2018年01月25日

破壊と再生のドラマ



インドから日本に帰国した。すごかった。統合。



バルカラ4.jpg




空を駆ける軽やかな光る眼の大きな翼と、地を這う力強い爪をもつ毛むくじゃらの太い四つ足が、

ひとつに統合したら、純粋さになった。

プロセスは本当に派手な嵐のようだった。

これまでの、たくさんのトラウマがドコドコ現れて、私を恐怖に慄かせるという、人生ドラマを演じていた。

暴れて、痛めて、破壊しまくったら、最後に残ったのは、結局「愛」だけだった。

死ぬ気で、本気出して、本音でぶつかったら、木っ端みじんに砕け散って、

そして、散らばったあとの痛々しい欠片たちが、バラバラに寄り集まったら、それも結局「愛」だった。

いまわたしは、グレードアップした自分を馴染ませている状態。

次のステージに行くまで、このステージでの私を楽しみつくすんだ。



トラウマは、過去の記憶の奴隷になっている状態。

過去の巨大な痛みがモンスターと変身して、暴れ狂っているけれど、

それは、所詮、過去のことで、今現在の真実ではない、ただの幻。

トラウマの奴隷として、そのまま生き続けるも、

いつもの慣れ親しんだパターンへの執着を捨ててそれを卒業するも、

結局は自分の選択・設定なのだ。



時として、ひとは、どっぷりとネガティブパターンに漬かっているほうが楽に感じるのかもしれない。

「ほらね、またこれだ。やっぱりそうなると思ったよ。いつもこうなんだ、どうせこうなんだ。」

そう言い続けているほうが、気持ちよく(ある種の間違ったエクスタシー)感じると錯覚するのかもしれない。

そうやって、出来事のせいにしているほうが、自分は努力しないで済むから、楽だ。

なんてことだろう、それはクレイジーな幻覚だというのに、人は簡単に楽なほうを選んで、ただ馬鹿みたいに繰り返してしまう。



わたしは、それを、ザックザックと破壊して、前にどんどん、進む役割。

踊りながら、ザックザックと、破壊していく。

その先には、新たなステージが待っているし、それはとても楽しいゲームのようだ。

人生は、ドラマだ。

自分の切り替えスイッチ次第で、どうにでもなる。

チャンネルを変える覚悟を決めてしまえば、人生は思う方向に変わっていくのだ。

リモコンをどこに置いたのか忘れてしまったのか。

じゃあ、まずは、忘れているそれを、探すところから始めたらいい。



どうなったとしても、どんなドラマが繰り広げられたとしても、

わたしたちは、すでに生きていることそのものが守られているし、

存在しているそれ自体が、絶対的に愛されているんだ。



わたしの今世について。

こんなに日本文化が居心地が悪いのに、どうして、日本国籍に生まれてきたのかもわかった。

それは、必然であったし、必要であったのだ。

よーく、わかった。

日本にしかない、あの独特な「一滴ずつの暗黙の交換」がわたしには、どうしても必要だったのだ。

細心の極上のケアが必要だったのだ。

そして、繊細なガラスのロータスのわたしは、その日本の先祖から引き継いだものを、自ら選択して受け取った。

霊能者であった祖父から、受け継がれたバトンを、わたしのオリジナルな剣で調理する。

そして、未来へと踊りながら歌いながら飛んでいく、タンポポの綿毛を作った。

種を、世界中のいろいろな土地に撒いて、愛と平和を風と共に囁いていった。

どうなったとしても、わたしは、とことん守られているし、

絶対的に、もう、根本から、根底から、疑いようもなく愛されている。

それを、一歩踏み進むたびに、大地に浸み込ませていった。



人生は、自分で作り上げるドラマだ。

いつでも台本を見直して、書き換えることができる。

見直したところからだけ、書き換えることができるのだ。

どうでもいいことは、もうどうでもいいから、

この自分のドラマを面白く、目がキラキラ輝くようなシナリオに書いて、ときに見直して、そしてまた、書き換えていくことに、

夢中になって楽しんでいたら、

わたしたちは、きっと、絶対的に愛されていることに疑いを持たず、

そして、自分が愛そのものであることへの、自信と確信が持てるのだと感じる。


バルカラ3.jpg




posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 09:48| わたしについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。