前回からの続きです。(前回→ http://yukismyogaism.seesaa.net/article/463864820.html )
帰りのチケットをキャンセルして、翌日向かった先は
スコティアン鍾乳洞。 世界遺産です。
とはいえ、アクセスがとても悪い上に、一日2回のタイミングしか開いていない。
インターネットで調べたシャトルバスの時刻表と、実際に行ってみた現地の時刻表はかなり違っていて、
結局、最寄駅からバスを2時間待ち・・・、宿を出てから4時間後にやっと、目的地の鍾乳洞にたどり着きました。
いろ〜〜〜〜んな、びっくり・すったもんだの経緯がありました(今回の記事の意図と違うので省略します。おもしろ珍道中だった!)。
鍾乳洞は素晴らしかったです。
前日に行った、ポストイナと全然違う波動の鍾乳洞でした。
こちらは、古い古い、遥か昔(アトランティスとか)の記憶が蘇ってくるような・・・・地球の地下にある世界の人たちと交流するような・・・・、(シャスタ山に行って、地下への扉を開く儀式をした時のことをとても強く思い出しました。 きっと地下の世界でつながっているのかもしれない。)
ポストイナのような、ガツンとくる衝撃とは違って、地球と人間が一体になるかのような感覚。
ポストイナは「地球の子宮」と感じたのですが、スコティアンは「地球の胃や腸や他の内臓」と感じました。
とにかく、流れているし、動いている。
壮大でした。素晴らしかったです。
これは出口の写真です。
中は写真撮影は禁止されていました。
ここでは、スロベニアで初めて、日本人の旅行者に会いました。
その女性は一人旅で、とはいえ、「旅人」っぽいゆるさとオープンさがない、ごく普通の社会的な感じの女性でした。
わたしは声をかけ、そしてわたしたちは、鍾乳洞に入る前の1時間と、鍾乳洞後に首都リュブリャナに戻る電車の中までの2時間、お話をしました。(鍾乳洞の中では私は「自分モード」に入っていたので)
彼女は20代半ばの女性で、大学(院?)を卒業して、大手の外資系企業に就職した社会人になって一年目の女性でした。
社内の専属ドクターからストップがかかり、いま仕事を休職中だそう。
とはいえ、本人は「まだ頑張れたんだけど」とのこと。
日本の大企業で働く生活・・・というものに興味があったので(私の生きる世界とはかなり違うところにあるので)、社会に出た若い女性の葛藤を、わたしは興味深く聞かせていただきました。
なんのために生きているのか、どうしてそんなに働かなければいけないのか、なんでみんな文句も言わず働いているのか、働くって何なのか、人生って会社のためにあるのか、休みたくても休めない、みんなが頑張ってるから私だけ休めない、日本ってなんなんなんだ・・・・・・
そんな、彼女の葛藤を、わたしは本当に心を傾けながら聞いていました。
本当に、そうだよね。
そんなに働いてどうするんだろう、生きるって仕事することじゃないのに、自分の人生を犠牲にして仕事するってなんなんだろう、
わたしも聞きながら、彼女の葛藤はまったくもって正当だよなあ、と感じました。
日本の「会社の一部として働く」という観念は狂っているに違いない、と感じました。
狂っているのに、それが普通だから、会社員たちも狂っていくし、その渦中にいるとそれが普通だから、狂っていることに気づかないんだな。
かわいそうに。
この、就職して一年目の若い女性も、「社会人になる」という、新しいスタートにワクワクしながら飛び込んでいったのだろう。
そして、入った先には「自分も家族も友人もすべてを犠牲にしなければ認められない」という「枠」があって、そこに、ゆっくりとじわじわと順応していって、麻痺してしまったのだろう。
そして、身体と精神を壊して、ドクターストップがかかった・・・・のに、自分では自分の不調に気づいていない。
ちょっと、落ち込んでるなあ・・・・くらいにしか気づいていなかったそう。
かわいそうに、自分の状態に気づく・・・・という能力さえ奪われてしまったのか。
自分自身の中心との繋がりが、絶たれてしまっていたのか。
「ドクターストップ、ラッキーだったね! なんの罪悪感もなく仕事を長期で休めるじゃない!」と私が軽々と言ったら、
「でも、まだ頑張れたのに、無理やり休まされた感じです」と彼女。
どうして、そこまで頑張らなければいけないのか?
面白くもない、行きたくないと感じている会社を休める機会に、どうして「ラッキー!」と喜べないほど、縛られているのか。
会社ってなんなんだ?
命より、健康より、幸せより、仕事が大事なのか?
なぜ、休むことに「負け」を感じているのか?
おかしいぞ、社会。
わたしは、この若い女性の尊厳を壊さず、プライドを奪わず、できるだけ、彼女を理解する形で、なにかわたしにできるサポートはないだろうか、ととても気を使って話をしました。
彼女はわたしのクライアントではないし、わたしの職業(ヒーリングカウンセラー)も明かしていない。
だから、彼女は別に、わたしからのアドバイスも、ヒーリングも求めていない。
こういう状況では、わたしはエネルギー的にもなにもできないし、むしろ、求められていないときは、なにかしてはいけない。(という私のルール)そして、仕事以外では、できるだけ、そのかたのプロセスを尊重して、なにかしようとしないで(邪魔しないで)見守る、というのも私のルール。
だから、世間話するような感じで、どんなふうにサポートができるだろうか、と気を使いました。
そして、ここから、わたしは何を学べるだろうか、と。(強烈に導かれてやってきた場所で出会った女性なので、意味があるに違いない!)
わたしの若い頃を思い出しました。
ちょうど、彼女くらいの年齢のころ、わたしはバックパッカーとして旅人人生を始めたころだった。
その頃、私自身の20代は深い闇の中でもがきながら何かを探していた時期だった。何か明確な目標があるわけではなく、とにかく旅がしたかった。
それはやはり、「日本」という国がとても居心地が悪く、どうしても、「本来のわたし」で存在するのが難しいと感じていたからだと、いまのわたしは思っています。
そんなころの、自分を思い出しました。
そして、自分の20代のころと、この若い女性とをリンクさせて、彼女に思いやりと同調・共感を持って受け入れることで、過去の自分自身への癒しになっているなあ、と感じました。
彼女は「やりたいことをやったらいい、とはよく言われるんだけど、なにがやりたいのかわからない。」と言っていました。
これは、とても多くのかたが抱えている葛藤だと思う。
これは日本に限らず、いろんな国の若者の口から聞く言葉でもある。
前日に、強烈に「どうしても行くべきだ!」と感じて、帰りのチケットをキャンセルして延泊したのは、この世界遺産の鍾乳洞のエネルギー転写の経験だけではなく、
偶然(であり必然)出会ったこの若い日本の女性から、「現代社会の真実と葛藤」を学ぶことだったのかもしれない、と感じました。
こういった、大企業で働く「葛藤を抱えている人々」が、日本(世界)の動きの歯車になっている。
としたならば、日本という国は、この「葛藤と犠牲のエネルギー」で動いているのだろう。
新人社会人の彼女。
疲れて諦めているけれど、まだ、瞳に純粋な輝きの光が感じられる彼女。
この彼女も、死んだ魚のような目で、電車通勤している人たちのように、自分を生きることを諦めてハートを閉じてしまうのか。
海外に住みたい、という彼女。
わたしに、海外での暮らしをいろいろ聞いてきました。
海外に住みたいけれど、日本にいるうちにきちんとした就職先を決めてからじゃないと、海外に出るのは怖い、という彼女。
わたしなんかは、えいっ!って出ちゃえばどうにかなるのに、って思うのだけれど、
彼女は、どうしても「枠」から外れるのが怖いらしい。
「じゃあ、がっつり住まなくてもワーキングホリデーや、青年海外協力隊という手もあるね」と、わたし。
わたしも、20代のころワーキングホリデーでオーストラリアにいた経験あり。
「お金がないから無理かなあ」と彼女。
悲しいなあ。
お金なんて、意図すれば必ず必要なぶんは入ってくる、宇宙の仕組みになっているのに!!!
諦めてしまっているから、入ってこないだけなのに!!!
とても貴重な社会勉強になりました。
わたしが、わたしの持つ特殊な感性や経験を使って、この社会にどう貢献して行けれるのか・・・・。
彼女のような純粋な若い女性が、いつまでもずっと無邪気で、ワクワクして魅力的でセクシーに輝いていられる社会であったら、
きちんと創造エネルギーが働いて、エネルギー的にピッタリの相手を選んで、愛の交歓となる喜びに溢れた幸福なセックスをして、幸福のエネルギーで結ばれた幸福な子供ができて、きっと日本の少子化問題はなくなのではないか、と感じました。
これからのわたしの活動にとっての刺激となるとてもよい経験でした。
鍾乳洞を出てバスに乗り、電車を待って乗車して、首都リュブリャナに到着するまでの2時間ほどの時間。
彼女のお話を聞かせていただきました。
そして、わたしは握手をして彼女から離れました。
「出会えてよかったです」と言ってくれた彼女。
それは彼女の本心だと感じました。
きっと、わたしから何かを感じ、気づきがあったのだと思います。
美しく若くエネルギーに満ちているはずの年頃の彼女の、これからの未来に、どうか祝福がありますように・・・・とお祈りをしました。
わたしも出会えてよかった。 よい学びだった。
スロベニアでの出会いでした。
わたしの旅は「ハートを開く・目を開くカギ」を、ご縁のあった人に渡す役目。
だから、一人旅が好きだ。
一期一会だからこそ。