不本意な言葉で
大切な人を傷つけてしまったり
言わなくてもよい言葉で
相手を怒らせてしまったり
よかれと思ったら
反対の結果になってしまった言葉だったり
「言葉」は しばしば
真意ではないところから
勝手にでてしまうから
「真実だけを語る」ことを意識して
ゆっくりと瞑想的に生きよう
そして
もう済んでしまった言葉たちのことは
ひとつひとつ 許します
間違えることで
真実に近づくのだから
間違いも必要なプロセスだ
いつまでも
自分を攻撃しても
幸福から遠ざかるだけだから
わたしは私を許します
教会でクリスチャンの人々が懺悔をするのは
自分で自分を許せないからではないだろうか
だから
ジーザスに許しを乞うことは
自分自身を許すための
道のりなのではないか
一番身近にいる「わたし」が私を許せない
という心理状態は
24時間 攻撃されているようなものだ
逃げ場がない
なによりもつらい
そして
自分で自分を許すのは
そう簡単ではない
教会で懺悔をする意味は
神という存在と共に
許しのプロセスへの
儀式なのではないか
私はクリスチャンではないからわからないけれど
そんなことを感じながら
町の小さな教会で
瞑想をしていた
教会の鐘が いまちょうど
ふたつ 長く美しく響き
私へのアンサーのように感じた