秋分の2日前のこと。
お気にいりの山に登って、朝日を拝んできました。
実は、ここ数週間、人生がひっくり返されるようなとてもショッキングなことが続いていて、怒りと悲しみが止まらない日々を過ごしていました。
でも、これは一見、苦しい状況に見えても、「一回ゼロになって新しい芽を出しなさい」という、宇宙からのギフトだということに気づいていました。
再生のための崩壊。
知ってる、知ってる、それもう、何度も・・・というかしょっちゅう繰り返しているから、私の特殊な変容の人生の中。
とはいえ、今回起こっている出来事は結構な崩壊を促されていて、本当に、生活のすべてを壊されるかのような感じです。
生き方が、ガラッと180度方向転換しちゃうくらいの、大きいやつです。
そんなわけで、かなり開き直って、崩壊するなら崩れるところまで崩れてしまえ!という意気込みで、人生の流れをみつめています。
流されるのではなく、よい波にいつでも飛び乗れるように、流れを見つめています。
崩れた後には、必ず、新しい芽が出て花が咲きますから。
そして、必ず、成長と豊かさが誕生しますから。
私は新たなる新しい未来に向かって、「そうだ!朝日とともに祈ろう!」と思いつき、
日曜日の早朝、4時に家を出て、ミュンヘンの自宅から車で一時間ほど走ったところにある、ほどよい高さの山へと向かいました。
暗いうちからヘッドライトをつけて歩き始めます。
夜の森は大好き。
ミステリアスで、昼間には感じられなかった生き物の息使いが感じられる。
生き物ではないものの、存在も感じられる。
夜の森は大好き。
歩き始める前は寒くて寒くて、たくさん着込んでスタートしたのに、
登っていくごとにだんだん熱くなってきて、1枚1枚、脱いでいく、この感じがとても好き。
私の山登りは私語は皆無です。
おしゃべりしながら山を登るなんて、ほんとにナンセンス。
喋っていたら森の声、自然の声を、全部見逃してしまう。
静かに、一歩一歩、この瞬間に意識を向けて、森と自然と対話しながら歩きます。
たまらなく地球との会話が好きです。
少しずつ空が明るくなってくるにつれて、牛たちが目覚め始めます。
上の写真にいる牛が、とても幻想的。
鳥が朝の仕事を始めるのと同じころ、牛の首についているベルが、カランカラン、と心地よい音を立て始めます。
あちこちから聞こえてくるこの音も、とても瞑想的で大好き。
ドイツの牛たちは、山ひとつ丸ごと自由に歩くことができるので、とても幸せな牛たちです。
頂上に到着すると、目の前に雲海が広がっていました。
なんてラッキーなんだろう、わたしは雲の上にいる。
日本の山梨に住んでいたころの天空の森を思い出しました。
あの山の上の私の愛する場所からも、雲の上から下界を見下ろしていました。
昔、東京や山梨でヨーガを教えているころ、朝日のウォーキング瞑想のイベントを何度もやったことがあったな、と思い出しました。
あのころは、確か多いときは100人くらいの人が集まったこともあったな。
その頃のわたしのパワーと影響力を思い出して、今の自分の招き入れて、昔の自分にサポートしてもらおう。
朝日がゆっくりとゆっくりと上がってきます。
完全に地球と一体となる瞬間。
わたしはここにいるけれど、わたしは地球になり、地球はわたしとなる瞬間。
これを神聖との合一と呼ばずなんと呼ぶのか。
なんという神々しい瞬間。
朝日の光に照らされて、ドラムを静かに丁寧に奏でました。
地球への感謝と、自分自身の命への感謝。
そして、わたしが私の叡智を使って、この愛する地球に貢献できますように。
この、朝日の光をいまみつめている世界中の人たちに、愛と信頼と平安がもたらされますように。
すべての瞬間瞬間は、祈りとなる。
持参したキャンドルに火をともし、セージを焚き、自分自身のクレンジングと、私に関わるすべての人へのクレンジング、
そして、過去と未来へのクレンジングを行いました。
さらに、ご縁の深いかたがたのスピリットをお呼びして、彼らの魂の道へのサポートを祈り、
そして、世界中の苦しむかたがたに、平安が訪れますように、と心から祈りました。
最近の私は、日本語の本を読むことが少なくなり、日本語で長く文章を書くこと(詩は書くのだけれどね)が少なくなってきていたのですが、
なんだか、猛烈に日本語の本を読みたくなってきています。
昔から好きだった純文学を読みたいな。
スピリチュアルや、ヨーガや、自己啓発の本じゃなくて(もう散々読んだし、今は本は読まずとも自分の中にガイドがいるから)、
ただ純粋に、心を打たれたり、イマジネーションが膨らんだり、感動したり、ワクワクしたりする
日本語の本が読みたいなぁ。
ドイツからじゃ、ちょっと難しいかな。
私は小学生のころから物語や詩を書くのが好きで、30代前半くらいまではせっせと物語を書いていたっけ。
日本語の美しさ、言葉の裏側に潜む感傷や、言葉と言葉の間に隠れている濃い空気感は、日本語ならではの美しさです。
先日の7月の日本帰国では、周りの話している言葉の中で、意味が分からない言葉が結構あって、とても驚きました。
たった1年ほど帰国しなかっただけで、日本語はこんなに変化してしまうのか・・・とびっくりしました。
と同時に、少し残念な気もしました。
日本はとても発展が早く、なにもかもが急速に変化していきます。
コンピューターも、電気関係も、便利さを追求するのは世界一ですね。
でも、その代償として、失われていくものも、急速に消えていきます。
日本語もそうです。
そして、日本ならでは・・・日本語ならでは・・・日本文化ならではの、昔からの良さや美しさが消えていくのですね。
でも、それに代わって、きっと、新しい美しさが生まれているのだと思います。
とはいえ、日本の急速な発展と変化を感じて、梅雨の日本滞在のとき、わたしはなんだかとても、寂しい気持ちになりました。
新しい私の未来には、なにが待っているのだろうか。
いつでも、どんなときでも、
「未知の世界 Unknown」に向かうときというのは、怖い感じがするもの。
でも、来週わたしは死ぬんだ、としてみたら、怖いものは何もない。
なにが起こっても、なにがやってきても、身を任せる。
そんなことを想いながら、森を歩き、山から下りました。
地球を心から愛しています。
自然と一体になると、わたしは溶けてしまいます。
そのまま、溶けて消えてしまっても本望だ・・・と感じるほど、至福です。
地球を心から愛しています。
指が進むままに、ただあるがまま、これを書いています。
脈絡が薄いですが、このままあるがまま、アップすることにします。
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