2015年04月04日

ミャンマー4「無邪気さとは」



子供たちから、学ぶことが本当にいっぱいあります。

子供たちを見ているだけで興味深いです。

ほかの先生たちは、「静かにしなさい!」とかシャウトしたりしているのですが、

わたしはそういうことができないので、叱るのはミャンマー人のかたがたにお任せして、

わたしは、ただ見ている(放っておいている)だけなのですが、

騒ぎ方ひとつにしても、子供たちみんなみんな、全員ひとそれぞれ違うのです。

その子の性格や、ため込んでいるもの、抱えている問題が、よーく、見えます。



今日、子供たちから学んだこと。

それは、「無邪気さ」。

無邪気って、ただ、楽しくしているだけじゃないんですね。

それはね、「気にならないこと」だな、と思いました。

なにが気にならないか、というと、ネガティブな感情が気にならないこと。

例えば、だれかに「デブ!」とか言われて、一瞬むっとしたとしても、後々までは気にならなかったり、

なにかすごく間違えて大恥かいても気にしないで遊んでいたりとか、

期待していたことが得られなくてがっかりしても、気にならなかったり、

先生から怒られても、周りからどう見られても、気にならなかったり、

とにかく、自分のありのままでめいっぱい生きていることなんだな、と思いました。



今日、わたし、ちょこっと、へこんだことがあって、

ああ、わたし、せっかく来たのに役に立たないなぁ・・・・・、なんて、ガックリしていたのですが、

子供たちは、わたしが子供たちに、きちんと求めるものを教えてあげられなくても、

そんなこと全然忘れて、楽しそうにちょっかいだしてくるのです。

すると、わたしも、そんな無邪気な子供たちを、見ているだけで幸せになるのです。

無邪気さが伝染するのでしょうね。

落ち込んでいたことが、気にならなくなるのです。



わたしは子供がいないけれど、もし、子供がいたら、こんなふうに、毎日、子供から学ぶ生活なのだろうなぁ、と思いました。

もちろん、社会で生きていくための技術(ルールや規則など)は、大人が教えてあげるものなのですが、

人間を超えた宇宙のパワーを子供たちは持っているので、それをすっかり忘れている大人は、心がけ次第で子供から学べるのだな、と思いました。

大人も、目指すは、子供たちのような無邪気さだなぁ。

落ちそうになった気分が、子供たちに、救われました。

本当に、子供って素晴らしい先生です。



子供は、「いま、ここ」をめいっぱい、精一杯、生きているんですね。

なんのためらいも、躊躇も、自分に対しての恥じらいもなく、「いまの自分」を生きている。

子供は、本当に素晴らしいなぁ、と思います。

子供を見ているのが、本当に楽しい。飽きないです。



大事なのは、「気にしない」ではなくて、「気にならない」ということ。

「気にしない」というのは、すでに気になっているから気にしないようにしよう、という意味です。

「気にならない」というのは、気になってないので、気にしないように努力する必要がないのです。

すると、無敵ですね〜。 

ネガティブ感情、エゴに目が向かないということですよ。

目を向けないように努力する必要もない・・・・ということは、それが存在さえしないということ。

自分のうちから湧き出てくるネガティブ感情に振り回されて、あれこれ気にして、自分で自分の心を締め付ける必要がないということ。

わー、すごい。 なんて、楽なんだろう。



身なりが気にならないとか、人のことなんかどうでもいいとか、そう意味ではないのです。

もちろん、身だしなみや、人間関係のマナーは、必要です。

気にならないのはそこではなくて、他人との人間関係の中から受けて、自分の中で発生するあれこれ、のことです。

「無邪気さ」とは、

「めいっぱい、まっすぐに、わたしを生きる」ということだな、と思いました。


ミャンマー4.jpg





posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 《旅》ミャンマー2015.3-4 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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