昨日、祖父・竹雄の夢を見たので、私の小さな頃のことを書きたくなった。
竹雄は父方の祖父で、シャーマンだった祖父とは違うほうの、普通のおじいちゃん。
母方のシャーマンだった激しい祖父とは反対に、父方の祖父・竹雄は、とても穏やかで緩やかで、自然と動物を愛する優しい男性だった。
私が生まれてから13歳まで一緒に暮らしていた。
幼少の頃の私は、毎日、祖父と一緒にいて、いろんな事情から、両親といる時間よりも、祖父と過ごす時間のほうが多かった。
祖父とは、毎日、1〜2時間くらい、愛犬ロッキーの散歩に行くのが日課だった。
季節の移り変わりの美しさや、小さな生命の逞しさや、奇跡のような空の広さ、その美しさが毎日変化することなどを、小さな私はロッキーと祖父とともに学んだ。
毎日、空と雲を見上げて、天からメッセージを受け取っていたのもこの頃だった。
自転車に乗れるようになったオカッパ頭の小さな私は、あちこち一緒に連れて行ってもらった。
小さな自転車の私は、なかなか祖父のスピードに追いつけず、祖父はしばしば自転車を止め、振り返って待っていてくれた。
その祖父目掛けて、私は必死でペダルをこいだ記憶が、いま鮮明に思い出せる。
遊亀公園での紙芝居は大のお気に入りで、紙芝居に影響されて私がなにか一芸をすると、祖父はゲラゲラ笑って型抜きや、水飴を買ってくれた。(40代中盤以上じゃないと知らないよね、これ)
本が大好きな私に図書館にも頻繁に行ってくれて、重たい本をたくさん自転車のかごに入れて運んだ。
祖母が入院したときも、毎日、二人で自転車をこいでお見舞いに通った。
一人では行くことのできない遠いところでも、祖父の後ろから自転車をこいで、どこにでもついて行った。
ひょっとしたら距離はそれほど遠くない場所だったかもしれないけれど、私にとっては、ものすごい大冒険で、本当に楽しくて、おじいちゃんが大好きだった。
愛犬ロッキーは、甲斐犬の雑種で、その前にいた黒い毛のマリーが亡くなった後、きっと、兄がどこかから拾って来たのだと思う。
私もかつて何度も何度も、子犬を拾って来ては、いつも、翌朝にはいなくなっていて(きっとまた捨てにいったのだろう)何度も号泣した記憶が蘇る。
ロッキーはとてもかしこくて、そしてとても繊細な男の子だった。
幼少の私には、散歩のほかに、ほぼ毎日の日課として「ロッキーを抱きしめる時間」というのがあった。
ロッキーは屋外犬だったので、あまり綺麗ではないし、いつも臭かったから、私は、ロッキーをハグする専用のジャージ(当時はジャッシーって呼んでたよね)に着替えて(汚れても気にならない古いやつ)、庭にあるロッキーの小屋の前に壊れた古い座卓を置いて座った。
両脚と両腕を大きく開いて「ロッキー!おいで!」と言うと、ロッキーはいつも「嬉しい!」と全身で表現しながら、私の胸と内股に目掛けて走り飛び込んできた。
私はロッキーを両腕・両脚・胸で抱きしめ、撫で回して、きっと、毎回1時間近くは可愛がっていた。
とても愛しい、愛犬ロッキーとの愛の交換の時間だった。
ロッキーは私と祖父のことが大好きだった。
祖父との思い出には必ずロッキーが加わる。
ある日のこと、祖父がボロボロの風呂敷を見せてくれた。
それは、戦争の頃、空襲で逃げるときに使った風呂敷だそうで、火の粉が飛んだのであろう焼けた穴がいっぱいあいていた。
戦時中の恐ろしい実体験から、どれほど平和がありがたいか・・・を、祖父は教えてくれた。
私はその風呂敷からの凄まじいエネルギーに、目が釘付けになったのを覚えている。
祖父との思い出の中のわたしは、いつでも、空の下・自然の中で、動物と共に、ゲラゲラ笑って踊っている。
いま思い出せば、
どうやって自然を愛するか、
地球と会話をするか、
空から愛を受け取るのか、
動物の気持ちを感じ取るのか、
穏やかに平和に過ごすことのありがたさ・・・
祖父・竹雄と過ごした温かな時間の中で、大切なことをたくさん学んだのだと、いま感じる。
祖母はとても厳しく強い女性で、反対に祖父はとても穏やかで、いつでも面白いことをして笑わせてくれた。
私が13歳のときに事情があり祖父との暮らしを去ることになり、その後、祖父に会ったのはそれから15年後の亡くなる寸前のベッドに横たわる姿だった。
そのとき祖父はもうすでに、話は出来なくなっていたが、私の顔をみたら、生まれたての赤ちゃんみたいに顔をクチャクチャにして、目一杯の笑顔で一言だけ「ゆーきー」と、涙を流していた。
祖父と一緒に暮らせなくなった当時の私は思春期の13歳で、生きる力を失った絶望のどん底で、自分の痛みのことで精一杯だったから、
祖父の気持ちは、今のこれまで全く考えたこともなかったけれど、
昨日の夢で、鮮明に幼少期が思い出されて、祖父との思い出と愛を、いま、じっくりと味わって、このブランクを埋めるかのように、いま、ゆっくりと受け取っている。
いま感じてみれば、祖父も、小さい無邪気なユキと一緒に過ごす時間を楽しんでいただろうし、
きっと、突然、生活の中から私が消えてしまって、ものすごく寂しかっただろうな・・・と、別れて30年以上たったいま、初めて、祖父の気持ちになって感じている。
そんな祖父が、本当に珍しく昨日、夢に出てきた。
ニコニコして、私になにかをくれた。
それは、もみの木の枝だったような気もするし、赤いキレイなお花だったような気もする。
ビジョンはちゃんと覚えていないけれど、とても、穏やかで温かいものだった感覚だけ覚えている。
祖父が愛とともに夢に出てきてくれて、わたしは幼少期の自分とつながる機会を与えられ、本当にありがたいなあ、と胸がいっぱいになっている。
昨年の年末から、
近しい親族たちが、倒れる、入院、手術、(亡くなる)・・・ということが引き続いて起こっていて、
わたしの今世での「家系の癒し」が大きく起こっている、いま。
きっと、同じ宇宙の流れの上で、同じような側面を学んでいるかたもいるかな?と思い、そのかたの癒しのキッカケにも繋がりますように・・・と、この個人的な私の癒しをシェアします。
愛は、過去からも、受け取ることができるんだ。
ありがとう、おじいちゃん、ロッキー、そして、小さなユキ。
この人生を学ばせてくれて。