2021年07月15日

許しについて瞑想


許しについて瞑想.jpg




不本意な言葉で

大切な人を傷つけてしまったり

言わなくてもよい言葉で

相手を怒らせてしまったり

よかれと思ったら

反対の結果になってしまった言葉だったり



「言葉」は しばしば

真意ではないところから

勝手にでてしまうから

「真実だけを語る」ことを意識して

ゆっくりと瞑想的に生きよう



そして



もう済んでしまった言葉たちのことは

ひとつひとつ 許します




間違えることで

真実に近づくのだから

間違いも必要なプロセスだ

いつまでも

自分を攻撃しても

幸福から遠ざかるだけだから

わたしは私を許します



教会でクリスチャンの人々が懺悔をするのは

自分で自分を許せないからではないだろうか



だから

ジーザスに許しを乞うことは

自分自身を許すための

道のりなのではないか



一番身近にいる「わたし」が私を許せない

という心理状態は

24時間 攻撃されているようなものだ

逃げ場がない

なによりもつらい




そして

自分で自分を許すのは

そう簡単ではない

教会で懺悔をする意味は

神という存在と共に

許しのプロセスへの

儀式なのではないか



私はクリスチャンではないからわからないけれど



そんなことを感じながら

町の小さな教会で

瞑想をしていた



教会の鐘が いまちょうど

ふたつ 長く美しく響き

私へのアンサーのように感じた




posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 19:44| 詩的なもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする