なるほど。
人はみは、自分で自分を裁いている「インナージャッジメント」に苦しんでいるのではないか。
もっと、ああすればよかった、とか、
わたしはもっと、うまくできたはず、とか、
こんなこと言って、あの人に悪いことしたな、とか、
どうして、ああいうふうにできないんだろう、とか、
よし!これが最善だ!と思ってやった行動でも、そのすぐ直後に「ああ、間違ってたかな」、とか、
心の中では、常に、「なにか」の基準に自分を当てはめて、葛藤している。
わたしが見ているに、これは、一人残らず、すべての人間が同じように持っている。
だから、これは、人間という生き物の「性質」なのだと思う。
もちろん、わたしも持っている。人間だから。
どうして、ジャッジしているのか?
なにを基準にして、「良い」と「悪い」を決めているのか?
完璧であるためにジャッジしているのか?
「完璧」ってなんだ?
どんな形と様式が「完璧」というものなのか?
具体的に「完璧」という自分をあげてみよ・・・・と言われたら・・・・
うん、きっと一個一個、理想である「完璧像」を挙げられると思う。
いや、まてよ。
でも、それは、本当に、本当に、「完璧(パーフェクト)」なのか?
そして、その自分が理想としている「完璧」な像になることは、果たして可能なのか?
その像と同じ「完璧な人」は、この世に存在しているのか?
存在するとしたら、いったい誰だ? 誰を理想としているんだ?
いや、私の知っている限りでは、完璧な人間なんて、誰一人としていない。
イエスやブッダでさえも、わたしが自分に強いている「完璧な像」とは違うとわたしは感じる。
では、なぜ、存在しないものに、そうあろうと、自分を縛り付けているのか。
どうして、存在しないものと自分を比べて、自分をジャッジしているのか。
まったく無意味なことだ。
あほらしい。
「完璧」なんて、存在しないのだ。
外側の世界にも存在しないし、内側の世界にも存在しない。
だとしたら、ある意味、
いまの「不完全なわたし」のままで、すでに「完璧」と言ってしまえばいい。
存在しないものを、自分で勝手に創造してそれを基準としているのだったら、
自分の心地よいように、新しく創造してもよいはず。
そのほうが、よっぽど、精神的に安定して、ある側面での「完璧」に近づくのでは?
マインドのからくりは面白くて、本当に笑える。
その罠にかかっている自分に気づくと、また笑える。
そして、これが人間の「性質」なのだとしたら、持っている意味があるはず。
すべてのものは必要があって存在するから。
それに気づいて、そこから「自分」を確立することを学んでいくために、あえて、そういう性質を持っているのかもしれない。
だとしたら、わたしは、
その「存在しない完璧像」に振り回されない・・・・・と宣言しておこう。
「性質」なのだから、持ち続けていくものなのだから、
だったら、持っているそれから、「振り回される」のではなくて、
わたしは「学び進む」という道を選ぶ。
そうすると、すべてに意味が生じる。
笑える、素敵だ。
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