枯葉が覆い、ふかふかに柔らかくなった山道を歩く時の、独特な音と感触が好きだ。
ざくざく、ざっざっ・・・・
たくさんの落ち葉のベッドのふんわりとした感触が、トレッキングシューズの厚い底からでも伝わってくる。
どれほどの葉が枝から離れ、風に吹かれて大地に還っていったのだろう・・・。
山の中の遊歩道を落ち葉はすっぽりと覆っていて、それはかなり厚くなっているので、その下にゴロゴロあるであろう自然の石たちは、その黄色や茶色や赤の枯葉の下にもぐり、冬眠するかのように見えなくなっている。
私は、どこに隠れているのか予想もつかない枯葉の下の見えない石を、変な角度で踏んで足首をひねらぬように、太腿にぐっと力を入れてザックザックと歩く。
ゆっくりと一歩一歩の足の置き場を慎重に見つめ、狭い渓谷の道筋を踏み外さぬように。
遊歩道は時に1mにも満たない狭い幅になり、足元の脇には、ゴウゴウと水が激しく流れている。
眩暈でもしてふらりと足を滑らせたら、あのスピードのある流れの中に滑り台&ダイビングだろうな。
この、「竜門峡」に来たのは、これで二回目だ。
前回は確か・・・・8年ほど前だった気がする。
一歩一歩、渓谷の急流沿いを登っていく、自分の足元をみつめる。
ここは「遊歩道」と名前がついているけれど、いやいや、その名を信じてはいけない。
この「遊歩道」は歩きやすく整備されているとは言い難く、最低限の道案内以外はとてもワイルドで、あちこちでフェンスは傾いたり崩壊したりしているし、落石で渡し板が歪んでいたり、岩が行く手をふさいでいたり、道筋に小川が流れていたりぬかるんでいたりして、トレッキングシューズでなければなかなか歩くのが難しいだろう。
わたしは、登山用の装備で来たから、軽快に歩くことができたが、さっき駐車場で会ったご夫婦が履いていた靴・・・旦那様は薄いスニーカー、奥様は高齢者がよく履いているような軽くて柔らかくて平べったい底に少し踵が高くなっている黒い合皮の靴・・・では、ぬかるみや、枯葉の登り坂を登っていくのは、少し難しいだろうな、とふと、心配してみたりする。
とはいえ、きっとそのご夫婦は、私のようにてっぺんまで登ることを目的としていないのだろうな。
きっと、ちょこっと写真を撮りにお散歩に来たのだろうな。
そのご夫婦以外は、誰にも会わなかった。
誰一人周りにいないこの渓谷を、私は一人で静かに森を楽しみながら歩いた。
勢いよく流れていく美しい川は、バシャバシャと大きな水音を激しくたてていた。
その川沿いに続く細い登山道を、私はゆっくりと森を隅々まで感じながら登っていく。
入り口で「クマ出没注意」の看板を見たことを思い出し、一人での登山だというのにクマ除けの鈴を持っていないことが少し不安になった。
鈴はないけれど、代わりに、私はマントラを大きな声で歌いながら登った。
激しく流れる川の爆音にかき消されてしまわぬよう、大きな声で山の斜面の方向に向かってマントラを歌って、クマに私の存在をアピールした。
思い付きで「森のくまさん」を歌ってみたりして、「熊さんにぃ〜であぁったぁ〜・・・いやいや、出会っちゃいかんだろ」と自分に突っ込みを入れてみたりして、一人でクスクス笑った。
川は、ゴウゴウと大きな音を立てて、私が歌った声を丸ごとかき消していく。
それにしても・・・、
ここ一週間はずっと晴れていて、雨は一滴も降っていないというのに、山の上からどうやったらこんなに大量の水が流れてくるんだろう・・・。
自然の完全さに感服しながら立ち止まり、滝のように落ち、渦のようにうねっては流れていく、水という生き物をじっと見つめ、しばらく、その美しい完璧な営みに目が離せずにいた。
この森は、たくさんの気配がする。
わたしには感じる。
でもその気配は、恐ろしいものではなく、むしろ、繊細な子猫のように、息をひそめて、でも好奇心ムンムンで私を少し離れたところから観察しているようだ。
どーも、おじゃましてます。こんにちは。ユキです。
いいよ、好きなだけ私を観察して。
私はあなたたちを変えようとしないし、何も求めない、そして、あなたたちを邪魔しようともしない。
だから、私を安全に歩かせてね。この森のスピリットたちよ。
その山によって、森によって、その地のスピリットには表情・・・というか、性格・・・というかがあると感じる。
この地のものは、とてもシャイで、でもすごくたくさん、大勢で見にやってくる感じ。
8年前にここに来たとき、同じようにてっぺんまで登ったのだろうけれど、
この山の起伏や、遊歩道(という名のプレ登山道)を歩いた記憶がまったく無く、そして、今こうして歩いていても、まったく当時の経験が思い出せない。
あの頃、私はどんなことを考え、どんなものに繋がっていたのか。
当時の自分自身にしばしのタイムスリップ。
8歳若い私、模索しながら人生を歩き、まっすぐに真摯に、せつなくなるくらいただただ誠実に生きていた。
そしてあの頃、この渓谷を登ったときは、私の龍との出会いの直前だった。
「竜門峡」という名前から、やはり、龍とのつながりを思い出す。
首から下がる、一眼レフカメラの重みで、首が少し痛くなったので位置を変えて、右肩に引っ掛けてカメラを小脇に抱えた。
そうだ。
あの時も、一眼レフを持っていた。
今持っているこの同じカメラだ。
レンズだけは新しく取り換えたけれど、カメラ本体はあの時と同じものだ。
ずいぶん前から愛用しているこのカメラ。
きっと、私の手の柔らかさや目のまなざしを記憶しているだろう。
右手はカメラ本体、左手はレンズのズーム、そして右目でのぞき込む、それがいつものポジション。
古いタイプなので、直接、目をファインダーにつけなければいけない。
でも、わたしは、さっ!とカメラを構えてファインダーに目をつける、その姿勢をとるのがとても好きだ。
わたしは8年前にここに来た時から、随分と人生が変わって、人間として魂として成長しているのだろうけれど、
でも、手の柔らかさや、カメラを構える感触はきっと変わらずにいて、このカメラは、その馴染み深い「私の手」を覚えてくれているだろう。
私の相棒として、これまで故障もせず私についてきてくれているのだ。
カメラを握る手から、わたしもカメラを感じる。
この感触、この重み、この形、この硬さ、この丸み。
このカメラを買ったのは、確か、15年位前だった。
移り変わる時代の中、ご縁の中で、このカメラは変わらず私と共にいて、これまで様々な国や土地に一緒に旅した。
落とさないように、揺れて木にぶつけないように、汗で濡れないように、大事に大事に抱える。
ああ、汗が流れている。
背中に、胸に、こめかみに。
いいぞいいぞ、森よ、私を浄めておくれ。
私が人間としてこうして生きて、知らず知らずに拾い集め、背負いすぎてしまった不必要なものを、
森はひとつひとつ、そぎ落としてくれるような感じがする。
年を重ねるっていうこと、生きていくっていうことは、知らずに背負ってきてしまったものを、いかにそぎ落として軽くしていくか、だと思う。
身体を動かして汗を流すのは、シンプルに心地が良い。
それが、自然の中なら、なお良い。
南米のアマゾンに滞在したときに、アマゾンのシャーマンが言っていたことを、森を歩いているといつも思い出す。
「森にいるときは、あれこれ頭で考え事をしてはいけない。すると頭痛がしたり気分が悪くなる。ただ今・ここ、だけに集中して、森にだけ集中するんだ」
「そして、セレモニーをする前には、必ず丸一日、森に入って浄化をするんだ」
ふと、私の足が止まった。
山側には、背の高い木々と共に巨石がゴロゴロと周りを取り囲み、突然やってきたちっちゃいわたしを、ギョロギョロなんだなんだと観察しているようだった。
わたしはとても小さくなって小人になったみたいな気分だった。
そのたくさんの巨大な丸い石が、どういうバランスでか奇跡のように安定していくつもいくつも積み重なっていて、その巨石と巨石の隙間から、ボトボトと水が流れて落ちて、その下に小さな流れを作っていた。
左下に見える大きな川の中にも、巨石がゴロンゴロン寝転がっていて、皆で揃って水浴びをしているようだ。
また、何かの気配を感じた。
そう、私は見られている。
私は目を閉じ、両腕を大きく開いて、顔を少し上にあげ、息を大きく吸い込んで、吐き出す息で喉をこするようにして「AAAAAUUUMMMMMMM」と、ユニバーサルマントラを唱えた。
この森と一つになる、最高に広がった感覚。
すべての息を吐ききって、マントラの声が聞こえなくなってから、ゆっくりとまた息を吸って、そして、静かに目を開けた。
開いた目の前を、たくさんの枯葉がひっきりなしに飛んでいた。
うわあ・・・・・キレイ・・・!
まるで、ゆるやかな流れ星の中にいるかのように、一瞬、宇宙に放り出されたかのような無重力な気分だった。
カサカサ、ガサガサ、木々が揺れている感じがした。
風が吹いてきたのだ。
川の流れの爆音にかき消されて、風の音は聞こえなかった。
でも、木々が大きく踊っているのが感じられた。
そして、目の前の宙を、たくさんの枯葉が浮いていた。飛んでいた。流れていた。舞っていた。
それはもう、雪が降っているときのように、あたり一面、空中を枯葉がゆっくり浮遊していた。
静かにくるくると回りながら舞い落ちる枯葉のシャワーの中で、私はまるで、自分の身体が上へ、上へ、と昇っていくかのような錯覚を起こし、足元がふわりと大地から浮かんだような気分になった。
なんて、美しいんだろう・・・。
揺れる枝たち、自由奔放に伸びる木々、どっしりと巨石たちがそれをみつめ、山全体がすべてを受け入れて、
そして、宙という宙を、枯葉が自由に飛び、浮き、舞い、なんとも美しいダンスを踊っている。
本当に幻想的。
地球はなんと美しいのか。
祝福されている、わたしは、祝福されている。
大きな森の中のちっちゃな私は、プレゼントをもらった子供のように、はしゃいで喜び、両腕をさらに大きく天に向かって開いた。
完璧だ、森から私へのプレゼントだ!
ニコニコとわたしは笑いながら、木々や巨石や川の流れや落ち葉のパフォーマンスショーやこの舞台のすべてをみつめる自分の視線に、
ありったけのお返しの愛を込める。
そして、一眼レフの重みを確かめながら、右手で胸に抱え、今この魔法のような美しい瞬間を、カメラのファインダー越しではなく、この目でしっかりと受け取ってよかった、とカメラに伝える。
すると彼も、僕も仕事抜きで楽しめてよかった、と言ったような気がする。
よき相棒よ。長い付き合いだな。
振り返り、さらに登っていく方向へと顔を向け、まるで少女のように、少し弾むようにしてまた私は歩き始める。
森の中のたくさんの巨大な岩たちが、このちっちゃな少女を、微笑みながら見守っているようだった。