2016年09月06日

日本の良さをもっと活かしたいな


海外に暮らすと、痛いほど感じる「自分の中の日本人的ふるまい」

日本人は世界一、素晴らしい国民だと私は確信しているのですが、

ひとつだけ、海外にいるととても難しく感じる「日本文化的ふるまい」があります。

それは、「答えを曖昧に濁してしまう」ところ。



日本人はですね、他者の気持ちを読み取る力が、世界一だとわたしは思うのです。

だから、「空気を読んで」そして、「察する」という力が、抜群です。

だから、全部言わなくても、そのニュアンスで感じ取る・・・・ということができると思うのですね。

でも、

外国人には、あまりその能力がないことが多いので、「んん・・・」と、顔の表情だけで伝えようと、お茶を濁していると

「どっちなんだよ!ユキ!はっきりしろ!お前は自分のことがわからないのか!? キミの自分の意見がないところが好きじゃない!」と、グッサリと指摘されてしまう。

「いやいや、違うんだよ。自分の意見がないんじゃなくて、これは優しさからの態度なんだよ」と説明しても、さっぱり理解してくれなかったりする。

相手を傷つけないように、相手を否定しすぎないように、相手の意見も尊重したいから・・・・・だから、自分の意見を主張しすぎない・・・・

という、日本人の美しいふるまいは、海外では「自信がない」という姿に見えるのだそう。



「日本人は謙虚さを美しさとするんだよ!」と、主張すると

ドイツ人の心理療法士の友人は、「いや、度を過ぎる謙虚さは、ただのエゴだよ」と、バッサリ、切られてしまう。

うーん、確かに。

心からじゃない場合の形だけの謙虚な態度は、「嫌われたくない」とか、「気に入られたい」とか、「なんとか穏便に・・・」とか、そういう謙虚さは、確かにかなりな大きな「エゴ」だよね。

・・・・と、改めて気づかされたりして。

勉強になります。はい。



わたしは、日本人の中でもかなりハッキリ、スッパリ、言い切ってしまうタイプなので、日本にいるといつも「ああ、またストレートに言いすぎてしまった。直球を投げてしまって、傷つけちゃったかな・・・」・・・と、自分で反省する日々なのですが・・・・

そんなストレートにズバズバ言ってしまう、この私でさえ「ユキは自分の意見を言わない。」と言われるのです。海外では。

わたしは、わたしが思っている自己認識よりも、違うんだなぁ〜、と改めて、自分を知るよい機会です。



とにかく、「イエス」なのか、「ノー」なのか、はっきりしろ!と言われることがとても多い。

この、ワ・タ・シ・が!・・・・ですよ!(笑)

相当、イエス、ノーが、はっきりしていて、日本人の友人ができにくい、このワタシがっ!(笑)




でもね、

日本人って、他者を思いやるがゆえに・・・、相手に合わせようとするがゆえに・・・、自分の意見を言わない・・・・という癖がついているじゃない。

だから、困っちゃいます、海外で暮らしていると。

ある友人からはハッキリと

「どっちがいい?という質問に、どっちでもいい、と答えるのは好きじゃない。それはやめてくれ。とても迷惑だ。」

とストレートに言われました。 

そこに愛があって、これからも仲良くしたいからこそ、友人は、そう言ってくれているのです。(こんなふうにズバリ!言われたら、日本人同士ならへこんじゃって、関係悪くなっちゃいますよね(笑))

うん、でも、確かに。

「でも、どっちでもいいんだもん、仕方がないじゃない」

と言っても、「そんなのありえないよ。どちらか選ぶことができるだろう。できないわけないだろう」と言われる。

うん、そうだよね。どうして、どっちでもいいんだろう?

「あなたに任せます」という姿勢は、日本人特有だよね(私も含めて)。 

悪く言うと「人任せ」「自分がどうしたいのかわからない」。

良く言うと「他人を立てる」「謙遜する」。



考えてみたんだ。

どうして、「どちらでもいい」って思っちゃうのか。

それは、選択することから逃げているのだと思う。

どうして、選択することから逃げるのか?

それは、選択することによって、その責任が生まれてしまうかもしれないから。

どうして、責任が生まれると思ってしまうのか?

日本では、なにもかも、上のものが責任をとる、という文化だから。

だから、選択することによって、そのいわゆる「責任者」みたいになっちゃって、それで、もしも、その選択が失敗だったら「申し訳ない・・・」という気持ちになっちゃうから。

でも、

ちょっとした選択・・・・例えば、「食後のフルーツは、リンゴと、ブドウと、どっちがいい?」みたいな選択肢。

そんなの、どっちでもいいじゃーん、って思うから、「どっちでもいいです」って答えちゃうんだけど。

外国人にそれを説明したら「どっちでもいいんだったら、どっちか選ぶこともできるだろ!」とイライラされたよ。

うん、確かにね。

別に、選択したからって責任を取らせられるわけではないのだけれど、なんとなく、選択することから逃げてしまうんだよね。

それは、やはり、日本文化の根底に「責任を取る」みたいなものがあるのも、関係しているからだと思うんだよな。

だから、誰かの独断で決定しちゃうのは怖い感じがする・・・・・・あとで、「申し訳ない」という気持ちになりたくないし、迷惑かけたくない。

それで、関係者みんなが賛成したものをみんなで納得してやろう、という形が、日本人にはベストなんだと思う。

でも、関係者全員が「どっちでもいい」って言ったとしたら、なにも進まないんだよね。



いま滞在しているヨーロッパでは、「自分の責任は自分でとる」という文化。

これからお話しするのは、ああ、そうかぁ、と思った日常の一コマですが・・・・




先日、ヴィーガン(菜食)レストランに友人が連れて行ってくれたのですね。

わたしは、卵もチーズも牛乳もほとんど摂らないのでベジタリアンよりもヴィーガンのレストランのほうが合っているのです。

そこで、お肉に似せた大豆肉みたいなのでグレイビーソースをかけたお料理と、大豆かなんかで作ったソーセージを友人が注文してくれて、それを食べてみたんですね。

私にしてみれば、そういう「お肉っぽいもの」を食べることがとても、変な感じで、それはお肉じゃないんだけど、頭が拒否しているっていうか・・・・

私の場合、お肉類を食べると、体に反応が出てしまうから、だから食べないだけなので、無理して食べないようにしているわけじゃないのですね。

だから、自然に菜食になったので、努力してヴィーガンになろうとしたわけではないので、食べれるもの(体が反応しない程度のもの)は食べます。

だから、ヴィーガンのルールの中でも、わたしは食べれるものもあります。

そういう意味では、ヴィーガンとは呼べないと思うのですけど、説明が面倒くさいので、ヴィーガンです、と名乗っていますが。



話は戻りまして・・・・

お料理はとても美味しかったし、雰囲気も素敵で、オシャレして行ったので、わたしはご満悦だったのですが・・・・・、

その日の夜、お腹が痛くなってしまって、そして、一晩明けた翌日には、足に発疹ができていて、痒くて痒くて・・・・

それを、友人に話したところ

「ははは、体がびっくりして拒否したんだねぇ。ははは〜」

みたいに、笑い飛ばしていたから、わたしは、それにもちょっと驚いたわけです。

なんで驚いたのかというと、

私は、せっかく連れて行ってくれた素敵なレストランだったのに、こんなふうに苦情みたいなこと言ってしまったら悪いかな、傷つけちゃうかな、失礼かな・・・・?、なーんて、思いながら、慎重に伝えたわけですが、

友人は、まったく「自分のせい」と思わず、笑い飛ばしたということ。

これがね、日本人同士だったらね

「ああ〜、ごめんね、そのお店、ユキちゃんには合わなかったんだね〜。ごめんね。違うお店にすればよかったね。ごめんね〜〜〜〜〜。」

みたいな感じで、ごめんねを連発して、自分のせいだ、って、連れて行ってくれた友人は思っちゃうんじゃないかな。

だから、わたしも、そう思ってもらいたくなくて慎重に話したり、または、その事実を伝えなかったりするのかな、と思う。

でも、そのドイツの友人は、まったく、これっぽっちも「ごめんね」と思っていないから、「責任を取る」という文化的姿勢が、日本とは違うんだなぁ、と強く感じました。

そうだよね、全然、自分のせいじゃないのに「ごめんなさい」「すみません」って、言い過ぎだよね、日本人って。

そんな恐れや葛藤などもあって

「本当に自分がやりたいこと」をきちんと感じることができないのかなぁ、なんて、感じてみたりする。

だから、「あなたに合わせます」的な感じになっちゃうのかな。



ヨーロッパの友人がバサリ!と指摘してくれたように

今までわたしは「謙虚さ」は素晴らしく美しいものだと自負していたけれど、

度が過ぎると「大きなエゴ」なのだということを、改めて学びました。

そして、みんなが「自分で選択」して、そしてそのすべてを納得して人生を歩んでいけば、「誰かの(なにかの)せいだ」と、外側のせいにすることも、減るのにな、と思いました。

日本は、本当に素晴らしい文化だし、いろんな国の人々と接してきて、しみじみと「世界一の国民性だ」と思うのだけれど、

日本に帰ったり、日本人の人たちと過ごすと、その、「曖昧さ」に、「嘘っぽさ」を感じてしまって、「本当にその言葉、心から思っているのかなぁ〜?」と、なんか少し居心地の悪さを感じることも事実。

日本文化の「美しさ」を、ネガティブに反映させずに、そのまま「美しい形」で利用していけたらいいのにな。

そうしたなら、もっと、芯の強い、揺るぎない日本人、自分を信じる力、それらが、これからの日本の活力として、新たな輝ける日本の未来に、つながっていけるといいな。

そんな、想いを夢見て、わたしはこれからの日本に貢献したい、と願っています。

これは、日本人への苦情ではなくて、私自身も持っている日本文化的ふるまいの一部なので、だからこそ、気づくことができるし、だからこそ、理解できることなので、

誰が悪いとか、だからダメだとか、そういうんじゃなくて、

感じたことを、ご縁のあるかたにシェアしたいな、と思いまして、

指が進むままに、ただ、つらつらと書いてみました。

つぶやきでした。


ミュンヘン.jpg








posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 03:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ユキ先生、先日はありがとうございました。
私の課題?でもある「どっちでもいい」にヒントをいただいた気分です。振り返ってみると1人で行動し判断するときはスパッと決まることもあるのですが、誰かがかかわると途端に「どっちでもいい」になってしまうんですよね。先生のおっしゃるように選ぶことで責任が生じるからかもしれません。外ばかり気にしていて私がどうしたいかが全然見えていませんでした。今後は意識して自分主体で考えたいと思います。
Posted by junko at 2016年09月10日 22:36
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