わたしは「愛」そのもの。
「愛」というのは、「情」ではない。
「よい人に思われたい」と思って行う、やさしそうな顔は、愛ではない。
いただいたものにはすべてお返しをするべきだ、という気持ちで行う行為は、愛ではない。
ニコニコ、笑顔でいることだけが、愛ではない。
「この人、ダメな人だなぁ」と思いながらも、同情の顔を作り、ウンウン、同意しているふりをするのは、愛ではない。
「いい人」の仮面は、恐れから身につけてしまう。
普遍なる愛とは、一見、冷たくも感じるもの。
見ている視点が違うから。
宇宙の愛の視点で見ているから。
そのかたの、真に必要なものを見ているときは、
表面だけ取り繕うことが、必要なくなる。
だから、真実のみを、つく。
でも人は、真実を言われると、とても動揺する。
真実の愛は、嫌われてしまうかもしれない、という恐れを超える。
「好かれたい」という呪縛から解放される。
わたしたちはすでに、愛されているのだから。
「愛」とは、「情」ではない。
もちろん、「情」も人間には必要であり、そして、とても美しく温かいものである。
だから、それを不必要、と言っているわけではない。
むしろ、だからこそ人間は美しいのだと、言える。
良いとか、悪いとかではなく、
「愛」と「情」は、違うのだということを真に知ること。
それを知ると、恐れが無くなる。
「嫌われたらどうしよう」という恐れ。
いわば、その人を「失う恐れ」。
恐れが無くなると、真実のみを語ることができる。
すると、「情」ではなく、「愛」を信じることができる。
「愛」は、時間と空間を超える。
うわべだけのやさしさや、対処的な安心感だけが欲しい人で、
この、普遍的な愛を、受け取ることができなくて、
たとえ、わたしを嫌ったとしても、
わたしは、「愛」そのもの。
あなたを、全身全霊で、愛している。
いつか、わかるときが来ると信じている。
それが、遠い、遠い、来世、来来世、さらに先だったとしても、
わたしの「愛」はすでに、もう、その先まで続いている。
いま、
近くにいないあなたにも、
もう、すでに、届いている。
わたしは、「愛」そのものだから。
だから、わたしは、舞う。

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