「パチン、パチン」
先日、実家にて。
柔らかな午前中の日差しの中、庭に面する窓際で、足の爪を切っていました。
新聞紙を広げて、爪が飛び散らないように注意しながら、 パチン、パチン・・・と爪を切っていました。
震災のため、ここのところずっと緊張状態が続いていましたが、この日は、いつもよりものんびりとした時間を過ごしていました。
温かい陽光に目を細めながら、 ふと、 祖母のことを思い出しました。
25年くらい前に亡くなってしまった祖母とは、わたしが生まれてからずっと、一緒に暮らしていました。
わたしは、祖父母がだいすきで、毎日のように祖父母の部屋を訪れ、家にいるときはほとんど、一緒に過ごしていました。
祖母は、白内障で、あまりよく目が見えなかったため、生活するのがとても困難そうでした。 その祖母を、祖父がさりげなくサポートしていたのを覚えています。
祖母は、目が不自由のため、手の爪も、足の爪も、自分で切ることができませんでした。
時にはわたしが切ってあげることもあったのですが、子供だったわたしは、他人の爪を切る・・・・ということに恐怖を感じていて、頻繁にはお手伝いしていませんでした。
どこまで切っていいのか、肉を傷つけたらどうしよう、痛くしたらかわいそう・・・・と、怯えていたのです。
当時のわたしの家は大きな一軒家で、庭もとても広く、祖父母の部屋には縁側がありました。
その縁側に新聞紙を広げ、陽射しが差し込む明るい時間帯に、祖父が祖母の足の爪を切ってあげている、微笑ましい情景を、何度も何度も目にしました。
当時はなんとも思わなかったのですが、今思い返して見れば、なんという素晴らしい夫婦愛だろう・・・と、鼻の奥がツン、とします。
祖母は、がんで一年近く入退院を繰り返していたのですが、入院中、そして自宅療養中、毎日祖母の看病をする祖父がいました。
まだ、身体を動かせた時期の祖母は、6人部屋に入院するのが嫌で嫌で、いつも駄々をこねていました。
祖父は、自転車で毎日病室に通い、わたしも、学校が終わると、ほとんど毎日のように祖母の病室にお見舞いに行っていました。
面会時間が終わる頃になると、わたしと祖父は帰らなければいけないのですが、 祖母は「さみしい。さみしい。」と言って、
「わたしも一緒に帰る。」 と、身支度を始めようとするのです。
そんな祖母を、祖父と二人でなんとかなだめ、病室を出るのですが、祖母はヒョコヒョコと、わたしたちについてきてしまうのです。
わたしたちは、ささっ、と壁に身を隠し、隠れながら祖母が廊下をウロウロと、わたしたちを探しているのを観察しました。
祖母は、白内障で目が不自由だったけれど、細かい作業以外はなんでもできるほどの視界は持っていたので、歩いてまわることもできたのですが、わたしたちが壁の向こうから覗いているところまでは見えなかったようでした。
わたしは祖父とふたりで、そんなさみしそうな祖母が、トボトボと病室に帰っていくのを、何度となく見届け、そして、ふたりで自転車に乗って自宅へと戻ったのでした。
祖母のさみしそうな後姿を、今でも鮮明に思い出します。
祖母が、衰弱して動けなくなってしまった時期。
祖母は、トイレに行くこともできず、おむつをしていました。
おむつの取替えは祖父の仕事で、そのときは、さすがにわたしを部屋に入れようとはしませんでした。
自分の愛した女のおむつを替える祖父。
あの頃は、なんとも思わなかったのですが、今思えば、「究極の愛」なのではないかと感じます。
寝たきりだった祖母は、「床ずれ」がひどくて、お尻にも背中にも、痛々しい赤い痣がたくさんできていました。
祖父は、一日に何回も何回も、祖母の身体を動かしてあげ、痛そうな部分に軟膏を塗り、ドライヤーで乾かしてあげていました。
祖母は、ぎゅっ!と固く目をつむって、たまに、泣きながら「ありがとう」とお礼を言っていました。
祖母も、女なのです。
自分の愛した男に、おむつをかえてもらったり、床ずれに軟膏を塗ってもらったり、情けない姿をたくさんみられてしまい、それはそれは、せつない気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。
今、もしわたしが祖母の立場だったら、どうしようもない無力感と羞恥心で涙が止まらないでしょう。
祖母が亡くなって、お葬式が終わっても、祖父は一度も涙を見せませんでした。
わたしは、ゴウゴウと泣き崩れ、しばらく立ち直れませんでした。
祖父は、どんな気持ちで、愛した女を看取ったのでしょう。
涙を流すのも忘れてしまうほどの、虚無感だったのでしょうか。
あの頃は、わたしは子供過ぎて、なんとなくやり過ごしてしまった、あの「夫婦愛」を、
先日、ふと、思い出しました。
15年前に祖父も亡くなってしまい、わたしは、20年前に、あの当時の家を出てしまっています。
時代は流れ、環境は変わり、わたしもずいぶん大人になってしまい、子供のころのようなピュアな気持ちのままではいられなくなってしまいましたが、ダイスキだった、おじいちゃんとおばあちゃんのことは、一生、ココロの中に置いておこうと思います。