2014年09月20日

「愛」と「情」



わたしは「愛」そのもの。



「愛」というのは、「情」ではない。

「よい人に思われたい」と思って行う、やさしそうな顔は、愛ではない。

いただいたものにはすべてお返しをするべきだ、という気持ちで行う行為は、愛ではない。

ニコニコ、笑顔でいることだけが、愛ではない。

「この人、ダメな人だなぁ」と思いながらも、同情の顔を作り、ウンウン、同意しているふりをするのは、愛ではない。

「いい人」の仮面は、恐れから身につけてしまう。

普遍なる愛とは、一見、冷たくも感じるもの。

見ている視点が違うから。

宇宙の愛の視点で見ているから。

そのかたの、真に必要なものを見ているときは、

表面だけ取り繕うことが、必要なくなる。

だから、真実のみを、つく。 

でも人は、真実を言われると、とても動揺する。

真実の愛は、嫌われてしまうかもしれない、という恐れを超える。

「好かれたい」という呪縛から解放される。

わたしたちはすでに、愛されているのだから。




「愛」とは、「情」ではない。

もちろん、「情」も人間には必要であり、そして、とても美しく温かいものである。

だから、それを不必要、と言っているわけではない。

むしろ、だからこそ人間は美しいのだと、言える。

良いとか、悪いとかではなく、

「愛」と「情」は、違うのだということを真に知ること。

それを知ると、恐れが無くなる。

「嫌われたらどうしよう」という恐れ。

いわば、その人を「失う恐れ」。

恐れが無くなると、真実のみを語ることができる。

すると、「情」ではなく、「愛」を信じることができる。

「愛」は、時間と空間を超える。

うわべだけのやさしさや、対処的な安心感だけが欲しい人で、

この、普遍的な愛を、受け取ることができなくて、

たとえ、わたしを嫌ったとしても、

わたしは、「愛」そのもの。

あなたを、全身全霊で、愛している。

いつか、わかるときが来ると信じている。

それが、遠い、遠い、来世、来来世、さらに先だったとしても、

わたしの「愛」はすでに、もう、その先まで続いている。



いま、

近くにいないあなたにも、

もう、すでに、届いている。

わたしは、「愛」そのものだから。


だから、わたしは、舞う。

2014山寺合宿37.jpg










posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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