海外に暮らすと、痛いほど感じる「自分の中の日本人的ふるまい」
日本人は世界一、素晴らしい国民だと私は確信しているのですが、
ひとつだけ、海外にいるととても難しく感じる「日本文化的ふるまい」があります。
それは、「答えを曖昧に濁してしまう」ところ。
日本人はですね、他者の気持ちを読み取る力が、世界一だとわたしは思うのです。
だから、「空気を読んで」そして、「察する」という力が、抜群です。
だから、全部言わなくても、そのニュアンスで感じ取る・・・・ということができると思うのですね。
でも、
外国人には、あまりその能力がないことが多いので、「んん・・・」と、顔の表情だけで伝えようと、お茶を濁していると
「どっちなんだよ!ユキ!はっきりしろ!お前は自分のことがわからないのか!? キミの自分の意見がないところが好きじゃない!」と、グッサリと指摘されてしまう。
「いやいや、違うんだよ。自分の意見がないんじゃなくて、これは優しさからの態度なんだよ」と説明しても、さっぱり理解してくれなかったりする。
相手を傷つけないように、相手を否定しすぎないように、相手の意見も尊重したいから・・・・・だから、自分の意見を主張しすぎない・・・・
という、日本人の美しいふるまいは、海外では「自信がない」という姿に見えるのだそう。
「日本人は謙虚さを美しさとするんだよ!」と、主張すると
ドイツ人の心理療法士の友人は、「いや、度を過ぎる謙虚さは、ただのエゴだよ」と、バッサリ、切られてしまう。
うーん、確かに。
心からじゃない場合の形だけの謙虚な態度は、「嫌われたくない」とか、「気に入られたい」とか、「なんとか穏便に・・・」とか、そういう謙虚さは、確かにかなりな大きな「エゴ」だよね。
・・・・と、改めて気づかされたりして。
勉強になります。はい。
わたしは、日本人の中でもかなりハッキリ、スッパリ、言い切ってしまうタイプなので、日本にいるといつも「ああ、またストレートに言いすぎてしまった。直球を投げてしまって、傷つけちゃったかな・・・」・・・と、自分で反省する日々なのですが・・・・
そんなストレートにズバズバ言ってしまう、この私でさえ「ユキは自分の意見を言わない。」と言われるのです。海外では。
わたしは、わたしが思っている自己認識よりも、違うんだなぁ〜、と改めて、自分を知るよい機会です。
とにかく、「イエス」なのか、「ノー」なのか、はっきりしろ!と言われることがとても多い。
この、ワ・タ・シ・が!・・・・ですよ!(笑)
相当、イエス、ノーが、はっきりしていて、日本人の友人ができにくい、このワタシがっ!(笑)
でもね、
日本人って、他者を思いやるがゆえに・・・、相手に合わせようとするがゆえに・・・、自分の意見を言わない・・・・という癖がついているじゃない。
だから、困っちゃいます、海外で暮らしていると。
ある友人からはハッキリと
「どっちがいい?という質問に、どっちでもいい、と答えるのは好きじゃない。それはやめてくれ。とても迷惑だ。」
とストレートに言われました。
そこに愛があって、これからも仲良くしたいからこそ、友人は、そう言ってくれているのです。(こんなふうにズバリ!言われたら、日本人同士ならへこんじゃって、関係悪くなっちゃいますよね(笑))
うん、でも、確かに。
「でも、どっちでもいいんだもん、仕方がないじゃない」
と言っても、「そんなのありえないよ。どちらか選ぶことができるだろう。できないわけないだろう」と言われる。
うん、そうだよね。どうして、どっちでもいいんだろう?
「あなたに任せます」という姿勢は、日本人特有だよね(私も含めて)。
悪く言うと「人任せ」「自分がどうしたいのかわからない」。
良く言うと「他人を立てる」「謙遜する」。
考えてみたんだ。
どうして、「どちらでもいい」って思っちゃうのか。
それは、選択することから逃げているのだと思う。
どうして、選択することから逃げるのか?
それは、選択することによって、その責任が生まれてしまうかもしれないから。
どうして、責任が生まれると思ってしまうのか?
日本では、なにもかも、上のものが責任をとる、という文化だから。
だから、選択することによって、そのいわゆる「責任者」みたいになっちゃって、それで、もしも、その選択が失敗だったら「申し訳ない・・・」という気持ちになっちゃうから。
でも、
ちょっとした選択・・・・例えば、「食後のフルーツは、リンゴと、ブドウと、どっちがいい?」みたいな選択肢。
そんなの、どっちでもいいじゃーん、って思うから、「どっちでもいいです」って答えちゃうんだけど。
外国人にそれを説明したら「どっちでもいいんだったら、どっちか選ぶこともできるだろ!」とイライラされたよ。
うん、確かにね。
別に、選択したからって責任を取らせられるわけではないのだけれど、なんとなく、選択することから逃げてしまうんだよね。
それは、やはり、日本文化の根底に「責任を取る」みたいなものがあるのも、関係しているからだと思うんだよな。
だから、誰かの独断で決定しちゃうのは怖い感じがする・・・・・・あとで、「申し訳ない」という気持ちになりたくないし、迷惑かけたくない。
それで、関係者みんなが賛成したものをみんなで納得してやろう、という形が、日本人にはベストなんだと思う。
でも、関係者全員が「どっちでもいい」って言ったとしたら、なにも進まないんだよね。
いま滞在しているヨーロッパでは、「自分の責任は自分でとる」という文化。
これからお話しするのは、ああ、そうかぁ、と思った日常の一コマですが・・・・
先日、ヴィーガン(菜食)レストランに友人が連れて行ってくれたのですね。
わたしは、卵もチーズも牛乳もほとんど摂らないのでベジタリアンよりもヴィーガンのレストランのほうが合っているのです。
そこで、お肉に似せた大豆肉みたいなのでグレイビーソースをかけたお料理と、大豆かなんかで作ったソーセージを友人が注文してくれて、それを食べてみたんですね。
私にしてみれば、そういう「お肉っぽいもの」を食べることがとても、変な感じで、それはお肉じゃないんだけど、頭が拒否しているっていうか・・・・
私の場合、お肉類を食べると、体に反応が出てしまうから、だから食べないだけなので、無理して食べないようにしているわけじゃないのですね。
だから、自然に菜食になったので、努力してヴィーガンになろうとしたわけではないので、食べれるもの(体が反応しない程度のもの)は食べます。
だから、ヴィーガンのルールの中でも、わたしは食べれるものもあります。
そういう意味では、ヴィーガンとは呼べないと思うのですけど、説明が面倒くさいので、ヴィーガンです、と名乗っていますが。
話は戻りまして・・・・
お料理はとても美味しかったし、雰囲気も素敵で、オシャレして行ったので、わたしはご満悦だったのですが・・・・・、
その日の夜、お腹が痛くなってしまって、そして、一晩明けた翌日には、足に発疹ができていて、痒くて痒くて・・・・
それを、友人に話したところ
「ははは、体がびっくりして拒否したんだねぇ。ははは〜」
みたいに、笑い飛ばしていたから、わたしは、それにもちょっと驚いたわけです。
なんで驚いたのかというと、
私は、せっかく連れて行ってくれた素敵なレストランだったのに、こんなふうに苦情みたいなこと言ってしまったら悪いかな、傷つけちゃうかな、失礼かな・・・・?、なーんて、思いながら、慎重に伝えたわけですが、
友人は、まったく「自分のせい」と思わず、笑い飛ばしたということ。
これがね、日本人同士だったらね
「ああ〜、ごめんね、そのお店、ユキちゃんには合わなかったんだね〜。ごめんね。違うお店にすればよかったね。ごめんね〜〜〜〜〜。」
みたいな感じで、ごめんねを連発して、自分のせいだ、って、連れて行ってくれた友人は思っちゃうんじゃないかな。
だから、わたしも、そう思ってもらいたくなくて慎重に話したり、または、その事実を伝えなかったりするのかな、と思う。
でも、そのドイツの友人は、まったく、これっぽっちも「ごめんね」と思っていないから、「責任を取る」という文化的姿勢が、日本とは違うんだなぁ、と強く感じました。
そうだよね、全然、自分のせいじゃないのに「ごめんなさい」「すみません」って、言い過ぎだよね、日本人って。
そんな恐れや葛藤などもあって
「本当に自分がやりたいこと」をきちんと感じることができないのかなぁ、なんて、感じてみたりする。
だから、「あなたに合わせます」的な感じになっちゃうのかな。
ヨーロッパの友人がバサリ!と指摘してくれたように
今までわたしは「謙虚さ」は素晴らしく美しいものだと自負していたけれど、
度が過ぎると「大きなエゴ」なのだということを、改めて学びました。
そして、みんなが「自分で選択」して、そしてそのすべてを納得して人生を歩んでいけば、「誰かの(なにかの)せいだ」と、外側のせいにすることも、減るのにな、と思いました。
日本は、本当に素晴らしい文化だし、いろんな国の人々と接してきて、しみじみと「世界一の国民性だ」と思うのだけれど、
日本に帰ったり、日本人の人たちと過ごすと、その、「曖昧さ」に、「嘘っぽさ」を感じてしまって、「本当にその言葉、心から思っているのかなぁ〜?」と、なんか少し居心地の悪さを感じることも事実。
日本文化の「美しさ」を、ネガティブに反映させずに、そのまま「美しい形」で利用していけたらいいのにな。
そうしたなら、もっと、芯の強い、揺るぎない日本人、自分を信じる力、それらが、これからの日本の活力として、新たな輝ける日本の未来に、つながっていけるといいな。
そんな、想いを夢見て、わたしはこれからの日本に貢献したい、と願っています。
これは、日本人への苦情ではなくて、私自身も持っている日本文化的ふるまいの一部なので、だからこそ、気づくことができるし、だからこそ、理解できることなので、
誰が悪いとか、だからダメだとか、そういうんじゃなくて、
感じたことを、ご縁のあるかたにシェアしたいな、と思いまして、
指が進むままに、ただ、つらつらと書いてみました。
つぶやきでした。