イタリア・ラッチェという小さな田舎町。
昔むかしの人が畑に水を引くために作った小さな小川沿いに、何キロも森の中を歩く。
くねくねと続く細いけもの道を、小川沿いに歩いていると、水の音がときに、激しくなったり、ときに内緒話のようになったり、
アップダウンと共に、1歩ごとに変化していって、その水音がとても耳に心地が良い。
鳥が歌う声、木々が風に揺れる音。
肌を通り過ぎる空気の感触、トカゲやリスたちの気配。
上昇していく自分の身体の体温、汗の感覚。
マウンテンシューズの底から感じるゴツゴツ岩の存在、松ぼっくりの柔らかさ。
お花の匂いがわたしの感性をくすぐり、太陽の光がわたしを元気づける。
小川に沿って歩いている、わたしに湧き上がってくる思考、思考、思考。
わたしは自分の思考の傍観者だ。
なぜだろう、こんなに素敵な環境で、気持ちよく歩いているというのに、
マインドは、あとからあとから、過去に傷ついた人間関係の経験を思い出させている。
わたしはマインドの動きに溺れない。
いつも、ただ、ただ、観察している。
とくに、同性の友人・近しかった生徒さんたちから受けた、ショックな出来事を繰り返し、繰り返し、
マインドはわたしに語りかけ続けている。
わたしは「わたし」の言い分をよーく聞く。
そうか、そんなにショックだったんだね。うんうん、そうなんだね。
それが、いまも、トラウマになって、恐怖になっているんだね。
これは、自己憐憫になっているのとは違う。
ただ、見つめる、観察する。
わたしの思考の、ありのままを、見届ける。
言い分を聞く。
過去の感情を、理解してあげる。
でも、どうして、いま、この美しい森の中を歩いているときに、繰り返し繰り返し、「傷ついた経験」が湧き上がってくるんだろう。
そうか。
癒されているんだね。
いまはもう「安全な場所にいる」ということを、傷ついているわたしの側面に、知らせて癒しているんだね。
もう、昔のことを思い出して、繰り返し、傷つかなくていい。
「いま」というこのときは、あのときの「悲しみ・ショック」の時とは、違うんだ。
「いま」は安全なんだ、繰り返し、昔の経験を思い出しては、自分で自分を傷つけなくていい。
そう、あれは過去のこと。いまじゃない。
水に洗われているんだ。
この、美しい森と、清らかな小川と、気持ちの良い自然の音の中で、わたしは「いま」を認められているんだ。
小川は、同じ方向に流れ続ける。
決して止まらず、後戻りせず、ひとつの方向へと流れ続ける。
時に激しく岩を砕き白い波を生み、ときに安らかにキラキラと輝いて、先へ、先へと、流れ続ける。
水に流そう。
水に洗われよう。
「いま」はこんなにも美しい。
悲しみも苦しみも、すべて過去のことで「いま」じゃない。
「いま」の瞬間はこんなにも祝福されている。
水に流そう。
水に洗われよう。
すべて、流れていく、流れていく、流れていくんだ。
自分の中の「水」が共鳴する。
水は形を変えるもの。
そして、岩をすり抜けることもできるし、砕くこともできる。
わたしは「水」。
わたしは変わることができる。
水のように、柔軟に、繊細に、そして強く、意志をもって、先へ先へと。
