数日前から、夕方、お散歩をしているルートに、とても立派な、でも小さなお寺を見つけました。
そのお寺の話は、詳しくはまた後日。
そこに、大学で日本語を勉強している若い女性がいて、わたしが日本人だと知ると、毎回、近寄ってきてお話をしようとがんばっています。
一見、日本人にも見えそうな顔つきをしていて、とてもシャイで、モジモジしていて、とってもかわいらしい女性です。
彼女は、わたしにとてもリスペクトしてくれて、こちらが申し訳ない気持ちになってしまうくらい。
同じ人間なんだから、そんなに、かしこまらなくていいのに〜、と思うほど。
上下関係がとても厳しいミャンマーでは、「日本」という国は、自国よりも上だと見ているのでしょうね。
私たちの国、日本では、階級も、貧富の差も、アジアのほかの国に比べてそれほど顕著には現れないから、あまり、階級を気にすることがないのですが、
こちら側のアジアに来ると、その「階級」というものの根強さをとても感じます。
初めて訪れる国なので、ミャンマーに階級があるかどうかはわからないけれど、少なくとも、とても裕福な人と、とても貧しそうな人との差が、ものすごく大きいのは人々を見ていてわかります。
わたしのいるサマーキャンプに参加している子供たちもお金持ち層の子たちなので、来ている服やつけている時計、メガネなど、とても高そうなものばかりです。
日本人でも、とても質素な私よりも、ずっと、裕福そうです。
その小さなお寺にお話を戻しまして・・・・
わたしは、このお寺に来ている日本語を勉強している女性に接し、彼女の態度や話し方、目線や私に対する行動で、国単位での優劣があるのだということに気がついたのです。
わたしはこれまで、いろんな国に行ったし、海外のリゾートホテルで働いていたこともあるし、たくさんのアジアの国々の人々と一緒に働いていた経験もあるので、
欧米の人々や、フランス語を話すアフリカ大陸の人々が、日本と韓国以外のアジアの人々を、少し見下しているような感じの態度を取ることを知っています。
そうだった、わたしは日本人で階級のない日本の国に生まれたからあまり気にならないのだけれど、
ほかのアジアの国では、日本やアメリカをリスペクトしているのだった。
わたしにとっては、どちらが勝るでも劣るでも、まったくそんな目線はなかったので、
えっ?もしかして? ああ、そうなんだ! と驚きの発見でした。
それで、腑に落ちることがあります。
子供たちの夏合宿のミャンマー人の先生たちと、なーんか、壁を感じてしまっていたのですね。
わたしが、落ち着いているからなのかもしれないのですが、どうも、ミャンマー人の先生たちと交わることが少なくて、
ポツン、とひとりでいることが多くて、つまんないなぁ、と思ってしまうのです。
わたし、ものすごく人当たりが柔らかくて、なんの威圧的な態度もないし、とても謙虚だし、シャイだし、ずっとニコニコしているし、
誰のことも尊重しているし、平等だし、とっても、扱いやすいと思うんだけどどなぁ。
なんでかなぁ、と思っていたんですが、今日、ああ、そういうことだったのか、と理由がわかりました。
わたしは、校長先生のお友達で、校長先生直々に招かれた人で、
日本という憧れの国から来ている人で、きっとお金持ちだろうと思われていて(全然貧乏だけど)
だから、ミャンマー人の先生方は、わたしにどう接していいかわからなのかもしれないな。
必要以上に、丁寧に扱われてしまっていて、そうすると、なんかわたしも、ちょっとしっかりしなきゃ、なんて、
座り方をピシッと整えてみたりなんかして。
わたしなんて、どうってことない、なんの肩書もないただの「ひと」だし、
子供に教えたことがないから、全然、役に立ってないし、叫んだり、叱ったりすることもできなければ、
一緒に走り回って遊んであげることもしなくて、ただ、ここにいるだけなんだから、
そんなに、わたしのことすごいひと扱いしなくていいのになぁ〜、もっとフレンドリーでいいのになぁ、と思うんですけど、
わたしのこと「目上の人」と思っているんでしょうね。
それと、日本人を見ていると、きっと、ちょっと、妬みの気持ちも現れてしまうのかもしれないですね。
レクリエーションの時に、一眼レフカメラでバシバシ撮影していたら、やっぱり、ちょっと、意味深な目をされました。
それにしても、
まっっっく、なんんんんんにも、先生たちからは、わたしに質問が、まっっったく、ないのです。
おかしいなぁ、なんで、かなぁ、日本のどこに住んでいるの? いま、日本は季節はどうなの?とか、とか、聞いてきてもいいじゃないか?
わたし、歓迎されていないのかなぁ、なんて、とてもさみしく思っていたりして、ちょっと、しょんぼり、でした。
みんな、英語しゃべれるのになぁ。
でもきっと、その国単位の壁なんだな、これは、と気づきました。
わたしの問題ではないということ。
これは、国単位、文化単位の問題であって、わたしのせいではないのだ。
私は生まれた時から日本人で、生まれた時から日本は世界の中では先進国で裕福なモダンなハイテクノロジーの国だから、
国単位での劣等感なんてなんにもなくて、私に関しては、日本は裕福だとしても、私自身は子供のころからかなり貧乏で苦労して、いまだってべつに裕福ではないから、
ほかの国に対しての優越感も、人間として勝っているとも思わないし、いたって平等でただの人間同士で、なんにも優劣がない。
でも、発展途上国に生きている人々は、やはり、羨望の眼差しでわたしを見ているのだろう。
インドでもそれは感じたけれど、でも、インドは結構、お金持ちが多かったから、それほどではなかったけれど、
ミャンマーでは、とても、「うわー、すげー、日本人だー、本物だー」という目線を強く感じる。
その事実に、そうかぁ・・・・・・! と今日、気づきました。
わたしというパーソナリティが嫌われていたわけじゃなかったんだ、よかった。
でも、それだと、壁は壁のまま、ずっとあり続けるわけで、わたしは、こんな遠くの国まで来たのに、
孤独でさみしい気持ちが拭えないままなんて、いやだなぁ。
どうしたら、彼らのこの壁をなくすことができるのかなぁ。
いままでも、とってもフレンドリーにしてきたけれど、結局、逆に気を遣わせてしまっているみたいだから、では、どんな手でいったらいいのかなぁ。
うん、そうか。
「壁を崩そうと努力しないこと」かな。
わたしは、気にしなければいいんだな。
彼らの問題は、彼らの問題だから、わたしはわたしが喜ぶことをしたらいいんだな。
彼らが変わってほしいと思うのは、国単位での問題だから無理な話なので、
わたしが、気にならないようにしていればいいんだな。
壁を崩そうと努力すると不自然になるから、私が疲れるか、彼らが余計気を使うか、になってしまうと思うから、
壁があるのは仕方ないことだとして、それを踏まえて、のびのび、生きることだな。
すると、結果的に壁がなくなるかもしれない。 でも、なくならないかもしれない、それはどちらでもよいこと。
壁があったままだとしても、わたしがしょんぼりしているのではなくて、楽しそうにしていれば、彼らは嬉しいだろう。
わたしは、彼らの「ゲスト」という立場のようだから、ゲストが楽しそうにしていたら、彼らも嬉しいに違いない。
だから、わたしは自分のままでいればいい。
日本人であるわたしの歴史は変えることはできないのだ。
そういうことだ。
やってみよう。
本当に、海外に来ると、いろいろ学ばせてもらえるなぁ。
本当に、日本での日常の生活ではなかなか気づきにくいことに、気づかせてもらえ、
それは、実は、わたしの生き方にすべて反映することなのだということも、よくわかる。
世界はすべて、自分の内側の
反映・反響・反動
よし。
小さなことを気にして、気持ちが落ちてしまったら人生がもったいない。
ミャンマーでの貴重な経験を、無駄にしないで人生を生きるぞ。
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