※2005年11月に書いた、あるコミュニティに投稿したショート小説です。
指定されたお題と、タイトルに沿った内容で書く、というのがルールの小説です。
わたしにとって、とても懐かしいので、ここに載せておこうと思います。
よかったら、読んでください。
お題 : 「お茶」 「猫」
タイトル : 「変わらないこと」
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『変わらないこと』
「お茶でも飲もうか?」
母がそう、持ちかけるときは、「お茶、入れてくれる?」という意味なのだ。
「うん。わたし、玄米茶が飲みたい。いい?」
読みかけの本にブックマークをし、よいしょ、とソファーを立ちあがると、返事も聞かず、わたしはキッチンへと向かう。
「冷蔵庫にプリンがあるよ!」
リビングから声を張り上げる母のその言葉は、
「プリン、持ってきて!スプーンも一緒に!」という意味なのだ。
わたしの問いかけに返答なしの場合は、「了解」という意味なのだ。
毎度のことながら、わたしは、苦笑し、返事もせずに「お茶」の支度をする。
「了解」という暗黙の了解で。
一緒に暮らしていればきっと、こういう何気ないことが、苦痛になるのだろう。
思い返せば、10年も前、母と一緒に暮らしていた頃は、こんな、母のかわいらしいワガママにも、いちいち、ピリピリしていたものだ。
今は、たまにしか顔を合わさなくなったぶん、寛容になれるのだ。
まあ、わたしが、10年歳をとり、大人になった・・・・ということもあるが。
年季の入った急須と、湯のみを二つ、プリンとピーターラビットのスプーンを二つずつ。
そして、昨日、わたしが東京で、お土産にと買ってきた、自宅の近くのおいしいケーキやさんの、おいしいスイートポテトを数個。
お盆にバランス良く載せ、両手で慎重に持ち、リビングに向かう。
窓の外には、向かいの住人が、飼い犬に綱を付け替えているのが見える。
夕方のお散歩に連れられていくのだろう。
尻尾を、台風の時の、車のワイパーのように忙しく動かし、ゴムまりみたいに、ピョンピョン、跳ねて、大喜びしている。
母は、眼鏡をかけ、ソファに座り、「植物の育て方」の本を、熱心に読んでいる。
少し賑わいが薄れてきた庭の花壇に、また、「赤ちゃん」を、植えたらしい。
わたしは、ふと、東京の自室のベランダにいる、アサガオの鉢植えを思い出す。
「あの子は、わたしが帰るまで、大丈夫かな?」
お湯を入れた急須を片手に持ち、片手で蓋を押さえ、くるくるとまわしながら、
「ああ、わたしの植物好きは、この人が植え付けたんだ・・・・・・」
と、再び苦笑する。
ふんわりと、玄米茶の香りが、リビングを和らげる。
お茶を入れ、わたしも、母の斜め前にある、二人がけのソファーの左隅に座り、母の顔を、まじまじと眺める。
いつのまに、こんなに目尻がさがったのだろう。
眉根にある、縦じわは、迷惑をかけた、若い頃のわたしのせいかもしれない。
貫禄があるなぁ・・・・・・・。
「どうしたの?プリン食べないの?」
と、眼鏡を鼻に乗せ、上目使いにわたしを見る母に、今、考えていたことを、言えるわけがない。
母の姿の背景にある、リビングの扉が、数センチ開いていることに気づく。
「ドア、閉め忘れちゃった。」
わたしは、再びソファーを立ちあがり、ドアを、パタン、と閉める。
たまにしか実家に帰らないわたしは、半年前に、老衰で死んでしまった、愛猫のために、ドアを少しだけ開けておく習慣が、なかなか抜けないでいる。
なんだか、まだ、愛猫はここにいて、足元をするっ・・・・とすり抜けて行きそうな錯覚をしてしまう。
あの、ふさふさとした、長い尻尾を、優雅にゆらゆら揺らしながら。
母は、その習慣から、もう脱け出せたのだろうか?
「お茶飲んだら、買い物に付き合ってもらいたいんだけど。悪いけど、車、運転してくれる?」
母は、夕暮れの運転が、苦手なのだ。
周りが見えにくくて、怖い、のだそうだ。
こんな、かわいいワガママも、たまにのことなら許せてしまう。
または、わたしが、大人になったのか。
買い物から帰ったら、母とふたりで夕食を作り、
そのうち、父が戻ってくる。
父は、なによりも先に風呂に入り、風呂上りにいつものビアグラスで、ビールを飲むのだろう。
母は、食事の後には、いつものように、バニラアイスを、大きなスプーンにふたすくいだけ、楽しむのだろう。
明後日、わたしは、東京に戻る。
あの、くるくるとめまぐるしく、慌しい毎日へと。
きっと母は、駅までわたしを車で送ってくれ、わたしが見えなくなると、
ひとり、運転席に座り、ハンドルを握り、わたしのいない家へと帰るのだろう。
愛猫もいなくなってしまった、ドアを、少しだけ開けておく必要のなくなった、この、いつもの我が家に。