2017年07月29日

映画「その男ゾルバ」



古い映画を、レンタルDVDで借りてきました。

ギリシャのクレタ島を舞台にした物語。

「その男ゾルバ Zorba the Greek」


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ゾルバが、ただのおちゃらけた男ではなくて、よかった。

酸いも甘いも、苦しみも愛しさも、いろんな悲しみも痛みも、全部、経験して味わい尽くした後に、

すべてを「手放した」、潔さ、と、エゴのない愛、そして、自分の無邪気さに忠実。

いろんな欲望も、ネガティブ感情も、すべて楽しんでいる。

弱者に対しての大きな愛があり、とはいえ、社会の理不尽さへの怒りはない。

それは、怒りやジャッジメントを超越しているからだと感じる。

ゾルバが、ただの女好き、酒好きのバカ男ではなくて、よかった。




心の残った言葉や場面から、わたしが感じたこと・・・・。



********


「あんたみたいに、本ばっかり読んでる人には、善いことと悪いことのジャッジはできるかもしれないが、ハートで感じることはできない。 心と体と声で、表現することはできないんだよ。 そんなやつの言う言葉は信用できないね、俺は。」





きちんとこのとおりのセリフだったかどうか細かいところは忘れてしまいましたが、このような内容でした。

まったくその通りだ。

お勉強ばかりして、本を読みあさって、どんどん頭でっかちになっていって、「本来の自分」とのつながりが絶たれてしまう。

大切なことは、自分の感性を自分自身で表現して、そして、そこから感じることで、先に進んでいくことだ。

「生きる」ということは教科書には載っていない。

それは、「自分を生きる」ということ。 

それは、他の誰かがあなたのために、あらかじめ本にして書いているわけがない。

「自分を生きる」ということは、どんな偉人や賢者や聖者の本にも、さまざまある聖典にも載っていない。

それらは全部、昔の誰かの経験談であって、その経験は、その昔の偉い人のために必要な経験ではあったが、あなたのためのテキストにはならない。

なぜなら、昔の偉い人の人生は、「あなたの人生」ではないからだ。

わたしたちは、それらを「参考にする」ことはできる。

「参考にして、自分が感じる道を進む」ことはできると思う。

でも、それらの教えや、誰かの生き様の通りに生きようとすることは、ただのコピーロボットを目指しているだけだ。

だから、大切なのは、「自分というシナリオを生きること」。

それを生きて、表現すること。

誰か昔の偉い人が言ったことや、行ったことの真似じゃなくて。

わたしにとってのヨーガも、そういう存在。

ただの聖典の真似ではない。



*********



村人たちがこぞって、未亡人に攻撃している場面。

なんの罪もないのに、美しいというだけでたくさんの嫉妬をされ、

どの男たちにも甘い顔をしないという理由で、男たちから憎まれてしまう。

村人全員からの憎まれ役になる女性。

なんという理不尽さ!

わたしは、腹が立ち、そして、ものすごく悲しかった。

でも、世界ってこれも現実。

人々は、個人個人では、善いと悪いの分別がつくのに、集団になっちゃうとものすごい残酷なことを平気でやってしまう。

ひとりだったらやらないはずなのに、みんながいると、残虐性が盛り上がっちゃう。

わたし、本当に許せない。

どんなことでも、なんにせよ、「みんながやってるから、私もやる」・・・・行為が、一番、わたしの生きかたと馴染まないこと。 

日本はその風習がものすごい顕著。 日本のここは好きじゃない。

わたしは、わたしのハートに従って生きる。

そして、結局、未亡人はただの「はけ口の無いイジメ」で、殺されてしまう。

ゾルバは、その彼らの極悪な態度を

「やつらは、未亡人のことが好きで、全員、彼女と寝たいのさ。でもそれが叶わないから、愛が憎しみの形に変わってしまっているんだ。」

と、ズバリと真理をつく。

それは、そうかもしれない、でも、なにがそうさせるんだ? 平和ってなんだ?

でも、わたしが怒る場面で、ゾルバは淡々と、その現実社会を分析して、とても冷静に語っている。

すごいな、ゾルバ。

酸いも、甘いも、すべてを経験して、超越した余裕だな。



*****************



「結局、俺らは死ぬんだよ! 人生楽しまなきゃ!」

「なんだよお前は、女にも興味ないし、イルカにも興味ないのか。 本の読みすぎだよ」




人間は、「ワクワク」が失われたらおしまいだよね。

「そんなに深刻にならなくてもいいんだよ! 私たちどうせ死ぬんだよ!」

これは、わたしがしょっちゅう、友人の何人かに言っている言葉。

ゾルバとまったく同じで、笑っちゃった。

ワクワクしていようよ! 

そのワクワクすることが、現実的にできるか、できないかは、別として、ワクワク、常にしていようよ。

仕事も、家族も、いま抱えている問題も、なんとかなるんだよ。

絶対に、なんとかなるんだよ。

ダメだと思えば、全部、ダメになるんだ。

だから、ハートのままに、生きるのだよ!



***********************


ゾルバの胸の中で死んだ女性の葬式ができないことを、「ひどいな!」と言われた時。

「彼女はもう死んだんだ。なにも感じやしないよ」

これも、ただのおちゃらけバカ男の口から出た言葉だと、こんにゃろー!となるかもしれないけれど、

それまで、好きでもない彼女のお世話をして、結婚の約束までしたゾルバの口から出てきたから、

やけに、深いなぁ〜〜〜、と感じた。

そうなんだよ。

肉体は、死ぬんだよ。そして、肉体は、彼女の肉体であったけれど、彼女本来ではない。


**********************


あと、もっと、いろいろ感じたのだけれど、長ーい映画だったので忘れてしまったのと、

覚えているんだけど、過激な意見過ぎてここには書けない(笑)

だから、直接会う人にだけ、そのタイミングがあったらシェアしまーす。







posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:37| アート鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月25日

嵐・虹・静けさ・瞑想的に生きる




過去の「未消化の感情」が、いま現在の自分の「人間関係の問題」と、そこから繋がる「いまの環境」を作り上げている、というのがよくわかる。

だから、昔から繰り返されている「負のサイクル」に、どうやって気づいていくか・・・・が、

より自由で楽しい人生にとって、必要なコツといえる。

瞑想的に生きる・・・・ということは、より「気づいている」ということ。

つねに、「見られている自分」と、「それを見ている自分」に、気づいているということ。

自分の人生の傍観者である、ということ。

それが、生活の中での瞑想。

目を閉じて蓮華座で座って・・・・という瞑想の訓練を経て、静けさと繋がることの達人になってくると、

ごく普通に行動している普段の生活の中でも瞑想的に生きることができる。

瞑想のポジションをとって、目を閉じて宇宙とつながっている時は、より、現実社会から遠ざかっているかのような「ワンネス・至福」を体験しているが、

瞑想状態がわかってくると、現実社会の中で、三次元的で人間的で世俗的なドロドロの中でも、瞑想的に生きることができる。

目を閉じて座って瞑想ポジションをとっていなくても、なにをしていても、どんなときでも、瞑想的になることができる。




それは、実際の意味では「心がブレなくなる」わけではないし、「エゴがなくなる」わけではない。

「心がブレている自分を客観的に見ることができる」ということであり、「エゴむき出しの自分を冷静に傍観することができる」という状態であると感じる。

そんなふうに、グラグラな自分自身の「傍観者」になって、ネガティブ反応に振り回されている自分を冷静に観察するということ。

すると、自分のパターンが見えてくるので、自分について誤解していたことを知り、新たに理解が深まることで、より冷静に「自分をみつめる」ことに馴染みが深くなってくる。

すると、すべて勝手に自分で作っていたまやかしのパターンの世界を信じ込んでいたことに気づく。

なーんだ、そんなことだったのか、じゃあ、必要ないや・・・・と、どんどん手放す。バンバン笑い飛ばす。それらの古いまやかしのパターンにハグしてからサヨナラする。

そして、日々の生活がより一層、瞑想的になってくることで、人間関係も、生活環境も、どんどん愛が深まっていく。




わたしはそんなふうにして、素晴らしい日々を送っている。

楽しむときは、思いっきり楽しむ。めちゃくちゃ、バカになって楽しむ。

悲しむときは、とことん悲しむ。自分のドロドロを、全部、味わい尽くして認めていく。

そして、話しあう時は、とことん話し合う。双方の誤解が解けて、自分が相手に投影していたことの理解がしっかり深まるまで、とことん話し合う。

人間関係の中で、シェアリングは本当に大事だと思う。

でも、去年までの私は、すごく苦手だった。

それはシェアリングの時の「話しかた」と「聞きかた」の問題だと思った。

聞いているほうも、話しているほうも、コツが必要だと感じた。

これはまたいつか、詳しく書こう。





思いっきり笑い転げて、愛を放出しあって、

そして、疑問をぶつけあって、誤解をして、誤解を解きあって、人間関係は深まっていく。

他者とのシェアリングの中で、気づかずに行動して発言していた「知らなかった自分の側面」に気づくことができる。

自分自身の口から出た言葉を改めて他者の口から反芻して聞くことや、

自分自身が行なっていた行動を、改めて、他者から客観的に伝えられることで、

大きな気づきにつながる。

わたしは、ずいぶん、自分について、こうだ、と思いこんでいる部分がたくさんあって、

そして、誤解したまま、それを信じ込んで生きてきたんだなぁ、と気づく。

気づくことで、わたしは成長する。

どんどん、どんどん、成長する。

それは、止まることがない。

毎瞬間、気づいて、成長している。

瞑想的に、生きている。





海辺を歩いていた。


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わたしは疲れはてていたので、流木の上に寝ころんだ。

そして眠りこんでしまった。

昼寝をほとんどしないわたしにしては、本当に珍しいことで、大きな「誤解」と向き合って、それを受け入れようとして抵抗している自分を相手に、かなり消耗していた。

突然、雨が激しく振ってきた。

慌てて、木陰に逃げ込み、狂ったように波打っている海の水面を、静かな気持ちで見ていた。

・・・・・この状況こそが、まさに「瞑想的」だな、と腑に落ちた。

嵐のように激しい雨と風、そして、滑らかであるはずの水面が、一瞬のすきもないくらい激しく踊り狂っている・・・・・それを、静かな気持ちで、まるで別の世界から見ているかのように、穏やかに観察している。

これが、日常の中での瞑想的に生きる、ということだ。

人間の私がどんなに心が揺れて、泣き叫んで、怒り狂ったとしても、自分自身の「静けさと繋がる場所」で、穏やかに傍観している自分を持つこと。

わたしが伝えたいこと、シェアしたいことは、このテクニックだな、と思う。

ヨーガアーサナや、瞑想の時間や、ムーブメントメディテーションや、カウンセリングセッションの中で、わたしがシェアしたいことは、このテクニックだ。

いまのわたしが、やりたいことは、ここなんだ。

わたしは、いつも、ずっと前から、自分が納得したものしか!しない!、しっくりこないことは絶対にしたくない!・・・という、超頑固者だから、

自分が「これはよい!すごいぞ!」と感動したことは、どんどん、他人にシェアしたいのだ。

そう、自分の経験を、もっともっと、シェアしていきたい。

それを、自分という個性を使って表現していきたいのだな。




深く、深く、納得して、静かな気持ちで雨を感じていた。

狂ったように暴れていた水面が・・・・突然、静かになってきて、雨が少しずつ穏やかになってきた。

わたしは、葉の滴が揺れる木陰の下から抜け出て、ゆっくりと歩き出した。

空気がとても爽やかで、ひんやりと覚醒的だった。

ふと顔を上げると、大きな、大きな、虹が現れた。

虹は、みるみる、濃く、長くなっていき、2重のブリッジとなった。

聖書では、「虹は約束」、神の祝福。

ハートが、大きく開かれた。

私の中の、深い部分と共鳴して、突然、号泣した。

さまざまな「自分に対しての誤解」が、ほどけていった。

自然は偉大だった。

自分のちっぽけな部分をみつめる、傍観者になった。

生きていることが、素晴らしかった。

思いっきり笑って、めちゃくちゃ感動して、怒りや悲しみも味わい尽くして、

そして、また、笑って、踊って、歌って、愛しあって・・・・。

人間だからこそ持ち合わせている、すべての感情を感じ尽くす。

ニンゲン、サイコー!


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虹は、しばらくの間、くっきりと、はっきりと、空に大きく彩っていた。

わたしは、感動で涙が止まらなかった。

あれから数日経ったいまもまだ、ハートが開いて、胸がいっぱいだ。



※2017年は8月11月12月の上旬のみ、日本にて活動します。限られたスペシャルな期間です。ぜひ会いに来てください。

ヨーガ・イベントスケジュール
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/419985203.html

イベント情報
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/420951276.html

カウンセリング・ヒーリングセッション
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/418246610.html

ラクシュミナラヤニ ユキ オリジナルヨーガ 出張クラス承っています。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/451857242.html



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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 16:37| スピリチュアルメッセージのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月24日

(7/24更新)≪一斉ワーク≫時間を外した日・無料ワンネス遠隔ヒーリング



≪一斉ワーク≫時間を外した日・無料ワンネス遠隔ヒーリング
7/25(火)




(7/24更新)
締め切りを延長しました。

≪お申し込み締切≫
2017.7.24 23:00までにお申込み




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時間を外した日・・・・・。

古い一年と新しい一年のあいだの、時間が存在しない日。

時間と空間という概念がなくなる日。



わたしたちは、まったく別々の人間であるというように見えながら、
実は、眼球では見えない、深い部分での源では、ひとつ、なのです。
知らず、知らずに、支えあって、学びあい、
影響を与えあって、生きている。
それは、とても深く、広く、大きく、強く、そして、温かい。
どうしようもないほどの、無条件の愛。
愛を学び、愛に気付く。
神聖であり、宇宙的。


無条件の愛、キリスト意識、宇宙の根源的なエネルギーを、
あなたの、ハートに送らせていただきます。
たとえ、たった「ひとしずく」だけ、あなたに受け取っていただけたのだとしても、
その一滴の波紋は、時間をかけてゆっくりと広がり、
あなたにとって、最適なときに、感じていただけるのだと思います。


このワークをお受けいただくあなたは、なにもしようとせず、なにも意気込まず、
ただただ、身を委ねて、ハートを開いて準備をしていてください。
あなたの準備が整えば、無条件の愛と、宇宙の知性を、受け入れることができます。
それは、強く、大きく、広がりだす、この黄金の光の波の中で、
ゆるやかに、ゆったりと身を委ねているあなたのハートの愛の器に、
無制限に、無条件に、煌きを注ぎ続けます。

受け取ってくださったあなたが、愛に気づきますように。

実施日が間近です。  
ピンときたら、どうぞお申込ください。



この一斉ワークは、どなたでもご参加になれます。

完全に遠隔で行われますので、時間を合わせてなにかする、ということはありませんので、お気軽にどなたでもお申込くださいませ。

※医師から精神疾患と診断されているかたはご相談ください。

どうぞ、ご縁のあるかたがたのお役に立てますように。

合掌

ラクシュミナラヤニ ユキ




******************************



≪ワーク対象者≫
終了後に感想をいただけますかたのみ。



≪ワーク参加費≫
無料
(※ワーク終了後に感想をくださいますかたのみご参加ください)



≪ワーク実施日時≫
2017.7.25 00:00〜24:00のあいだ、ワンネスヒーリングをお送りしておりますので、お好きな時間にわたしに意識を向けて何度でもお受け取りください。 




≪ワークの受けとり方法≫

当日は普段通りの生活をお過ごしください。
お時間がありましたら、何度でも、私に意識を向けてみてくださいませ。
お好みで、瞑想など静かに意識を受けてみてもよいと思います。



≪お申し込み方法≫

◎必要事項  氏名(戸籍上のお名前)、生年月日、ご住所(市町村まで)、メッセージ

このブログ記事のコメント欄に上記の必要事項を書きこむか、(非表示にしてあります)
または、HPの「お問い合わせフォーム」より必要事項を添えてご連絡 → http://yukismyogaism.jimdo.com/
ガラケーからのお申し込みのかたは、直接メールでも結構です。
(恐れ入りますがFACEBOOKのメッセージや口頭でのお申し込みは受け付けができません)


必ず、必要事項をご記入ください。
ご記入がない場合は、きちんとしたチャネリングができないことがあります。
いただいた個人情報は約1週間ほどで安全な方法で削除させていただいております。

※代理でご親族のお申込みをされます方は、申込者おひとりずつ全員の必要事項をご記入ください。

こちらからのご案内や返信は ございませんが、確実に当日ワークを執り行わせていただいております。




≪お申し込み締切≫
2017.7.24 23:00までにお申込み




≪終了後の感想≫
2017.7.31 24:00までに、感想をお送りください。
HPのお問合せフォームよりお願いします。 http://yukismyogaism.jimdo.com/

ワークの感想をくださいましたかたには、読ませていただきましたときに、ヒーリングを無償で送らせていただいております。



★ご注意
ご質問などは、ヒーリングカウンセリングをお受けください。
いただきましたメッセージにはお返事ができませんが、きちんとすべて拝読させていただきまして、読ませていただきました時に、ヒーリングを送らせていただいております。




**********


いただきました個人情報は、守秘義務を厳守させていただきます。ご希望でしたら、受け取った後、メールを削除させていただきますので、その旨お知らせくださいませ。

なお、恐れ入りますが、この一斉ヒーリングについての質問などは、メールや直接、どちらも受け付けておりません。

個人的な問題についてのご相談は、別途、ヒーリングカウンセリングなど、をお受けいただくことをお勧めします。

この愛の遠隔エネルギーワークは、あなたの体調を悪くさせたり、悪い出来事を起こしたりするものではありません。

あなたの魂にとって、なにか悪い変化が起こることはありません。

また、心を開いていただくと、より受け取りやすくなります。

100%の善意と、愛をこめて、行わせていただきます。


※ご質問メールへの返信はできませんが、当日はきちんと高次元ワークをさせていただいていますので、どうぞ楽しんでお受け取りくださいね。



posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 13:18| Comment(0) | 一斉エネルギーワーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月22日

ディナー・インザ・ダーク



ドイツで、ディナー・インザ・ダークという催しに参加しました。

真っ暗闇の中で、ディナーのコースをいただくという企画です。

日本でやっている、ダイローグインザダークのディナー版ですね。



本当に、真っ暗闇でした。

真っ暗な時って、自然と、目をめいっぱい大きく見開いている、自分に気づきました。

そして、視覚からの情報が得られない分、ほかの感覚で感じ取ろうとしているのがとてもよくわかりました。



まるで、スウェッドロッヂの中みたいだな、というのが第一印象。

スウェッドロッヂは、ネイティブアメリカンの祈りの儀式の一つです。

わたしの大好きな儀式なので、チャンスがあるたびに参加します。

その儀式も真っ暗闇の中で行うので、ものすごくいろいろな感覚が冴えてきます。



人間の外側からの情報を収集する感覚の中で、80%は視覚からの情報で、わたしたちはいろいろと判断しているのだそう。

その、ほとんどの割合を占める視覚を遮断することによって、ほかの眠っていた感性が目覚めてくる。



目で見えない分、すごく意識的に体を使って、フォークとナイフを探したり、

こぼさないように水を注いだり、パンの感触で種類を判断したり、

普段なら、なにも考えずにする行動を、本当に意識的に行いました。

自然と動きもゆっくりになって、思考もゆっくりになり、とても、瞑想的な時間を過ごしました。

これは、わたしが、意識的にヨーガアーサナを行うときや、意識的なダンス瞑想を行う時と同じ感覚だな、と感じました。

なんであれ、どんな行動であれ、意識的に行うことは瞑想になりうるということ。

体の内側から感じようとすると、それは、瞑想的になるということですね。

素晴らしい体験でした。

今回の体験は、これからの自分の活動にも、つながっていくと思います。






posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 16:01| 自分の感性とのデート☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

(17日目)100日間の祈りの舞 シェアリング 「正しさ」




(17日目)100日間の祈りの舞 シェアリング「正しさ」

始めた経緯や、コンセプトなどは、こちらの記事に書いてあります。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/451545134.html



******************


木漏れ日の森。

おひさまの温もりと、背の高い木々が作りだすシャドーのひんやり感を、

肌と視覚で交互に楽しんで歩く。



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ふかふかの土、鳥のさえずり、虫たちが様子を伺いに来る、

思いっきり深呼吸したくなる森の香り。

ここは、ドイツ・リューゲン島の世界遺産の森。





ふと、呼び止められた気がして振り返ったら、木々がこちらを見てニコニコ笑っていた。

ありのままで許され、守られ、輝いているエネルギーが、キラキラだった。

(画像は無修正です)

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**************



この数日、わたしはとても濃くて、深い、気づきの日々を過ごしている。

「わたし」が「わたし」として、生まれてきたことを、さらに深く、深く、理解していっている。

心が揺さぶられるような出来事が、いくつも起こり、それを静かな自分とつながりながら冷静にみつめる。

毎日、その自分の感情と感性とともに踊り、アーサナをし、瞑想をしている。

ドイツに滞在しているというのに、日本や、日本人とのあいだや、日本文化とのあいだで起こるあれこれの問題と、ガッツリ、向き合っている毎日。






「正しさ」を、強く持つことは、自分自身を不自由にしていることなのだ。

「正しい」と思うことを、貫けば、貫くほど、重たい箱の中にグイグイ押し込んで、がんじがらめに鎖を巻いて、頑丈なカギをかけている。

結局「正しさ」なんて存在しない。

わたしにとっての「正しさ」は、誰かにとっての「間違い」だろう。

ひとそれぞれ、「正しさの定義」が違うのだ。

自分にとっての正しさを主張することは、他の誰かにとっての正しさを否定していることと等しい。




真理は、コロコロ変わらないはず。

でも「正しさ」は人それぞれ、変化する。

ということは、この世には「正しさ」というきちんとした存在すら、ないということ。

たとえていうなら、

「波」というものは個として存在しない。

「波」という現象として、浮かんでは消え、現れては沈んでいく。

わたしたちは「波」という存在しないものを、ただの現象として、個性を持たせて認識しているだけ。

「波」は、そのものとして、ある一定のかたちでは存在しないが、わたしたちにとっては「波」は「動き」として存在する。

わたしの人生にとっての「正しさ」も、波と同じなのかもしれない。

存在はしないが、動きとして個性を持たせることはある、という意味では。



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わたしにとっての常識は、他人にとっての非常識のこともある。

家庭によって、「当然のこと」がまったく違う。

また、お国が違えば、世間の常識は、まったく変わってくる。

世界は一つだというのに、「正しい」とされることは、状況によって変わる。

ということは、

本当の意味で「正しさの定義」など、存在しない。

生きやすくなるために身につけたのであろう、一時的な洋服みたいなもの。

成長したり、好みが変わったら洋服も変えていくように、

「正しさの定義」も、頻繁に見直しが必要だな、と強く感じる。


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わたしたちはそんな「存在しないもの」に、自由を奪われ、他人をジャッジし、自分の感情に振り回され、

幻である「自分にとっての正しさ」を理想にして、周りを変えようとしている。

自分の「正しさ」と合わないものは、全部、偽物だ!と裁いている。

そして、自分は正しいのだ!と、周りに認めてもらいたくなる。

その「正しさ」など、本当は存在しないというのに。



ここ数日で、私の中から現れた、たくさんの「正しさの定義」があった。

どれもこれも、これまでの過去での生活の中で、とても貴重な智慧だったし、

私自身の成長に大きくつながっていたし、その時その時にとって、本当に素晴らしいギフトだった。

でも、わたしが大きくなっていくとともに脱ぎ捨てていこう。

もちろん、感謝しているし、お世話になったし、成長させてもらったし、世界が広がったし、自分が深まった。

でも、ずっとそれを使い続けていたら、大きくなったわたしには窮屈だし、着古したものは二度と新しい感性を目覚めさせることはない。

ずっと身につけていたから、もうすでに、持ち続けていることさえも気づかないものかもしれない。

すでに自分の一部になっているものかもしれない。

だから、脱ぎ捨てるのにはかなり勇気が必要だ。

でも、脱がないと大きくなれない。

永遠に着古して窮屈なものと過ごしていく。

過去の「正しさ」は、今のわたしには、もはや、「正しさ」ではないというのに。



そんなことを、学んでいる、ドイツ・リューゲン島での生活。

ヨーガアーサナと、自由なダンスで瞑想をする日々。

身体を使いながら瞑想すること = 肉体に張りついているブロックを動かしながら瞑想することで、たくさんの気づきがある。





★ヒーリングセッション承っています。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/418246610.html

★ラクシュミナラヤニ ユキ オリジナルヨーガ 出張クラス承っています。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/451857242.html


(7/21更新)
わたしが開催するムーブメント瞑想に関わるセラピーWS

★東京  http://yukismyogaism.seesaa.net/article/450904803.html
8/17(木)14:00〜 あなたの魅力開花のWS クリスタルボウル奏者・ヒーラー 滝本真理さんとのコラボ


★軽井沢 http://yukismyogaism.seesaa.net/article/451171870.html
8/2(水)14:00〜 サウンドセラピー 自然周波数の奏者 woody mojarさんとのコラボ

8/22(火)15:00〜 ムーブメントメディテーション〜身体を解放し、感性を輝かせる〜 ショートバージョン  ラクシュミナラヤニ ユキの個性全開のソロ企画! 



★山梨県
8/26(土)13:30〜 ムーブメントメディテーション〜身体を解放し、感性を輝かせる〜  たっぷりロングバージョン ラクシュミナラヤニ ユキの個性全開のソロ企画! 
詳細は後ほど。


★バリリトリート  http://yukismyogaism.seesaa.net/article/450862473.html
12/14〜19 バリ島ウブドリトリートツアー クリスタルボウル奏者・ヒーラー 滝本真理さんとのコラボ



posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 01:05| ムーブメントメディスン・シャーマニックダンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月16日

オリジナルヨーガのご案内



ラクシュミナラヤニ ユキの 
オリジナルヨーガ のご案内




※日本全国、世界各国、リクエストをいただきましたところに出張させていただくスタイルで活動をしております。
豊富な経験から、対象者を問わず、イベントやヨーガクラス、瞑想会など、柔軟にアレンジできますので、さまざまなご相談に応じる準備が整っております。
どうぞ、お声をお聞かせくださいませ。
お問い合わせはHPのお問合せフォームより。 http://yukismyogaism.jimdo.com/




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ラクシュミナラヤニ ユキの提供するアーサナクラスは、「ヨーガ=繋げる」という概念で、自分という存在を「インサイト」していく、「経験のヨーガ」です。

クラスの中では、肉体(アーサナ)と呼吸(プラナヤマ)というツールを使って、どのようにして「本来の自分」を理解していくのか・・・・という「経験」をしていきます。

ポーズの完成度にこだわるのではなく、あなたの身体がどのように感じているのか、をしっかりと受け取っていきます。

できる・できない、善い・悪い、他者と比べての優劣、または自分の理想と比べての優劣、などの二元性であるジャッジメントを手放し、

あるがままの自分での立ち位置を認め、それをポジティブにみつめていくことで、身体・心・魂のバランスをとっていきます。

アーサナは決して、追いこんだり、力づくで変えようとしたり、期待や理想に近づけようと無理をしたりするものではなく、

いまのあなたの体の状態を、常に尊重して、身体と心の声を聞いていく時間です。

瞬間、瞬間を、丁寧に過ごしていくことで、外側に向いた意識を内側に転じていき、自己理解を深めていきます。




私たちが日常で感じている身体と心の不調は、ゆっくりと少しずつあなたにとっての「アンバランスな状態」に向かっていることから引き起こされるとも言えるでしょう。

バランスの乱れを正したいと願うのならば、まずは、いまどのような状態で、どのようにバランスが乱れているのかを知らなければ正すことはできません。

そして、

その、どのようにバランスが崩れているのか・・・・、ということを知るためには、まずは、自分自身の「自然なバランス」を知らなければ、乱れた状態に気づくことも難しいでしょう。

「ハズレ」に気づくためには、まずは「アタリ」を知らなければ不可能だ、ということですね。

さらには、

意識が外側に向いている状態では、「自分の自然なバランス」を感じることは難しいですから、

自分自身を理解するために、まずは、最初の一歩として、自分としっかりと向き合うこと・・・インサイトすることが必要です。

それを、ヨーガを通して、あなたの肉体と感性から感じとっていきます。





わたしたちがバランスを崩す原因として考えられることのひとつに、「自分のスピード・リズムで生きていくことが難しい」という生活があります。

競争社会での過度なプレッシャーや、常に他人と自分を比較していたり、納得のいかないルールや腑に落ちない決まり事に従わざるを得ない生活など、

現代社会で生きていると「自分のペース」が尊重されないことが多く、そうなるともはや、「自分のペース」を忘れていってしまいがちです。

または、

親の言うことを聞く、社会のしきたりに従う、教師の言ったことをそのまま実践する、過去の偉人たちや成功者たちの経験を真似する・・・・・など、

誰かから「これが正しい」と教えられたことを信じて、その通りに実行しようとすることは上手になっていくかもしれないけれど、

でも、ほかの誰かが経験した体験談を目指してしまうことで、自分オリジナルな「経験を開拓する」という貴重な機会を失っているのだともいえます。

誰か・何かの智慧に従って生きることで、いざ「本来の自分はどう考えているのか」というところにフォーカスをすると、中心が定まらず、わからなくなってしまうこともあるのではないでしょうか。

こんなふうに、子供のころからわたしたちは、「自分がどうしたいか」をないがしろにして、周りに従うことを強要されがちになります。

こういった状況の中で、

わたしたちは、どんどん、「自分本来の自然のリズム」から遠ざかり、そして、さらには、自分の道を見失っていってしまい、本来の自然な自分がわからなくなっていってしまいます。




一番身近な「自然」であるところの、自分との繋がりを取り戻すこと・・・・それが、わたしがアーサナを通して提供したい「ヨーガ=繋がり」です。

アーサナでは、理想のポーズに近づけるために競争をする必要はなく、マインドで肉体をコントロールしようとするのではなく、身体本来の自然な声に耳を傾けていきます。

身体がなにを語り、なにを居心地が良いと感じて、それを、心でどう受け取っているのか・・・・・を、受け入れていきます。

そうすることで、これまでルールに従うことで見失いがちになっていた「自分本来の感性」に、アプローチしていくことができ、

すると、徐々にバランスが整い、身体も心も、あなた本来の「自然」に戻っていく方向へと向くでしょう。



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アーサナは、身体の形を変えるため・・・・身体機能を向上させるための、ただ単なるエクササイズではなく、

肉体を使って行う、ある意味「瞑想」といえます。

瞑想は、自分自身の「静けさ」の部分との繋がりを想いださせてくれる働きがあります。

もちろん、アーサナは筋肉と関節を大きく使っていきますので、きちんと継続していけばもちろん、結果的に身体の形は変わっていきますし、結果的に身体はどんどん健康になっていくでしょう。

でも、それは、エクササイズで理想の身体を作りたいという欲であるところの、「外側からの目線」を意識した目的がメインになってしまうと、途端にジャッジメントが始まり、

残念なことに、瞑想で得られるであろう「静けさ」との繋がりからは、遠ざかってしまうのです。

バランスが崩れる原因である「善い・悪い」のジャッジメントの枠の中でアーサナを行っても、同じことの繰り返しで、そこから解放されることはない、ということですね。

ヨーガは、肉体と、精神と、魂の調和をとっていくもの。

外側に向いている意識を内側に向け、インサイトしていくことで、あなたの心の静けと繋がり、本来の「穏やかさ」へと結ばれることで、それに伴い、肉体が健やかに生き生きと蘇っていくでしょう。

どのように意識を内側に向けていくのか・・・・・を、わたしのヨーガの中で、ぜひ感じてください。

初心者でも、上級者でも、性別や年齢、身体の不具合で難しい動きがあるかたも、どなたでもご参加いただけます。

長い指導歴と、世界各国での指導経験、知識と経験豊富なラクシュミナラヤニ ユキの唯一無二のヨーガを感じにぜひお越しください。



※日本全国、世界各国、リクエストをいただきましたところに出張させていただくスタイルで活動をしております。
豊富な経験から、対象者を問わず、イベントやヨーガクラス、瞑想会など、柔軟にアレンジできますので、さまざまなご相談に応じる準備が整っております。
どうぞ、お声をお聞かせくださいませ。
お問い合わせはHPのお問合せフォームより。 http://yukismyogaism.jimdo.com/



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いただいたリトリートの感想




2017年6/17-18に行いました、

「エレメンタルジャーニー 〜4人のアルケミストと行く胎内回帰と癒しの旅〜」

リトリート終了後にいただきました感想を、許可を得て掲載せていただきます。



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心身ともに少し軽くなったねと話しています。

食事を作ってくれた方にいろいろ教えていただいてきたので少しづつトライしてみます。

4人の皆様には 準備から当日の運営まで本当にありがとうございました。

感謝を込めて



*リトリートに向かう車に乗る前のフロントガラスについた雨粒が朝日に輝いてとてもきれいでした。

ピラミッドセンターにつくとてんとう虫がいて、河原では美しい日の光を見て、翌日の朝は四つ葉のクローバーを見つけて周りのすべてが喜んでいてくれているようで、私の魂は参加してよろこんでいるんだとずっと感じていました。

センターの中でふと見上げた天窓からお日様が見えた時、無性にうれしかったのを覚えています

真実の愛・・・天や大地のように、自分が好きとか嫌い 心地いいとかそうでないとかを超えたところでただ愛するということ・・・

今の私にはまだとても難しい課題です
まだ自分自身を愛しきれていないと感じていました。

歌詞の中にあった
「愛することをちゃんと知るために私はここに来た」
「愛することをしること」
「君の中に神がいることを気づいてくれるのを待っている」

これらの言葉たちを聞かせていただきに行ったような気もしています。
素晴らしいメッセージだったと思います。
ありがとうございます


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***********************


「シェア」することの大切さを感じております
自分が、どう感じ…どう受けとめたり、受け入れているのか…を
頭の中で考える(思う)のと、言葉にすることの、違い?を、
言葉にしながら(声に出しながら!?)同時に感じている?
…自分をみている?(感じている?)???…
を、楽しんでおりま〜す
&これから?いろいろある変化も楽しんでいけたらと思っております

*どんどん…開放されていっている感じです
表面の変化というか?…みえないところの変化を楽しみにしておりま〜す


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エレメンタルジャーニーリトリートありがとうございました!
そしてお疲れさまでした〜。

とってもとってもと〜〜っても貴重な体験ができました♪♪
もう4人の魔法使いに翻弄されっぱなしでした笑
今はさらに常に心が満たされてることをビンビン感じております♡

どれも印象深いのですが…
ピラミッド地下での真っ裸での瞑想がたまらなく最高でした!!
電気が消え真っ暗になった瞬間、なぜか号泣していました。
胎児のときの記憶なのか…よくわかりませんが
なぜ、私はこのお腹の中に入ったのだろ〜
なんて冷たい子宮なんだ。
と後悔した私がいました。

と、同時にこの冷たい子宮でお母さんは強く大切に大切に私を育ててくれたのか〜と感じたら
また号泣していました。(部屋は寒かったですがまたその寒さとは違う感覚でした。)
とてもとても不思議な体験でした。

最初の瞑想のときにも私がどこからか地球に来ている映像?妄想?が見えました。
これまた不思議な感覚でした。

もうどれを取っても最高で最高でシアワセでシアワセで〜♡
思い返す度にあのリトリートは幻だったのでは?
パラレルワールドだったりして?!
と思い過ごしています。

ユキさんの優しくもパワフルな瞑想のガイド
モジャさんのどこまでも癒しの音色
八木さんの不思議なオーラ全開魔法のパワー
マナちゃんの愛がたっぷり包容力のあるハーブティー

どれをとっても愛ばかり〜♡♡♡
そして、夏至の前に貴重な体験ができて良かったなぁ〜と
心からホントに感じます。

私の弱さがどんどん出て
ただ向き合うしかなく
とことん向き合って
ただ、耐えるだけの時もあったけども

リトリートで身体と心の解放の仕方を経験し
自分を癒し見つめることができて感動でした。

昨日の夏至は雨でしたが
私はその雨がとても癒しの雨に感じ
何かがスーっと溶け込むような
馴染むような
あぁ〜私は私でいいんだ〜と雨に癒してもらいました。
きっとこれもリトリートに参加できたから感じられたことだと思います。

本当はもっと早くお礼の言葉を伝えたかったのですが
しばらく身体が重く頭も回らず
今になってしまいました。

素敵なリトリートを開催して頂きありがとうございました♡♡♡
愛を込めて…
感謝です



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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 04:36| 皆様からの感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

(詩)宇宙への招待状



大空に、黄金のドラゴンが現れた、その夜。

わたしは、宇宙にいた。

わたしがそこで経験したことは、

「絶対的なアロンネス(独り)」だった。



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「独りでいること」 と 「孤独感」 は、まったく違う。



「アロンネス(独り)」は、すべてと溶け合って、ひとつになっているときに、

本当の意味で感じることができる。

すべてとは「すべて」だ。

完全なる愛そのものの状態でいるときに、

すべてと一体なのだということが理解できる。

そして、この世界にはなにもないということがわかる。

「なにもない」ということは、「愛だけが存在する」と言い換えられる。

そしてそれは、「絶対的なアロンネス(独り)」なのだ。



わたしは、宇宙を見ていた。

そのわたしは、まさに、宇宙そのものだった。

それは、だれが何と言おうと、間違いのない「真実」だった。




地球に戻ってから、人間同士の中から発生する、くるくると目まぐるしいさまざまな感情と、心の色とりどりの彩りの中で、

「地球でのわたし」・・・・・というものを知った。

なるほど。

「地球でのわたし」は、愛すべき価値ある未成熟者であり、不完全なままであることで、すべてが完全で完璧な「曼荼羅」を形作っていた。

それを、「宇宙のわたし」が、すべてみていたし、

すべては、承知の上だった。




「宇宙のわたし」目線で見た、「地球のわたし」は、

痛快でドラマティックな演劇に過ぎない。

笑っちゃう。

結局、そういうことだ。

深刻になる、必要なんか、どこにもない。

笑っちゃう、これは。 力んで、力入れて生きても、仕方ない。 

「地球のわたし」のドラマの、ひとりのファンになろうじゃないか。

応援しているから、大いに演じたまえ、「地球のわたし」よ!





posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 20:15| 詩的なもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

(8日目)100日間の祈りの舞 シェアリング



(8日目)100日間の祈りの舞 シェアリング
始めた経緯や、コンセプトなどは、こちらの記事に書いてあります。
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/451545134.html


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気になる感情があった。

昨日の夜まで満足だったのに、朝起きて、なんてことない出来事から、突然、わたしは満たされない感情に陥った。

目の前にいる、パートナーに、なにか、訴えたい気持ちでいっぱいだったけれど、

なにを訴えたらいいのかわからず、ただ、不機嫌な態度を取ってしまっていた。

そんな自分を、客観的に見ていたし、こんなわたしの気分の波を、この人に向けてぶつけても仕方がない・・・とわかっていながらも、

引き続き、不機嫌で、寂し気な、独りよがりな態度を塗り替えることができず、悶々としたまま、どよーんとした空気のまま、そんな自分を感じていた。




どうしたというのか、わたしは、突然。

昨夜までは、とても満ち足りた気分でいたのに・・・・・・。

わたしは、なにが気に食わないのか・・・・・私の中でなにが起こってるのか・・・・さっぱりわからなかった。

でも、こうして、寂しくなったり、意味もなく悲しくなったり、急に不機嫌になったりする自分は、幸せではない。

こんな自分は、幸せとは、程遠い・・・・ということは、確実にわかった。

だから、スイッチを切り変えるべきだし、それ以外に方法はない。

パートナーのせいではない。 

周りのせいにするのは、それは、決して、平和ではないし、まったく間違ってる。

私の中にある「なにか」がただ反応しているだけだから、それを切り替えるためには、とことん、それと向き合ってみる必要がある。

投げ出さずに・・・・・ま、いっか〜!、と後回しにせずに、こうして浮上してきたその時々で、向き合ってみる必要がある。

そうしないと、もう、次にいつ浮上してくるかわからないから。

次に浮上してきたときは、今回、押し込めてしまった分だけ、きっと、もっと厄介になってしまうだろう。

いま、浮上してきたということ、そして、それを「自分の中のなにかが浮上してきたのだ」と認めていることは、いまがそのときだということ。




わたしは、その、目の前のこの人に投影して見ている、わたしの中に潜んでいる「もの」が、現れ出ている「感情」と「痛み」とともに、ひとりで祈りの舞を踊った。

踊り初めてすぐに、なにかが私の中で動いた。

「寂しい」「愛されていないのかも」「孤独感」

胸がいっぱいになった。

少し苦しくて、もう、踊る気持ちになれなくて、寝転がった。

でも、踊り続けるべきだ・・・・、身体の細胞レベルで記憶している、このネガティブな感情と反応を、感じ尽くしたい・・・・

「わたし」という人間と、その人生を、そのすべてを感じ尽くしたい。

仰向けに寝転がったまま、しばらく、腕と足だけで、踊った。

べつに、寝っ転がって踊ったっていいんだ。

自分の気持ちのままに自由にやればいい。 

とても、気持ちがよかった。

さまざまな自分と向き合いながら、わたしは寛いで踊っていた。

その、湧き上がってくる感情と一緒に、柔らかに踊っていた。




すこしして、

また、再び、立ちあがる勇気が湧いてきて、わたしは、身体をお越しまた全身で踊った。

無理に自分を奮い立たせることもなく、変に自己憐憫に陥ることもなく、

ただ、淡々と、ただただ、淡々と、踊り続けた。

それは、瞑想だった。

プロセスが進んでいった。

どんどん、感じていた感情や、マインドの反応が変化していく。

そして、謎解き問題に向きあっているように、するすると、「わけがわからない」と感じていたことが、紐とかれていった。

それは、頭ではなくて、ハートで感じるものだった。

どんな感情も、反応も、とにかく、すべては、「愛」につながっていた。




肉体は、本当に、なんでも知っている。

すべてを、記憶している。

わたしたちのマインドで、見当もつかないことを、すべて蓄積して、記憶して、

その肉体を、自由に、なすがままに動かしながら内観することで、解放が起こる。

身体がしたいようにさせる、自由な踊り。

上手に踊る必要もないし、ジャッジする人も誰もいない。






わたしが自由に踊りながら受け取ったのは、子供のころの感情。

忘れていた記憶。

封じ込めていた欲求。

塗り替えてしまっていた事実。

その、チグハグになっていたあれこれを、大人になった現代のいま、近しい人に投影していること。

とくに、パートナーには、親にしてもらいたかった投影を、がっつり、べったり、しているもの。

これは、わたしだけではなく、すべての人に言えること。

あなたも、そうやって、投影しているんです。 気づかないだけで。

自分の内面の反映だから、それを相手のせいにして文句言っていたら、なんの成長もない。

だから、それに、気づかせてくれる存在は、ありがたい。

気づかせてくれる存在がいて、きちんと内観できる自分で在るようにすると、パートナーシップのあいだに不満や不平は現れなくなる。

その、不満や不平は、きちんと内観すれば、すべて自分への癒しにつながり、そうすると、すべては好転する。




先日の、それは、

すごい大きな、大きな、気づきだった。

肉体ってすごい。

身体を動かしながら瞑想するって、ものすごいパワフルだ。




身体が止まりたくなって、もう、これで今日は終了!と、身体が感じるまで踊り続けた。

そのあとは、新しく気づいた、古い自分に、感動なのか、感謝なのか、悲しいのか、なんなのかわからないけれど、

涙が、あとからあとから、流れ続けた。

そして、その翌日の踊りは、

前日に発生した気づきとともに、新たに気づいた、いままで知らなかった父親とともに踊った。

その父親に対して、抱いていた自分の想いとともに、踊った。

素晴らしいプロセスだった。

本当に、素晴らしいプロセスだった。






今回の祈りの舞のテーマである、

人間関係の中で、投影している自分の感情や、反応とともに踊る・・・・・と思いついたのは、本当に正解だった。

わたしにとって、最高の内観方法だし、最善の魂の向上だし、人間としての成長にとても大きな助けになると、改めて実感した。

こうして内観してみると、人間関係の歪みや、行き違いも、まったく怖くない。

すべては、自分の内側の反映だから。




すごいなぁ。

去年までのわたしでは、できないプロセスだ。

いまのわたしだからこそ、できるんだな。

日々、進化しているんだな。

すべて、繋がって、流れに乗っている、すべてのご縁に、心から感謝している。

そして、今日からも、わたしは、誰かにしているわたしの「投影・シャドウ」とともに、

愛と勇気をもって、踊るんだ。

なんて、楽しいんだろう。

最高の気分。 みんなに教えてあげたい。

人生を学ぶって、なんて素晴らしいんだ。



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★パートナーシップに関わるカウンセリングセッション承っています。
(恋人との関係、恋人ができない、配偶者との不和、セックスレス、セックスへの不満、親子関係の不和、仕事での人間関係、友人との不調和、などなど・・・)
http://yukismyogaism.seesaa.net/article/418246610.html


(7/12更新)
わたしが開催するムーブメント瞑想に関わるセラピーWS

★東京  http://yukismyogaism.seesaa.net/article/450904803.html
8/17(木)14:00〜 あなたの魅力開花のWS クリスタルボウル奏者・ヒーラー 滝本真理さんとのコラボ


★軽井沢 http://yukismyogaism.seesaa.net/article/451171870.html
8/2(水)14:00〜 サウンドセラピー 自然周波数の奏者 woody mojarさんとのコラボ
8/22(火)14:00〜 ムーブメントセラピー 民族打楽器奏者 小和田孝さんとのコラボ


★山梨県
8/26(土)13:30〜 ムーブメントセラピー〜身体を解放し、感性を輝かせる〜  ラクシュミナラヤニ ユキの個性全開のソロ企画! 
詳細は後ほど。


★バリリトリート  http://yukismyogaism.seesaa.net/article/450862473.html
12/14〜19 バリ島ウブドリトリートツアー クリスタルボウル奏者・ヒーラー 滝本真理さんとのコラボ



posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 21:03| ムーブメントメディスン・シャーマニックダンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

下着を外した理由



最近のわたしは、できるだけ下着をつけないようして生活をしてる。

下着をつけない生活・・・・・・まず、強く伝えることができるのが

「めちゃくちゃ、快適!!!!!」なんですよ、これ。



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最近ね、

当たり前のように、普通に生活でやっている、いわゆる「習慣」を見直しているところです。

自動的に、「そういうもの」として、自然と自分の生活の一部になっている「習慣」を、本当にそれが必要なのか?・・・・それがないと生きて行けないのか?・・・それがない生活って、どんななんだろう?・・・・とみなおしています。

すると、疑問点や、不思議感や、腑に落ちない感が、いっぱいなの!

なにも考えずにいままでやっていたけれど、「生きている自分」というところに、きちんと目を向けた時に、いまのわたしにとって、必要ないもの、納得いかないものは、しなくてもいいな、と思っています。

それは、親や、先生や、社会から教えられたから、これまで、何も考えずに、ただ従ってきたものだったけれど、いまの自分にとって、本当にそれが「心地よいのか?」と、改めて自分に問いたところで、出てきた答えで、生きていきたいのです。


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そして、下着について、疑問を抱き始めました。

そもそも、なぜ、下着をつけなければいけないのか?

ちょっと、考えてみました。

なんで? なんでだろう?

まず、ブラジャー → 乳が垂れるから?(笑)

でも、ブラジャーしても、どうせ垂れるよね? ははは

年取れば、仕方ないことだよね。

それは、老いることが、美しくない・・・・と勝手に決め込んでいる、思いこみだよね。




そして、ショーツ。

生理の時は、着用するのは仕方がないね。

でも、昔の着物時代の日本人は、生理の時もショーツは履いてなかったんだよね。

現代人は、経血のコントロールが難しいから、ショーツ使用するのは仕方がないね。

でも、生理以外の日は、なんで履いているの?

バイキンが入るから? ははは、本当かな、そんなこと、この清潔な現代社会に。 

インドの田舎じゃあるまいし。

日本では、コンビニのトイレにも除菌とウォシュレットがついてるっていうのに。


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下着について、疑問に思ったきっかけは、ヨーロッパ人のある男性から

「女性のブラジャーは、まるで牢獄みたいだ。 居心地悪くないの? 僕は賛成しないんだよね。」

と、言われたたことでした。

ビックリしました。

その発言にもビックリだけど、わたしの男性というものの概念とも違って、ビックリ。

全然、下心も、いやらしい気持ちも、なんにもなくて、さりげない日常でボソッとつぶやいた言葉でしたから、その人の本音なんでしょう。

本当に、ビックリ。

わたし、いままで、男性はみんな、バストの大きい人が好きなんだと思っていた。

だから、ブラジャーの魔法でキレイに見えるバストのことが、みんな、好きなんだと思ってた。

ずっと、そう思ってたし、ずっと、そういう男性ばかりがまわりにいた。





そして、考えたのですね。

なんで、ブラジャーするんだろう?

わたし別に、将来、乳が垂れるから・・・・とか、そういうのまったく気にしてないです(笑)

じゃあ、なんでだろう?

休みの日とか、リラックスムードのときは、ブラ、つけないで過ごすこともありますよね。

すると、とっても脱力できて快適なのに、どうして、わざわざ、快適じゃないことをしているんだろう?

なんでだろう?

うん、わたしにとっては・・・

胸の形がきれいに見えるから・・・・っていうのが、一番、大きい理由だと気づきました。

バストが豊かに見えたほうが、なんだか気分がいいから・・・・って理由が大きかったな。

とくにいまヨーロッパにいると、バスト大きい人が多いから、なんだか日本人サイズの自分が恥ずかしいような・・・。

なんで、バストが大きく見えたほうがいいのか・・・・?

それは、男性目線で見た時に、そのほうが「キレイ」って思われそう・・・・だからですね。

だって女性的には、小さくても、大きくても、どっちでも関係なく生きて行けれるもんね。

社会的にも、バストの大きい女性のことが好きな男性が多いし、それだけで、男性は盛り上がっちゃうかたが多いから、女性もそれに合わせて、「愛されたい!」という意識から、よりバストを美しく見せようとするのかもしれない。

そういえば、確かに、これまでの関わった男性は、バストが大きいほうが盛り上がっている男性がほとんどでした。

特に、日本人男性は露骨にその傾向があると感じます。

だから、女性はボリュームアップのブラとか、つけちゃうんですよね。

「愛されたい」という意識が、根底にあるんですよね。

バストが大きいほうが愛されるだろう、って勘違いしちゃう。

でも、ボリュームアップの偽物パッドが入ったブラジャーを外したら、いつものサイズに戻っちゃうから、そうなると、愛されないのか?

そんなの、おかしいよなぁ。

バストが大きかろうと、小さかろうと、わたしは、わたし。

本当の意味で愛されたい女性は、どんな姿かたちの自分でも、愛してくれる男性を、選ぶべし!

ということで、最近、わたしは、窮屈なブラジャーをできるだけ外して、ゆるゆるなブラ・・・または、ノーブラで暮らしています。

乳首が服の上から見えてしまう服装の時は仕方がないので着用しますが(でもヨーロッパだと乳首見えてもみんな気にしてないんだけどね)、それでも、ホックやワイヤーで締め付けない、布製のブラをできるだけ使います。 

それは、パッドの入っていない、三角ビキニみたいな感じなので、バストの形なんて、ぺったんこになっちゃうけど、

締め付けたり、厚いパッドが入っていたり、きついワイヤーが入っているブラに比べたら、断然、ダンゼン、だんぜーーーーん! めちゃくちゃ快適です!!!!!!

そして、

いま思うのは、「キレイに見せたい。男性に愛されたい」みたいな、媚びるかのような、間違った「美意識」からも解放されて、

すっごい、すっごい、快適です!!!!!

ブラに関して、わたしにとっては、かなり、この「バストの形をキレイに見せたい」という気持ちから着用していた、ということに気づきました。

そして、それは、「キレイと思われたい」というところにつながり、

そこには「愛されたい」という意識が潜んでいることに気づいた、という結論に達しました。

でも、そんなふうに愛されても、それは、本当の意味で愛されてるわけじゃないよね。

だったら、必要ないね。



********


そして、ショーツ。

こちらに関しては、本当に、疑問でした。

とくに、モモの付け根のそけい部のあたりがショーツで締め付けられて居心地悪いし、おへその下のあたりにゴムの線がつくし、よいことがあまりないです。

化学繊維のショーツはデリケート肌な私はかぶれてしまうので、できるだけコットン100%のショーツを選びますし、最近は、ふんどしっぽい形のゆるパンを使用し始めました。でも、それだと、かわいいデザインが少ないのよね。

でも、なんで、そこまでして、ショーツ履かなきゃいけないの?

生理の時のことは、置いといたとして・・・・・

このショーツについては、意味がわかりません。 なんでだろう????

着物時代の人たちは、履いてなかったんでしょ?

じゃあ、いつから履くようになったんだろう? そして、なんのために???

誰が、決めたんだろう??

意味がわからないので、まず、やってみよう!・・・と、一度、ショーツを履くのをやめてみました。

そしたら、これが、快適で、快適で!!!

ロングスカートの時なんかは、ショーツ無しでも、全然OKですよね。 誰も気づかない。

ふわっとしたパンツの時なんかも、ショーツ無しでも大丈夫。

そして、寝る時なんかは、ショーツなんか履かないでも、まったく問題ないですよね。

めっちゃくちゃ、快適ですよ!!!




わたしは、森で裸になって踊ったりすることがあります。

誰もいなければ、川で、裸で沐浴したりすることも好きです。

そういう時に思うのですが、洋服は「社会」ですよね。

わたしたちは、社会を着こんでる。

着る服によって、その人の印象が変わるし、立場も変わってくるかもしれない。

セクシーな服を着れば女らしく見えるし、工事現場みたいな服を着れば、まるで女性らしさは見えなくなるし、カチッとしたスーツを着ればお堅く見えて、ゆるっとしたヒッピー服を着れば反社会的だと見えるかもしれない、聖者っぽい宗教的な服装をすればそう見えるし、ボロボロの真っ黒な服を着てればホームレスに見えるのかもしれない。

その人間自体は、なんにも変わらないのに、洋服が変わるだけで「社会性」が変わるんですね。

大自然の森の中で、その「社会」である洋服を脱ぎ捨てて、すべての部分の肌を太陽にさらして、風を感じる時の解放感ったら、すごいですよ!!!!

そして、その「社会」であるところの「洋服」の、最後の砦が「下着」です。

昔、初めて、森で裸になろう!と決心した時。

洋服は脱げても、下着はなかなか、脱げませんでした。

一番最初は、結局、下着は脱げずに諦めた記憶があります。(いまは軽々、脱いじゃいます!)

それだけ、頑なに、へばりついている「こうあるべき!」という概念=「社会」が、わたしに憑りついているんだな、と感じました。

丸裸で、生きたいな〜〜。


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:20| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

(詩)泣いてもいいんだよ



呼吸を止めて 唇をかみしめて 

顔を歪めている キミ



ギュッと こぶしを握り締めて

キミは ふいに空を見上げ

次の言葉を 呑み込んでいる 



目を閉じた キミの唇が 細かく 微かに震えている

胸の奥からこみあげてくるものを

喉のあたりで 押し殺している
 


我慢しなくて いいんだよ

好きなだけ 泣いたらいい




「泣いてはいけない、泣かないほうがいい」

そう 言い聞かせている キミの心の声が聞こえる





きっと キミは 「泣いてはいけない」・・・と どこかで学んだんだね

「泣かないほうがいい」・・・・?

ばかだな そんなわけが ないじゃないか

好きなだけ 泣いていいよ

キミの涙は キミの持つ美しい「自然」だ

それは「自然」のままに 湧き出てくるんだ

それを 押し殺したら キミは 不自然に歪んでしまうのかもしれないよ




誰かが「泣かないほうがいい」 とキミに教えたんだろう

いや もしかしたら キミ自身が そう 自分に教えこんだのかもしれない

でも なぜキミは そんな不自然なことに 

いつまでも 従っているんだい?




泣いたらいいよ

涙を 流しなさい

キミは 美しい

自然のままに 洗い流しなさい

泣いている キミは とても 美しい

キミの 自然な涙に どれだけのひとが 心 動かされるか・・・

不必要なものは なにもない

涙が 必要だから キミは それを持っているのだよ




悲しいときは 「悲しみ」を表現していい

苦しいときは 「苦しい」とぼやいている自分を 許してあげていいんだよ

そして

すべての感情を認めたら 

前に 進んでいくんだ





さあ 力を抜いてごらん

そんなに 力んで 

ハートをぴったりと塞いで 

そして キミは おもむろに 髪をかき上げている

まるで 気持ちを 切り替えるかのように

涙の感情を なかったことに 塗り替えるかのように





胸の重さ 

喉の息苦しさ

ハートからこみ上げる あなたの自然な感情を

もっと 歓迎していいんだよ




知ってるかい?

押し殺しても 消滅しないんだよ

いつまでも 溜まっていくんだよ

涙の湖は どんどん 大きく 深く 広がっていくんだ




泣いても いいんだよ

自然のままに 洗い流すんだ

泣いても いいんだよ

ハートを 溶かして


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 20:02| 詩的なもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

ドイツで七夕



ふと気づいたら、七夕でした。

ああっ!!って、朝、突然、気づいて・・・・・思い出してよかったぁ。

せっかく、特別な日なので、ドイツでも、周りを巻き込んで(笑)七夕のお願いを書こうと閃きました。

彦星と、織姫のストーリーは、美しいですね。

七夕について、外国人に説明することになって、改めて、美しいなぁ・・・・・と、日本文化にほれぼれ・・・。

でも、調べたら七夕って、中国の神話から来てるんですってね。

日本は、中国から来て、そのまま、日本文化になっているもの多いですよね。

ラーメンとかも、外国では「日本食」って言われてるけど、日本では「中華」だから、元祖の日本食ではないけど、普通にもう日本文化ですよね。

仏教も、中国から来ているしね。

どうして、こんなにご縁の深い中国なのに、日本とは、全然違うのでしょうね。不思議。

外国にいると、中国人も、日本人も、(ついでに韓国人も)、同じ顔だから違いが判らない・・・・って言われます。

日本人のわたしから見ると、身の振り方や、行動の仕方、気遣いなどで、その3国の違いがわかりますけどね〜。

話が脱線しましたが・・・・・(笑)




そのへんにあった紙でしたが、短冊形に切って、ドイツのかたがたにも、願いの短冊を書いてもらいましたよ〜。


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そして、笹はないので、観賞用の竹に吊るしてみました。


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うん、いい感じです〜。

七夕にドイツで、2回めの浴衣で外出。

地下鉄でも、街でも、珍しくて、みんな、わたしを見ていく。ははは


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 20:20| 美しき季節感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

100日間の祈りの舞 100 days of dance



わたしがいま関わっている、イギリスの動く瞑想・セラピーのコミュニティーである、ムーブメントメディスンの仲間が開いている、100days of Dance という企画に賛同しようと決めました。

これは、100日間、祈りとして踊るものです。

アメリカがあのリーダーに変わったタイミングで、仲間のある女性が、世界平和の祈りとして立ちあげた企画です。


*****


祈りは、時空を超える。

そして、古来より、地球上のどの国においても、踊ることは、祈りであった。

肉体と、エネルギーをもって、全身全霊で、祈ること、それが、踊り。


*****


数日前にこのイベントの存在を教えてもらい、わたしも参加しようと決めていましたが、ただ、参加するのではなく、なにかテーマを決めようと思って、そのアイデアがやってくるまで、宇宙にゆだねて待っていました。

自分自身が魂のままに生きていくこと・・・・、霊性を向上して生きていくこと・・・・それが、実は、世界の平和につながっていくのです。

個人が、個人の魂と・・・・人生と・・・・しっかり向き合って、みつめて、それを理解して、癒されていくことで・・・・世界は平和に向かうのです。

それが、大きな祈りとなります。

祈りとは・・・・「こうなってほしい!」と、自分のエゴで願うことではなく、個人がそれぞれ、自分と全力で向き合って、愛していく、そのアクションこそが、「存在としての祈り」となります。

わたしは、それを、ヨーガという「静の祈り」と、踊ることという「動の祈り」を通して、この人生の生き様として表現しています。

わたしが、今回の「100日間の祈りの舞」に賛同するために、フォーカスすること、祈りのソースとして使うものは・・・・・

それは、

わたしの周りにいる、ご縁のある、ひとりの人間と、ともに踊ること。

もっとわかりやすくきちんと言えば、わたしがそのある人に投影して、転移している、その人の上に見ている「わたしの内面」とともに踊る。

人間関係は、すべて、投影と転移と逆転移で成り立っているようなものです。

周りの関わるすべてのひとに、自分自身の内面や、自分自身の過去のトラウマや、自分自身に持つブロックなどを、全部、投影して、それが反映しています。

だから、

「誰か」に抱いている感情は、すべて、自分自身の中の、「なにか」に関わっているのです。

だから、わたしは、

わたしの周りのある一人を、毎日、チョイスして、その人に投影している、私自身の感情や、思いとともに踊ります。

それは、ポジティブな感情だとしても、ネガティブな感情だとしても、両方を、抱きしめながら踊ります。

許せない人や、苦手な人を、あえて選んで、その人に抱いている、自分のそのネガティブな感情とともに踊ります。

そして、それをすべて抱きしめ、みつめ、抱擁して、舞います。

大好きな人や、仲良くなりたいひとを、選んで、その人に期待していること、嬉しい思い、感謝など、すべてのポジティブな感情とともに踊ります。

表があれば、裏が必ずあるように、ポジティブな感情は、ネガティブな感情の反作用ですので、それをしっかりとみつめます。

そして、

100日間、全身全霊で祈りを続けることを宣言します。




実は、

数年前にも、わたしは100日の祈りの行を、2回、違う形で行ったことがあります。

ひとつは、マントラを100日間、毎日100回唱える行をしました。

そして、もうひとつは、100日間、インスピレーショナルなメールマガジンを100日間発信し続ける、という行をしました。

そして、いまは、

わたしはさらに、私の持つすべてを使って、祈りの行をすることを決意しました。

肉体はすべてを知っています。

肉体に秘められているブロックからの情報を受け取ることは、本当に、本当に、素晴らしいセンセーションです。

だからわたしは、動く瞑想である「自由な舞」を愛しています。

それは、自分自身を愛する・・・・・その愛を世界に発信するという、祈りのカタチです。



気がついたことなど、公表できることは、ここで、またシェアしていきたいと思っています。

ピンと来て、ともに、祈りに賛同をしたい方は、どうぞご連絡ください。

合掌
ラクシュミナラヤニ ユキ


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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 00:10| ムーブメントメディスン・シャーマニックダンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

その3 人生の中での優先順位は?



わたしが、むかし肋骨がヒビ折れたときのお話。

あれは、まだ、東京都練馬区に住んでいたころだったから、2003年くらいだったかな。

自分の体よりも、エゴを優先にしてしいたことに気づいたときのお話をシェアします。





当時は・・・・・

東京で大人気のヨーガインストラクターで、フィットネスクラブでガンガン、レッスンやっていました。

当時は、ダンスチックなエアロビクスのインストラクターもしていて、そちらも結構ファンの方がいてくださって、

そして、日本で人気が出始めてすぐのころの、ピラティスの国際認定トレーナーもしていて、プライベートトレーニングなんかも提供していました。

週に30本以上のレッスンやセッションをやって、めちゃくちゃ、忙しい生活をしていたころのことです。

毎日、くたくたに疲れて、1DKの狭いアパートの独り暮らしの部屋に、倒れこむようにして帰る日々でした。

とにかく、運動しすぎ、身体を使いすぎていたので、身体は疲労しまくっていて、ストレッチしても、マッサージしても、回復する前に、また疲労する・・・・という状態でした。

インストラクターは、運動をしながら大きな声で、ずっと喋りまくるので、声はガラガラで、時々、声がまったく出なくなってしまうことも、しょっちゅうでした。




ある日。

朝、起きると、脇腹の激痛で動けなくなりました。

痛くて、痛くて、ピクリとも動けませんでした。

どうしたものか・・・・・、今日もみっちり6レッスンも仕事が入っているのに・・・・。

傷みに悶えながら、なんとかしてベッドから出て、着替えを済ませ、さて、どうしたらいいんだろう・・・と悩みました。

これでは、ヨーガのポーズや、ダンスのインストラクションはもとより、大きな声で話をすることも、できない。

深呼吸するのも痛いし、お腹に力を入れることもできないから、トイレも恐怖でした。

そのときはちょうど、風邪を引いていて、ゲホゲホ、ずっと言っていたので、疲れた肉体が、その咳に耐えられなくて、過度に伸縮を繰り返した肋骨が、寝ている間にヒビ折れてしまった模様。

それに加えて、運動しながらマイクでしゃべり続けていて、たくさん、腹筋と横隔膜を使いすぎて、肋骨周辺の筋肉が疲労しすぎたために、耐えられずに肋骨にヒビが入った模様。





あの時は、本当に痛かった・・・・・

でも、わたしは、仕事を休めなかった。

休む気なら、代わりの人を探して休むことができたのだけれど、休んではいけない、と自分で自分を律していた。

どんなに苦しくても、つらくても、絶対に休んではいけない!・・・・と思いこんでいた。

当時、仲良くしていた鍼灸治療院の友人に連絡をして、とにかく応急でどうしたらいいかを聞き、

ドラッグストアで骨盤ベルトを買ってきて、それを肋骨にまいて、なんと、激痛の中、ダンスエアロを含む6本のレッスンを、その日はやってしまった。

仕事を休まずに、頑張った自分が、なんだかとても偉い!と思ってしまって、その後も、ずっと、激痛を我慢しながら、休まずレッスンをリードしていた。

もちろん、肋骨は悪化していって、痛くて、痛くて、本当に痛かった。

でも、なんだか、痛いのを我慢してまで頑張っている自分が、とっても偉い、と錯覚してきてしまって、そんな自分に馬鹿みたいに浸っていたんだと思う。

わたし、頑張ってるんだよ! こんなに痛いのに、がんばってるんだよ!・・・・とアピールしていたような・・・。

これは一種の、麻薬だね。 

どんどん、その「わたしこんなに頑張ってるの!」が、気持ちよくなってきてしまう。

すっごく痛ければ、痛いほど、それを我慢して、頑張れば、頑張るほど・・・・なんだか、認められるような気がしていた。

でも、違った。

結局、レッスン参加者からご意見箱にコメントをいただき、

「怪我をしても休まずレッスンしてくれるのは嬉しいけれど、ユキさんはすごく痛そうで、見ているこっちもすごくツライ。お願いだからユキさんを休ませてあげてください。身体にいいことするはずのインストラクターが、身体に苦しいことしているのは、見ていてとてもツライです。」

という内容だった。

わたしは、本当にビックリした。

自分が、間違った観念を持っていたことに、やっと気がついた。

そうか、頑張って、頑張って、苦しみの中でも頑張り通すことが、美しいのだと、勘違いしてたんだ。

そういう姿を、人々は認めてくれるのだと、勘違いしていた。

だから、尋常ではない数のレッスンを毎日、毎週こなして、「こんなに頑張っているのよ、あたし!」・・・・という、まやかしの自己満足に、ただ浸ってただけだったんだ!

頑張って、頑張って、苦しんでるわたしをみても、誰も美しいと思わないんだ。 

ああ、間違っていた。

エゴだった。

(楽しんで、頑張っている姿が、きっと美しいんだな、といまは思う)




途端に、身体がかわいそうになった。

当時は、プロポーションが良くて、写真家の方から「ヌードモデルになってくれませんか?」と言われたことも何度かあった。

いまは、歳とともに(心とともに)だいぶゆるでしまったけれど、当時は、引き締まった自慢の身体だった。

当時、わたしの商売道具のひとつとして意識していた、その身体。

本当に、酷使して、かわいそうなことをしていた。

わたしは、人から認められたいと思うばかりに、自分自身を追いこんで、痛めつけ、咳をしただけで肋骨がヒビ折れてしまうほど弱らせていた。

それに、まったく気づかずに、ただただ、「わたし、こんなに頑張っている!」という、自己満足の麻薬に憑りつかれていた。

「認められたい」という意識の中での、エゴ満足だった。

でも、それは、ただのわたしの思い違いで、そんなに頑張って、苦しんでも、誰からも認められないのに・・・・。




それから必死で、代わりにレッスンをしてくれるインストラクターを探しまくって、次の日から1週間、お仕事をお休みをした。

絶対に休めない!・・・・と思いこんでいたけれど、あっさりと代わりが見つかり、簡単にお休みすることができた。

それにも、驚いた。

やろうと思えば、こんなに簡単に仕事を休むことができるんだ。

休めない、休んではいけない、と思っていたのは、ただの幻だった。

それが幻だったとしたら、わたしは、なにに、そんなに、しがみついていたんだろう。

一番大事にしなければいけないのは、レッスンへの執着や、人から認められたい欲や、エゴ満足の馬鹿みたいな意地ではなくて、

一番大事にするべきなのは、なによりも、自分自身が本当の意味で「幸福」に感じること、なのではないか。

身体と、心と、魂の「幸福」。




この出来事は、わたしがヨーガ指導を始めてまだまもないころのこと。

当時は、ポーズだけのフィットネス形式のヨーガクラスを、たくさんの東京の有名スポーツクラブで提供しているころの経験でした。

この少しあとに、本格的な精神世界のヨーガを学び始めました。

わたしのヨーガは、身体から方向から始まったのですが、精神世界やヨーガ哲学を学ぶにつれて、すべての統合が必要なのだということ行きつきました。

身体次元の観点だけではなく、スピリチュアリティの観点だけでもなく、また、エネルギーの観点だけでもない。

すべての統合。

これはまた、別の機会に書こうと思います。



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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 14:55| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

その2 人生の中での優先順位は?



彼女は、とても大切にしている人を、両親に会わせようとした。

1か月以上も前から、その人を連れて両親を訪ねる日取りを決めていた。

両親は「仕事の様子で、時間が取れるかどうかわからない」と言っていた。

彼女はとても納得いかなかった。

どうして、1か月以上も前から告げているのに、それに合わせて、仕事を調整しようとしないのだろう。

大切な人を両親に会わせたい・・・・・と願うことって、人生で、そうそう、何度もないことなのに。



1か月後、その日が来た。

彼女は両親の住む家へと、大切な人と一緒に向かった。

父親は不在だった。

母親は「仕事が忙しくて来れないよ」と言った。

彼女は、とても悲しかったが、諦めた。

結局、家族よりも仕事のほうが大事なのだ。



彼女が連れて行った大切な人は、20時間もかけて、はるばる、ここまで来てくれた人だった。

仕事を休んで、お金をかけて、時間を費やして、体力を消耗して、はるばるやってきた。

彼女の父親は、自宅から車で20分のオフィスで働いていた。

娘の大切な人のために、たった30分でも顔を出すことさえも、考えられないほど、仕事が大事だった。

彼女は、最初から諦めていたが、それでも、やはり傷ついた。




実のところ、父親は、彼女の本当の父ではなかった。

30年近く戸籍の上では親子関係ではあるが、実際には、彼女は父親ときちんと話をしたことがほとんどなかった。

父親は、いつでも、どんなときでも、仕事が忙しかった。

彼女は、新しく父親になった人と、どうやって、新しい家族関係を築いていくのかを、誰からも習うことができなかった。

母親も、父親も、仕事が忙しかった。

だから、新しい父親とどうやって、話をしていいのか、よくわからないまま大人になった。





彼女は、小さな愚痴をこぼした。

「滅多にわたしからこんな風に、父親に歩み寄ろうとすることなんてないのに、この稀なタイミングでさえも、父は仕事を優先にするんだね。」

母は即座に言った。

「仕方がないでしょう、仕事なんだから。 わかってあげてよ。」

彼女は納得がいかなかった。

どうして、仕事だから仕方がないのか。

家族のつながりよりも、仕事のほうが大事なのか。

なぜ、母親は「わかってあげてよ」というのか。

母親は、彼女の気持ちを、わかろうとしているのか。

コントロールしようとするだけで、彼女がどれだけ傷つき、自分自身の存在価値を落としていることを教えこまれているということが、わかっているのか。




彼女は、突然、思いだした。

「仕事なんだから、仕方がないでしょう。諦めなさい。 わかってあげて。」

この言葉を、何百回、何千回と、子供のころから聞き続けているのだろう。

そして、その都度、何百回、何千回と、傷つき、悲しんだことか。

その言葉は、「自分の存在価値は仕事よりも劣るのだ」と教え込まれていることと、等しかった。



**********



好奇心を満たしたい! 世界のいろんなことに興味津々! ワクワクして仕方がないなにかをしたい!

そんな、子供だからこそ忘れずにまだ持ち続けている宝モノの輝きを、大人はいともアッサリ切り捨てようとする。

大人のルールに従わせようとする。

でも、子供は理解できない。

なんで、仕事だから無理なのか? 仕方がないのか? どうして、我慢しなければいけないのか?

人間の原動力はこの「ワクワク」が源泉となっているというのに、その源のパワーを、大人たちは理不尽な「仕事」という言葉で呪いをかける。

子供は、最初はなぜだめなのか、意味がわからない。

だから、反発する。 

なぜ仕事が優先なのか、その意味がわからないから、なぜなのか知ろうとする。

大人たちは、ダメなものはダメと、理不尽なことを言う。 

実際、大人たちも、なぜなのか、気づいていないから。

子供は永遠に、「なぜ、人間らしく生きることよりも、仕事が優先なのか」、意味がわからない。

大人は、すでに毒に侵されているから、自分がおかしいとは思わずに、子供がただワガママを言っていると勘違いする。

そして、子供から学ぶ・・・・という姿勢を忘れ、ただ、子供をコントロールして支配しようとし、無邪気に輝いている子供を、社会に沿わせたルールに従って変えようとする。

子供たちは、もともと、まず最初に、親を癒すのが目的として生まれてきた、「愛そのもの」の存在。

だから、最初は腑に落ちなくても、徐々に、親の言うことを信用しようとする。

親のことを、全面的に好きで、子供は「愛」そのものだから。

そして、親を信頼し、従い、どんどん、「ワクワク」の輝きの中で生きることを、あきらめていく。

そして、どんどん、「仕事」に縛られることが人生なのだと学び、本来の自分らしく生きることを、ただ単に見ないようにしていく。

そして、仕事が忙しくて、やりたいことはできない、それが人生だ、と自分自身で人生の道を歪めていく。

本来の「愛」そのものの存在から遠ざかり、それでも「仕方がない」と、諦めていく。

そのうち、子供は、親を疑い始める。

本来の輝きを持っていた自然のままの自分を、不自然な社会に従わせるために、変えてしまった親に疑問を抱くようになる。

しかし、親を愛する気持ちは永遠に消えないので、その葛藤に苦しむようになる。

どんどん、生きにくくなり、自分の存在価値を疑うようになる。



*********



仕事のためには、自分の大切なもの、やりたいこと、すべてを犠牲にしなければいけない。

それは、仕方がないことなのだ・・・・。

そう、彼女は、ある意味「呪い」のように、仕事優先の観念を刷り込まれているのだ、ということに気づいた。

彼女は、両親に向かって、笑顔を見せることがほとんど、なかった。

愛を感じることが、難しかった。

家庭から、愛を学ぶことが、できなかった。





「仕事だから、仕方がない」

というのは、いったいどういう意味だろう。

なぜ、仕事だから、仕方がないのか。

仕方がないって、百科事典的には、どういう意味だったか。 

諦める、って意味か。 妥協か。 認めることか。

仕事って、なんだ。

自分の健康よりも、大事なのか。

家族のつながりよりも、大事なのか。

仕事のために、笑顔を凍り付かせても、それでも仕事のほうが優位なのか。




そして、彼女は、両親のもとを訪れることがほとんど無くなった。

母親に誘われても、断る文句はいつも

「仕事が忙しいから無理」

もはや、どうやって家族の中で、愛をみつけていったらいのか、わからなかった。

だから、仕方がなかった。

「仕事なんだから、仕方がないでしょう」

と、さんざん、教え込まれたとおりに、

「仕事が忙しくて、家族とは関わらない。それは仕方がない」

という観念しか、持てなかった。

なぜなら、そう、教えられたから。



仕事って、なんだ?

健やかに、心地よく生きていくためには、収入は必要。

仕事は、不可欠。

それは、当然だ。

仕事しなければ、税金も、携帯電話も、家賃も、支払えないから、この現実社会で、快適に暮らすことができない。

だから、当然、仕事をしなければ生きていけない。

でも、仕事って、なんだ?

愛よりも、大事なのか?

呪いにかかっていないか?

仕事という「悪魔」に乗っ取られていないか?

愛って、なんだ?

後回しにしても、いいのか?

後回しにしたのなら、いつ、それは再びやってくるのか?

いま、一瞬、一瞬は、もう二度と戻ってこない。

時間は、止まらない。

あとにも、戻らない。

後回しにした「愛」は、もう、二度と取り返しがつかない。

仕事って、なんだ?

愛よりも、大事なのか?




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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 18:24| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月03日

人生の中での優先順位は?



どうしても腑に落ちないことがある。

この世界に生きていて・・・・、世間の人々を見ていて・・・・

なぜ、そんなに仕事の犠牲にならなければ、生きていけれないのだろう。

どうして、仕事が忙しいために、なにもかも、我慢しなければいけないのだろう。

なんのために、生まれたのだろう。

世界中のどこの国にいっても、結局、みんな「仕事が忙しい」の悪魔に憑りつかれている。

日本は、その悪魔が、世界中のどの国よりも、根深いと感じる。


****************************


数か月前に、日本で、ラジオから聞こえてきたこと。

ラジオのパーソナリティーは、

「仕事が忙しくて、なかなか、帰れなくて、休めなくて、恋人ができても長く続かない人が増えている」という内容のことを言っていた。

そして、「まあ、仕方がないよねぇ〜」と、それに対して、そのパーソナリティーは言っていた。

「どうしようもないんだよね、でも、なんとかならないものかね〜」みたいな話し方だった。

わたし、納得できない。

なんのために生きている?

大切な人と愛を育む時間もないほど働いて、仕事を最優先に生きて、それはいったい、なんのための人生なんだ?

わたしたちは、愛を学ぶために、この地球に生まれてきたのだというのに。

そして、「仕方がないよねぇ〜」で、他人事のように済ませてしまう、そんな世間にもわたしには同意できない。

なにやってるんだ、人間たちは。

会社のネジの一本になるために、この生命を授かったわけではない。


*******************************



わたしは、別に、仕事をやめろとか、仕事するなとか、そういうことを言っているわけではなくて。

仕事をするのは、当然だ。 

そういう現代社会だから、もちろん、仕事をしなければならない。

でも、仕事を、人生の「最優先」にするのは、違うのではないか、ということ。

「愛する」ってなんですか。

仕事してくたくたに疲れた自分を、癒してくれてる誰かを探してるんですか。

癒されるから、その人を愛するんですか。

それじゃあ、仕事してなければ、疲れてなければ、その人を愛することができないじゃないか。

そんなのは、愛じゃないと思う。

そんな関係は、すぐに壊れる。


********************************



仕事を愛している?

でも、仕事は、あなたを愛してはいないだろう。

どうして、仕事を愛していると感じるのか?

仕事から愛されることは、絶対にないというのに。

そこに、どんな、損得利益があるのか? エネルギー交歓があるのか?

きっと、仕事を愛しているのではなくて、「仕事をしている自分を愛している」のだろう。

それは、なぜ?

他人から、認められたいから?

世間から認められる自分じゃなければ、愛せないから。

そして、世間から認められなければ、誰からも愛されないと思っているから。

あなたは、ありのままでは、愛される価値がないのか?

ずっと、誰かから認められるために、頑張り続けるのか?

ありのままの自分を否定し続けるのか?


**********


仕事して、くたくたに疲れてい帰ってくると、子供がわがまま言って、さらに疲れさせる・・・・、だからうちの子は手のかかる悪い子だ・・・・って。

それは、子供のせいにしているだけではないか。

子供の「自然な生き方」に愛を感じられないほど、仕事を優先してしまって、盲目になってしまって、毒に麻痺している、自分のせいなのだとは、思わないのか。

もしも、仕事で疲れていなくて、心に余裕のある状態だったら、きっと、子供の天真爛漫なあれこれも「かわいい個性」と思えるのではないか。

子供は、ただ、いろんなことに興味があり、いろんなことにワクワクしている。

あなたが、毒されて忘れてしまった、すべてを持っているその子供の無邪気さを、仕事最優先の生活を維持するため・・・・、または、お金を稼がなければ生きて行けない、という、ローンを支払うためにお金を稼ぐこと最優先の考え方で、あなたは悪気なく、子供の無邪気さやワクワクを、簡単に握りつぶしてしまうのだろう。

それが、社会で生きていく術だと、教えるのかもしれない。

でも、わたしたち、人間は、お金を稼ぐために生まれてきたわけではない。

仕事を優先に考えてしまうことで、もっとほかの、もっと大事なものを、後回しにしようとしていないか。

「仕事を頑張っている生活」というものを持続したいがゆえに、それをある意味「妨害」するものを、すべて「邪魔者」と見ているのではないか。

子供も、「面倒をかけるもの」と、見えてしまうのかもしれない。

でも、違う見方をしたならば、子供や家族との絆を深めるための時間とエネルギーを邪魔しているのは、反対に「仕事」なのだ、という見解も存在することを忘れてはいけない。




******************



生まれて来たことに、もっと深みを持たせ、人間本来の「愛」につながっていくことを、後回しにしていないか。

「いつか時間ができたらしよう。 ゆっくり時間がとれるときにしよう」

と思っている、興味のあるあれこれを、きっと誰しも、もっているはず。

でも、確実に言えるのは、

「いつか時間が出来たら・・・」の、その「いつか」は、きっと永遠にやってこない。

おそらく、おばあちゃんやおじいちゃんになったときに、やっと時間がとれたとして、そのころには、そのやりたかったことをするエネルギーは残されていなくて、きっと、ただ朝から晩までテレビを見るだけの生活で、朽ち果てていくのだろう。

「ゆっくり時間がとれるときにしよう・・・・」と言っている、その「ゆっくり時間」は、永遠にとれないだろう。

それは、向こうからやってくるものではなくて、自分で意図して作らなければ、存在しないものだから。


*****************


人生における、優先順位は、あなたにとって、いま、どうなっているのか。

「幸福」になりたいと、みんな願っているのではないか。

それなのに、「幸福」だと感じること、または、感じるであろうことを、後回しにしていないか。

仕事ってなんだ?

お金を得る手段か。

ローンを支払うための手段か。

または、ただ、人から・・・・世間から・・・・認められたいからか。

認められると、嬉しいから、頑張るのか。

じゃあ、認められなかったら、幸福ではないのか。

そしたら、一生、頑張り続けて、人から認められることを期待して、本来の自分ではない姿で生きるのか。

それは、本当の意味で、幸福なのか。

人から認められないと、どうして、だめなのか。

人生の中での優先順位が、間違っているんじゃないか。

仕事って、なんだ?

家族のつながりよりも、仕事が大事なのか?

愛よりも、仕事が大事なのか?

自分をきちんと生きることよりも、仕事が大事なのか?

仕事は、外側の出来事に過ぎない。

仕事は、あなたそのものではない。

あなたは、自分の人生に向き合うことから目を背け、仕事が自分だと思い違いしているのではないか。

仕事は、あなたではない。

仕事は、あなたを愛してくれることは、絶対にない。

愛されたいと願っているのに、あなたは、なぜ、愛を注ぐべき対象を、すり替えるのか。

仕事をしてはいけない、と言っているわけではない。

仕事をすることは、生きていくうえで不可欠。 大事なこと。

でも、生きていくうえで、最優先にするべきことは、あなたの「幸福」と「愛」なのではないか。



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posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 22:42| 内なる豊かさへのシェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月01日

マイバースデー2017



2017年6月28日の、今年のお誕生日はドイツで迎えました。

思い返せば・・・

去年の誕生日は、インド・ヒマラヤのラマユルのチベット仏教の僧院で、天から降ってきたかのような衝撃的な祝福を受けて、

一昨年の誕生日は、ネパール・カトマンズで、本当にハートがあったかい友人たちの開いてくれたパーティで、涙が出るほど大笑いして、

そして今年は・・・・、

ドイツで朝から、大感激で踊っちゃうようなハッピーバースディを迎えました。

日本のかたからも、外国の友人たちからも、たぁーーーーくさんメッセージいただいて、Facebookって便利だなぁ、と思いました。

数えきれないほど「おめでとう〜〜〜〜!」と言ってもらえるお誕生日は、毎年、毎年、改めて、

自分自身の「存在」を、再確認させてもらえる機会だなぁ、と感動します。

わたしがこうして、ここに、存在していてもいいんだぁ・・・・、よかったぁ・・・・

と、改めて、自分の存在価値を認めさせてもらえる、たくさんの「おめでとう」に、

本当に、本当に、感謝がいっぱいです。




人生で起こるすべては、わたしの人生のテーマなのだと、知っているのです。

誰かを恨んで、誰かのせいにするのではなく、わたしは、自分自身の存在価値を、自分自身で認めていく・・・・という選択をして、

それこそが、人生にとっての最大の重要ポイントなのだと強く感じていますから、日々、自分を認めていく生き方を選んでいます。

生きてるって、ありがたいなぁ・・・、と、心から思います。




そうそう、誕生日には、浴衣を着て、ベジタリアン寿司レストランに行きましたよ。

電車と地下鉄を乗り継いでいきましたから、みんな、興味深そうに私のことを見ていました。





ドイツでも、ヨーガの活動と、ダンスの活動を、楽しみながら行っています。

でも、今回はちょっとバカンスモードにしようと思っています。

自分とたっぷり愛し合う時間とするつもりです。

そういえば、

日本の自宅を出発する日に、友人のサロンに顔を出して、そこでオラクルカードを遊びで引かせてもらいました。

カードをシャッフルし始めたらすぐに、まず最初に、カード自らピョン!と飛び出してきたのは

「休みなさい」のカードでした。あははははは!大爆笑でした!

その後、シャッフルしているときに、また、ピョン!と飛び出してきたカードは、

「あなたには大きな価値があるのです。まだまだ知られざる才能が秘めれている。謙虚になりすぎず、自分の価値を認めていきなさい」というカード。

もっと、自分を活かしなさいというメッセージでした。

そして、カードを並べて、自分の手で引いたカードは、(これだけが、自分自身で選んだカード。あとのはカードのほうから飛び出てきたから(笑))

「あなたは成功の道の上に確かに立っています。いつでも、どんなときも、あなたにとっての助けとなる人物や、出来事が起こるから、前に進むことを恐れないで。」

という、カード。

すごーーーい! 勇気づけられるわぁ〜〜〜〜。

オラクルカードは、好きです。

カードを引く前に、宇宙に委ねる、ちょっとしたおまじないをしてから引くのです。

すると、いつも、ドンピシャです。



今日はなんとなく、日常の、些細なこと、書いてみました。











posted by ユキ ラクシュミナラヤニ at 02:08| 日々のあれこれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする