう、お母さん。
押しつけではなく、恐れからでもなく、ただ、あなたに愛をお返ししたい。
私のできる限りの愛をあなたに。
私はまもなく、ドイツに戻る。
延長したらいいのに、とつぶやく母。
でもそれはできない。ドイツの家族と、クリスマスを過ごす約束をしているのだ。
クリスチャンの彼らにとっては、クリスマスを家族で過ごすことは大きな意味があり、私はドイツの家族と一緒に過ごす、愛と信仰に満たされたクリスマスが大好きだ。(日本のフェイククリスマスとは違って大きな意味があるのだ)
そして、日本人であり、クリスチャンでもない私を、本当に温かく優しく、家族の一員として迎え入れてくれ、広々と受け入れてくれた、ドイツの家族のことを心から愛しているし、大切に思っている。
とはいえ、私が遠くに離れてしまうことで寂しそうな母を見ると、本当に胸が苦しい。
でも、ドイツで待つ最愛の人とのハグとキスが、たまらなく恋しい。
このグルグルと渦を巻いている胸の中の感覚は、やはり、すべて愛から生まれているのだろう。
気が緩むと、涙が出て仕方がないけれど、これは一体、なんの涙なのか、タイトルをつけることができない。
でも、この胸の中の、愛のグルグルから湧き上がっていることは確かだ。
そんな気持ちと共に、ビュウビュウとスカートを揺らす今日の午後の強風の中を散歩していたら、
このあたりでは見たこともない珍しいカラフルな鳥が一羽、意味ありげに私の近くに寄ってきて、強い北風に吹かれながら、私をみつめていた。
わたしも、その暗さと明るさが美しく調和する珍しい鳥をみつめながら、風に吹かれていた。
残りの日本滞在、あと2日間。