2018年の初夢は、すごく強烈だった。
年末からずっと起こっていた出来事と、学びがつながっていることに、あとで気づいた。
その夢の意味を、「社会のマインドコントロールに巻き込まれるな!わたしは私の感性を尊重すべき!」というふうに、わたしは解釈をした。
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わたしは、人からある団体の集いを紹介された、という設定で、あるコミュニティのワークショップのようなイベントに参加していた。
でも、わたしは、参加者が全員、とても奇妙に見えた。
なにやってるのこれ? 気持ち悪い。
みんな、すごく、どう考えても的外れなことを、誰かの指示のもと、一心不乱にやっていた。
指示を出しているその「誰か」は、姿は見えないし、どこかからマイクで指示を出しているわけではないのだけれど、
でも、その「誰か」の存在感はとても大きくて、姿も声もなにもそこにはいないのに、みんな、その「誰か」のいいなりになって動いているのがわかった。
「ああ、気分が悪い、なんだこれ」・・・とわたしは、愕然とした。
怪しいグルに洗脳されている人たちが、怪しげな行動でぐるぐる動いている。
わたしは「ここは私の場所じゃない」と、心から拒否感。
ロボット人間・・・・、あやつり人形・・・・、そんな言葉で表現できる人たちが目の前で、歌ったり、歩いたり、なにか書いたり、なにかやったり、とにかく、なにか行動している。
その人たちは、自分の意志でそれをしているのだと信じているのだけれど、実は、全部、マインドコントロールの下で起こっていて、
自分たちが「あやつられている」ということにさえも、気づかず、「自由に行動している」と間違えて捉えている、本当はすべて支配されているということにも気づいていない。
わたしは、すべてが見えるから、その人たちの無知や、目に見えない支配的な存在のこともわかっていて、
だから、わたしは抵抗して、その「マインドコントロール」にはあやつられないようにしていると、
周りの人々が、わらわらとわたしに寄ってきて、わたしを彼らの中に巻き込もうとする。
「どうしたんだよ、すごくよいイベントだよ。おいでよ。君は間違っている。みんな、すごくいいって言っているのに、どうして君だけそう思わないんだ。」
そう言って、人と違うわたしを、彼らの中に巻き込もうとする。
夢の中のわたしは、高いところから広い視野ですべてが見えているから、
「まあ、ちょっとこの中に巻き込まれてやって、様子を感じてみるのも面白いかもしれないな」
と、柔軟に構えて、そのロボット人間たちの間に、同意のもとで入っていってみた。
わたしはボディワークをしている人たちに交わってみた。
数年前に参加して学んだ、舞台芸術の学校の研修のような感じのボディワークが行われていた。
身体表現は大好きだ。
いろんなひとの体に寄りかかって表現したり、歩いたり、数人で身体で形を作ったり、持ち上げられたり、腕や足を絡ませたり、とても面白かった。
夢中になって、隣の人や、前の人との呼吸を合わせて身体で表現していて、はっ!と気づいた。
こうして、ロボット人間たちのあいだにいると、その人たちに合わせることが必要になるから、相手の空気を読みながら動いたり、予測して構えたりして、
そんなふうにしているときというのは、実際には、目の前のほんの小さな狭い空間しか見えていないのだ!
そして、目の前の小さな狭い空間で繰り広げられている、周りの人間たちとの押し合いや、駆け引きや、空気の読みあいなど、それが、自分の世界のすべてになってしまっているではないか!
こんな小さな狭い空間の中で、こんな小さなことが、「人生のすべて」みたいに見えて、いかに周りとうまく呼吸を合わせていくか・・・・がすごく重要なことみたいに見えてしまっている!
わたしでさえも、このロボット人間たちの間に入り込んでしまったら、一瞬、自分を見失ってしまった!
これは、おもしろい発見だ。
いくら「わたしはしっかり目が開いている」と思っていても、いざ、その渦中に入ってしまうと、結局、まわりのロボットたちと同じものなってしまう。
そして、それに気づかない・・・・!? こわっ!
その後、後半のイベントは、たくさんの人間たちがベルトコンベアーみたいな、周り寿司みたいなのに立って、次から次へと、わたしの前に流れてくる、という場面。
なにがしたいのか、なにを意図しているのかわたしにはわからない。
でも、列になって流れてくる人々が、自慢げな誇らしげな顔で、「ふふん」という表情なので、周りでみている私たちよりも、きっと、なにか偉いことをして、その褒賞のために、ここに立って、みんなに見せるためのパレード?なのかもしれない。
わたしは吐き気がした。
なんで、気づかないんだこの人たち。
何に対して誇っているのだ?
結局、姿のない声も聞こえないけれど、確実にマインドコントロールしている「ある存在」に、ただ操られているだけだ。
良いと悪いのジャッジさえも、知らないうちに深層に植え付けられて、勝手に競争心と優劣を設定させられて、そして、こんな恥ずかしい形で、ベルトコンベアーで流されている姿でさえ「すごいでしょ、ふふん」と思ってしまっている。
なんてこった、大丈夫なのか日本は??
周りの人々は、ものすごく盛り上がっていて、わたしひとりだけ冷めている。
ん? わたしがおかしいのか? もしかして、わたしが変なのか?
人と違うと、どうしても「わたしがおかしいのか?」と思ってしまう。
これも、団体コミュニティーの中で調和を図る日本の文化特有だけど・・・・でも、わたしは自分の感性を尊重したい。
わたしは、おかしくなんかない!
その場所から帰ろうとしたけれど、どうしても、帰り道がわからない。
何度も、変な場所にワープしてしまう。
わたしは夢の中では空を飛べたから、目的地を上からみて、そこにめがけて飛んでいくのだけれど、
上から見たその目的地が、近づくと形を変えてしまうし、道もころころ変わってしまうし、どうにも、帰り方がわからない。
まるで、罠にかかったかのようだ。
あそこに目掛けて飛んで行っても、違う場所にたどり着いてしまう。
空を飛んで、あちこち行ったけれど、眼下の町並みは、グニャグニャと、常に変化して安定しないから、どこにも降り立つことができない。
どう考えても、罠にかかっているとしか思えない。
しかたがないので、空を飛ぶのはやめて、アナログな方法で、歩いて帰ることにした。
自宅と思われる場所にたどりついた。
たぶん、自宅だったのだろうけれど、見たことのない家だった。
見覚えのないドアを開けて、家に入ると「おかえりー」という声がした。
全然、馴染みのない落ち着かない家だったけれど、ここがわたしの自宅、という設定だった。
夢の中のわたしは、知らない家を「自宅」と設定されていることに、とても不思議な気分でいた。
中には、母がいて、兄が2人いた。
兄の子供もいたけれど、これも実物と違って、見たことない太った男の子だったけれど、「わーい」と嬉しそうに私に駆け寄ってきたので、きっと兄の子供(の設定)なのだろう。
わたしは駆け寄ってきた男の子を、「よっしゃー」と抱き上げて、楽しそうに見せていたけれど、見たこともない男の子と楽しそうに遊ぶ・・・という演技をしていることに気づいていた。
社会って、演技だよな。
知らない家で、見たこともない男の子を抱き上げて、「家族」という演技を完璧にこなす。
社会って、演技次第でどうにでもなるんだな、と思った。
そして、母と兄たちはわたしに「イベントはどうだった?」と聞いてきた。
「とてもよかっただろう?」とみんなしてわたしに聞いてきた。
わたしは感じたままに話した。
「すごく居心地が悪かったし、納得いかなかった。気持ちが悪かった。わたしの場所ではなかった。意味が分からないし、みんなただのマインドコントロールだった。」
そうしたら、みんなが大反対して
「どうしてだ!?だって、人々はみーーーんな、素晴らしいって言っているんだよ。だから、みんながそう言うなら素晴らしいに決まっているじゃないか。なんで、ユキはいつも、人と違うことを言うんだ!みんなが、良いというものは、良いに決まっているだろう!」
私は、激しく納得できない。
だから、懇々と丁寧に、ひとつひとつ、なぜおかしいのか、なぜ気持ちが悪いのか、どうして納得しないのか、みんなマインドコントロールされているだけなのだ、ということを、辛抱強く説明した。
家族のみんなは一瞬、納得して同意してくれたけれど、数秒後にはまた
「いや、でもそういうものなんだから、みんなやっているんだ。お前がおかしい」
と、すぐにまた、洗脳されたモードに戻ってしまう。
ああ、ダメだこりゃ。
と、心からあきらめた。
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これが、わたしの初夢。
衝撃的だったので、細部まで結構、鮮明に覚えている。
起きてから、ものすごい強く納得した。
最後のほうは、わたしの子供のころの体験ともリンクする。
わたしは、「変わった子」と呼ばれていたし、人のことがよくわかって(読めて)しまうので、図星ばかりをつくので、大人から好かれないことが多かった。
そして、あまり人に頼らず、ひとりでなんでもやろうとしたし、ひとりの時間をすごく大事にしていた子供だった。
「お前は変わっている。物事を斜めからいつも見ている」と親に言われ続けて、「わたしは変なのか?」と自分を責め続けて、いまこの瞬間まで、その「自分を責める」心の癖がどっぷりとついている。
でも、ただ、わたしはすごく感性が長けていただけで、いろいろとわかってしまったから、そのまま口に出して言うと、社会に洗脳されている人たちに「それはおかしい」と言われただけだった。
そして、子供のわたしは、自分があるがままの姿でいると、「おかしい」と言われてしまうのだ、と学んでしまったのだけれど、じつは、とてもオリジナルな能力を持っていただけだったのだ。
自分の「わかってしまう」という敏感な感性が人を怒らせたり、嫌われたり、おかしいと言われてしまうことから、小学校5年生くらいから、すでに、「わたしはあるがままじゃダメなんだ」という自己否定が始まっていた。
いま、大人になって、その子供のころに培ったたくさんの傷とトラウマを、癒し続けている。
そして、先日、パートナーにこの夢についてシェアして、さらに、大きく納得した。
わたしは、社会のマインドコントロールの罠には、はまらない、と決意した。
ただ単に、みんなが「よいものだ」と言っているからといって・・・、ただ「有名だから」といって、自分の感性・感覚を殺さないようにする。
自分の直感・ハートを、常に最優先に信じる。
迷うとき・・・・というのは、周りのあれこれに惑わされてしまって、最初に感じた直感を疑っているときだ。
わたしは、自分を疑わないようにする。
なにが起こっても、すべて最善なら、わたしは自分のスタイルを貫くし、だからといって、人のスタイルを否定しない。
みんな、違って、みんな、いい。
「違い」を認めて、ひとつの独立した存在として、オリジナルな唯一無二の命としてのわたしを、
とにかく、心から尊重して生きる。
「自分を愛する」という、聞き飽きた言葉では、足りない。
「わたしという命を尊重する」
これが、わたしの2018年の初夢からの、強い決意。
そして、
社会のマインドコントロールの罠をしっかりと見極めて、知らずに、はまることは絶対にしない。
でも、知っていて、あえて、はまってみる・・・ということは、するかもしれない。
それが、自分の夢の実現と、それに伴う、魂の進化に必要ならば、それもあるかも。
でも、それは「操られている」のではなくて、「自分の意志で、ロボットの真似をして踊っている」のだ。
知らずに振り回されている・・・ということと、知っていてあえて罠にかかる・・・というのは、大きく違うのだ。
「自分の内なる声」をなによりも最優先にする。
社会的対面や、いわゆる常識や、周りからの目や、自分の中に植え付けられた「社会的観念」のジャッジメントなどには、操られないし、
聖者や偉人の言葉や、宗教的な教えや、ヨーガの哲学的な智慧や、成功者のアドヴァイスなどにも、操られない。
どんな偉い人が私にアドバイスしたとしても、どんなに大量の人々がわたしはおかしいと言ったとしても、だれが何と言おうと、わたしは「自分の内なる叫び」を最優先にしたい。
本当の意味でわたしを守れるのは、私しかいないし、
本当の意味でわたしを幸せにできるのは、私しかいない。
そんな、2018年の初夢だった。
バリの北端の海沿いの田舎町で、ドイツ人のコミュニティーの中で、文化的なことや、社会的なことや、いろんな内なる葛藤と共に、2018年は始まった。
こんなふうに自分としっかり向き合っていくことで、様々な、葛藤から自分の命を学んでいく。
今年も、より一層、飛躍しそうだ。
合掌