2017年10月27日

完璧ってなんだ?



なるほど。

人はみは、自分で自分を裁いている「インナージャッジメント」に苦しんでいるのではないか。

もっと、ああすればよかった、とか、

わたしはもっと、うまくできたはず、とか、

こんなこと言って、あの人に悪いことしたな、とか、

どうして、ああいうふうにできないんだろう、とか、

よし!これが最善だ!と思ってやった行動でも、そのすぐ直後に「ああ、間違ってたかな」、とか、

心の中では、常に、「なにか」の基準に自分を当てはめて、葛藤している。



わたしが見ているに、これは、一人残らず、すべての人間が同じように持っている。

だから、これは、人間という生き物の「性質」なのだと思う。

もちろん、わたしも持っている。人間だから。



どうして、ジャッジしているのか?

なにを基準にして、「良い」と「悪い」を決めているのか?

完璧であるためにジャッジしているのか?

「完璧」ってなんだ?

どんな形と様式が「完璧」というものなのか?

具体的に「完璧」という自分をあげてみよ・・・・と言われたら・・・・

うん、きっと一個一個、理想である「完璧像」を挙げられると思う。

いや、まてよ。

でも、それは、本当に、本当に、「完璧(パーフェクト)」なのか?

そして、その自分が理想としている「完璧」な像になることは、果たして可能なのか?

その像と同じ「完璧な人」は、この世に存在しているのか?

存在するとしたら、いったい誰だ? 誰を理想としているんだ?

いや、私の知っている限りでは、完璧な人間なんて、誰一人としていない。

イエスやブッダでさえも、わたしが自分に強いている「完璧な像」とは違うとわたしは感じる。

では、なぜ、存在しないものに、そうあろうと、自分を縛り付けているのか。

どうして、存在しないものと自分を比べて、自分をジャッジしているのか。

まったく無意味なことだ。

あほらしい。

「完璧」なんて、存在しないのだ。

外側の世界にも存在しないし、内側の世界にも存在しない。

だとしたら、ある意味、

いまの「不完全なわたし」のままで、すでに「完璧」と言ってしまえばいい。

存在しないものを、自分で勝手に創造してそれを基準としているのだったら、

自分の心地よいように、新しく創造してもよいはず。

そのほうが、よっぽど、精神的に安定して、ある側面での「完璧」に近づくのでは?

マインドのからくりは面白くて、本当に笑える。

その罠にかかっている自分に気づくと、また笑える。




そして、これが人間の「性質」なのだとしたら、持っている意味があるはず。

すべてのものは必要があって存在するから。

それに気づいて、そこから「自分」を確立することを学んでいくために、あえて、そういう性質を持っているのかもしれない。

だとしたら、わたしは、

その「存在しない完璧像」に振り回されない・・・・・と宣言しておこう。

「性質」なのだから、持ち続けていくものなのだから、

だったら、持っているそれから、「振り回される」のではなくて、

わたしは「学び進む」という道を選ぶ。

そうすると、すべてに意味が生じる。

笑える、素敵だ。


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 16:34| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする